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 「暇なら来て」と言われて、海のそばにあるという公園に向かっていた。

 炎天下の中遠出をするなんて正気と思えないが、しどろもどろになっているうちに連れ出されて断れなかった。


《やっぱりまだ放っておけないし、この部屋で野垂れ死んだら怖いから》

《あ、うん、まあ……》


 こんな感じだった。コンビニで買った軽食を駅のベンチで食べて、一時間近く電車に揺られている。


「あと何駅……?」

「次の次」


 カーキ色の、よれよれのTシャツを着た俺の隣に、茉莉。

 そわそわする。誰かとこうして出かけるなんて入学してから――いや、予備校に通っていた頃から――ずっと経験したことがなかった気がする。

 車内は冷房がよく効いていて快適だ。俺たち以外にも大学生っぽい人たちが二人組で会話している。あー友達なのだろうな、と思った。

 落ち着かなくてスマホのフィードを確認して、それから隣に座った横顔を眺めた。最高気温三十四度。一日快晴の予報。頬から顎をすべる影の曲線のなめらかさを視線でなぞって外を見た。チカチカと反射する光が目に痛くてすぐ逸らす。


 そのうちに、公園の名前が堂々と冠された最寄り駅に着いて降車する。ドアが開くと外気が押し寄せてきて、首から水筒を下げた子どもたちが元気よく入れ違いに乗車していく。

 駅前にある巨大な噴水から飛んでくる霧状の水飛沫が心地良かった。


「だる……」


 親子連れのはしゃいだ声に自分の場違い感を意識して思わず呟く。茉莉は何を思って俺を連れ回しているのだろう。


「いい運動じゃん」


 先を行く茉莉に追いつくよう少し足を速める。


「ここまで来たからには付き合ってよ」

「……まあ……」

「決まりな」


 振り向いた奴は嫌味っぽくない、初めて見る楽しそうな笑顔を浮かべていた。


 アスファルトの遊歩道は意外と起伏が激しく、なかなかにハードだった。バケットハットを被った茉莉はさくさくとした足取りで先に進む。


「どこまで行くんだよ……」


 額に浮かぶ汗を拭い、ひとりごちながらついていく。


「広すぎんだろ……」


 公園はとにかく広大でいくつもの施設が備わっていたが、前を行く男はそれらに足を止めることなく強い意志を持ってまっすぐ歩いていく。俺はというと、背中が汗で濡れる感覚に辟易していた。


「海まで行っちゃおうよ」


 茉莉が立ち止まって振り返る。

 海。こいつはもしかして、俺に海を見せるためにここまで連れてきたのか?

 疲れもあいまって脱力しそうになる。海を見たいなんてこの年になって考えたことがなかった。

 子どもかよ、と思う気持ちを隠せない。俺に対しては当たりが強い感じがするのに、変に無邪気というか……。

 世界がどう見えているんだろう。

 おかしな奴だ。天才で、外見も中身も浮世離れしていて。

 明るい色の前髪が額に張り付いて少し乱れていることさえ画になっていて、きらきらと輝いて見えた。


 突然、俺はこんなふうになりたかったのだと思った。

 足が止まっていた。子どもが俺たちの長い影を追い越して走っていった。

 茉莉は俺の様子に気づいたようだった。俺の隣に、戻ってくる。


「大丈夫?」


 何も言えないし、顔も見れなかった。まるで駄々をこねるように押し黙って立ち止まる自分が嫌で視線を下に向けると、ひんやりとした温度が額に触れる。


「っ!」


 どくん、と心臓が跳ねる。

 茉莉が目の前にいて手を当てていた。


「は……」

「熱はなさそうだけど」

「あ、……ああ……」


 他人の体温をこんな形で感じたことはなくて。

 それで、えっと。

 一秒って何秒だっけ。


「疲れた?」

「いや、そうじゃなくて」

「そうじゃない?」

「なんでも、ない」

「ふーん。じゃあ、行くよ」


 その時間は、すぐに終わってしまった。

 遊歩道の先には陽炎が見える。

 俺は体温が上がったような気がして、少しでも木陰に入りたくて道の端を歩いた。


 ひたすら進んでいると広場に出て、キラキラ輝く地球で一番でかい水の一部が広がっていた。まばらに人がいて皆遠くの水平線を眺めている。

 凪いだ海面を見ていると、火照った頭がすうっと平熱に戻っていく気がする。

 俺たちは、夏の海に向かって並んで立っていた。

 死ぬことばかり考えていた俺と昨日初めて喋った非凡な同級生が、汗だくになって海を見ている。

 文字にすると恥ずかしいくらい青春で笑える。

 何か言いたげに茉莉が俺を見た。あの青ではなく俺を見つめる視線。

 頬の温度がまた上がった気がした。それがウザくて、高揚した気持ちを無視した。

 少しだけこのままでいてもいいかもしれない。

 あ、帰りの乗り換えが面倒くさいからで……一人で言い訳をして向き直る。白に縁取られた波が遠くを横切っては消えていった。

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