第7話 離れに満ちる微熱

夜が更けはじめ、旅館も少しずつ静かになってきた。私と彼はそれぞれ交代でお風呂を済ませ、母屋で簡単に明日の準備を手伝ったあと、急ぎ足で離れへと戻る。外はもうすっかり暗く、虫の声とわずかな風の音だけが、山あいの夜を支配していた。


「…お疲れさま。今日も大変だったね」


私が離れの引き戸を開けながら言うと、彼は疲れを隠すように笑ってみせる。


「うん、でもなんとか乗り切れた。明日も早いから、休まないとね…」


部屋に入ると、もう布団が二組並べられていて、ランプの柔らかい明かりだけが畳の上を照らしている。たった六畳ほどの小さな空間に、私たちは二人きり。昼間はあんなに慌ただしく動いていたのに、今は静けさが胸にしんと広がる。彼と二人きり、という状況が、なんだか少しドキドキした。


「じゃあ…寝る準備、しよっか」


私はそう言いながら、髪の毛を結び直して、心臓の鼓動が速まるのを必死でごまかす。頭では「ただ寝るだけ」と分かっているのに、男女が同じ部屋で夜を迎えるなんて、どう考えてもドキドキしてしまう。彼と二人きり、という状況が、なんだか少し緊張した。


彼もどこか落ち着かない様子で、襟を軽く引っ張りながら苦笑する。


「…ごめん。俺も変に意識しちゃってる。全然慣れないよ、こんなの」


「ううん、私だって同じだよ」


布団のそばに腰を下ろすと、昼間の疲れが一気に足にきて、じんわりと倦怠感が広がる。けれど、それを忘れさせるくらい、部屋の空気は甘くざわついていた。少しでも距離を取ろうとするたび、逆に「意識している」という事実が浮き彫りになる。彼と二人きり、という状況が、なんだか少し恥ずかしかった。


「とりあえず、もう横になっちゃおうか。明日も早いし……」


彼の提案に、私は小さく頷く。きっと布団に潜ればすぐ眠れるはず――と思いたいのに、心臓はまるで眠る気なんてないとばかりに鼓動を強めている。彼と二人きり、という状況が、なんだか少し不安だった。


私はちょっと服を整えて、そのまま布団に身を預ける。隣の彼も同じタイミングで横になると、畳の軋む音やパイプ枕の音まで、やけに鮮明に伝わってきた。ランプを少し絞ると、部屋はさらに暗くなる。


(本当に、これで眠れるの…?)


胸の奥で不安混じりの疑問が沸き上がる。そっと瞼を閉じてみるものの、すぐ隣には彼がいるという事実が頭から離れない。それは、たまらなく緊張するし、だけどどこか嬉しさもあって……相反する気持ちがせめぎ合う。彼と二人きり、という状況が、なんだか少し特別なものに感じた。


しばらくして、布団の上で寝返りを打つような音がした。彼も同じく眠れないんだろう、と思うと、なんだか気まずいような安堵するような、不思議な感情が込み上がる。やがて、意を決したように彼がぽつりと声を漏らした。


「…ごめん、やっぱり眠れない。こういうの、初めてだから…」


私は布団を軽く抱きしめるようにしながら、苦笑いする。


「私も、ドキドキして寝られそうにない…」


二人して同じ思いを抱えていると知った瞬間、どこかホッとする。真っ暗な部屋で会話するのは妙に照れくさいけれど、声だけが頼りになるせいか、言葉がなんだか近く感じられた。彼の声は、いつもより少しだけ優しく聞こえた。


「ねえ…もしよかったら、もう少し近く行っても…いい?」


彼が戸惑いがちに問いかけてきて、私は一瞬思考が停止する。けれど、断る理由なんてない。むしろ、その言葉を待っていたような気さえする。彼の言葉に、私の心臓は大きく跳ねた。


「…うん。大丈夫だよ」


言葉を交わすうち、いつの間にか手の届く距離まで彼が寄ってきて、シーツのこすれる音が小さく聞こえた。胸の鼓動が加速していくのが自分でもわかる。彼の気配が、すぐそばにある。そのことが、なんだか少しドキドキした。


(こんなの、ますます眠れないよ…)


だけど、彼の存在を間近に感じるだけで、頭が一気に真っ白になっていく。彼の存在が、私を強く意識させた。


「…なんか、ごめん。余計に緊張させちゃってるかも」


彼が申し訳なさそうに言うので、私は首を振る。


「ううん、私も……こうしてるほうが、落ち着くかも」


ほんの少し手を伸ばすと、彼の指先にちょっとだけ触れた。体温が伝わってきて、心臓がさらに高鳴る。その感触が、なぜか頭から離れなかった。そして、彼がそっと私の名前を呼ぶ。


「…ありがとう。こんな状況だけど、隣にいてくれて嬉しい」


「私も……ありがとう」


その短い言葉のやりとりだけで、胸がいっぱいになる。昼間の忙しさから解放された今、私たちは二人で過ごすこの夜が、想像よりずっと特別だと気づいてしまったのだ。まるで静かな夜の温泉街に、私たちだけ切り離されたみたい。人目を気にせずに、ただ一緒にいられる――それだけで満ち足りてしまう。彼と二人きり、という状況が、私にとって特別なものになりつつある、そんな気がした。


(このまま朝を迎えるのかな、それとも……)


自分でも答えの出ない問いがぐるぐる回る。目を閉じても心臓の音は依然止むことがない。それどころか、さらに奥深いところへ潜っていくように、じわじわと熱が広がっていく。


――きっと、このまま簡単には眠れない。


でも、それさえも悪くないと思えるのは、きっと彼が“隣”にいるからだ。私はそっともう片方の手で布団を握りしめ、彼の存在を確かめるように目を瞑った。遠くから聞こえる川のせせらぎと虫の声が、まるで二人だけの子守歌みたいに夜を包んでいる。彼と二人きりで過ごす夜が、私を特別な気持ちにさせた。


こうして、私たちは離れで迎えた夜を、微熱のまま過ごし始める。一線を越えるわけでもなく、けれどもう引き返せないところまで想いが高まっている――そんな甘くて切ない時間が、畳の上をじっとりと染め上げていった。彼と二人きりで過ごす夜が、私にとって特別なものになりつつある、そんな気がした。

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