2

 目を覚ますと知らない天井だった。

 空調が効いて心地よい室内にいる。ネットのコピペみたいな状況に、胸中が場違いにちょっと歓喜している。


「起きた?」

「っ!」


 いきなり声をかけられて大きめに息を吐いた。まだうまく声が出ない。

 茉莉が俺を見下ろしていた。起き上がろうとすると手に点滴針が挿入されていてぎょっとする。


「ここ、どこだよ……」


 やっと出た声は掠れて聞くに堪えなかった。


「病院。きみ熱中症で倒れたんだよ」

「え……」


 ここに来る前のことを思い出そうとする。炎天下の中歩き回って、死ぬことばかり考えてろくに水分も食べ物も口にしていなかったし、脱水症状に陥っていたのか。


「俺が連れてきた」

「あ、う……」


 少しの沈黙が漂う。


「……悪い……」


 死ねなかったし、助けられてしまった。

 嫌いだと思っている奴に。

 未熟な決意で他人に迷惑をかけてしまったことが情けない。

 それと自分の弱さを見られた。

 恥ずかしさと自己嫌悪でうつむく。今日初めて言葉を交わした同級生の前なのに、顔が熱くなっていって止められなかった。

 茉莉は何も言わなかった。


 問診を受けて退院の手続きをして、日常の延長のように電車に詰め込まれてただ帰る。吐き出されるように降車して、蒸されたアスファルトの上をとぼとぼと歩く。

 隣には茉莉。病院で「付き添ってあげてくださいね」と声をかけられていたので送られることを断れなかった。


「この先すぐだから、いいよ」


 沈黙に耐えられなくて口を開く。喉にまだ何かが貼りついているような感じがする。


「……また倒れられたら心配だし。それに俺もそっちだから」

「あ……悪い」


 言葉尻がすぼむ。再び沈黙が続いてぺたぺたと歩く俺たちを、ときどき車が追い越していった。


「夏は止めとけば」

「え?」


 茉莉が前を見ながら口を開く。


「夏はさ、すぐぐちゃぐちゃになるよ。きっと」


 横顔はよく見えなかった。短く返事をして、その後の言葉が出てこない。


 一人暮らしをしているアパートの敷地に差しかかった。足を止めて茉莉の方を向く。


「あの、もう大丈夫だから」

「え、七尾くんってここ住んでんの」


 目を少し見開いて、驚いたような表情は今日初めて見るものだった。名前、いつ覚えられたのか。


「俺ここの四階だよ」

「え」


 ご近所。

 まず思ったのは、なんで、よりによってという気持ち。

 ああそうか、こうも同じ環境なのに、彼は俺とまるで違うということを今日何度も思い知らされているからか。

 自分の矮小さを改めて感じて立ちすくんでいると、茉莉は少し真剣な表情になって顔を覗き込んできた。明るい色の前髪から真っ黒な目が透けている。


「帰りたくない?」

「はっ?」


 突拍子のない言葉に声が裏返った。


「一人だとまだしんどいんじゃないの。うち来る?」


 そう言って首を傾げた。髪がさらりと肩から落ちて、その仕草がなんだかすごく大人っぽく見えた。


 茉莉の部屋は、間取りが同じなのに想像していたよりも殺風景だった。俺の部屋が汚すぎるのかもしれない(一応言い訳すると、死ぬつもりだったからもう色々面倒になっていたのだ)。

 点けたばかりのエアコンがじりじりと音を立てる。茉莉は部屋の真ん中にあるローテーブルの前を促してキッチンに向かった。

 居心地悪く腰を下ろす。結局ついてきてしまったけど、気まずい。

 麦茶が入ったグラスが目の前に置かれる。


「食欲ある?」


 経験がなさすぎて、こういうときにどうしたらいいのかわからなかった。

 俺なんかに優しくしてくれると、かえって惨めな気持ちになる。茉莉は狼狽えながら何も言わずに頭を下げる俺を見て、ふんと鼻を鳴らした。

 しばらく茉莉は部屋を離れて、それから電子レンジが鳴る。二つの皿の中身はツナ缶とレタスが和えられたサラダうどんだった。


「無理なら残して」

「ぁう……わ、悪い」

「いただきます」

「……ます」


 お互い無言でぬるい麺をすする。

 茉莉はちょっとうつむいて、翅のような睫毛を震わせながら麺を口に運ぶ。

 茉莉は、その華やかな容姿と実力の高さから、学年の中でひときわ注目を集める存在だった。

 一学期が開始してすぐ、それは明らかになった。講義ではデッサンでも平面構成でも名指しで評価されていた。性格は少し無愛想で近寄りがたい雰囲気があるが、それすら孤高さを飾るものになっていた。

 才色兼備の擬人化みたいな彼の家で顔を突き合わせて、手作りの雑な夕食をご馳走になっている。葛藤する自意識と、友達みたいな時間を過ごしているこそばゆさがぐるぐると身体の中で行き場を探しているようだった。


「まだしんどいの」

「っえ」

「体調。しんどいか、って」


 どうやら彼の少し怒ったような態度は心配の気持ちに由来するらしく、声色と裏腹に視線からは気遣いが感じられた。


「だ、大丈夫……です」

「敬語じゃなくていいのに」

「あ、うん」

「……ふふっ」


 茉莉は俺の顔を見て笑った。


「なんで……」

「いや、死のうとしてた度胸はあるのになって思って」

「う……」


 図星だ。

 茉莉は相変わらずおかしそうに口角を上げている。


「まあ、生きててよかった」

「……!」


 お前にそんなことを言われる資格はない。

 何でもできて、そのうえ人に優しくできて、それで。

 感情が破裂しそうなくらいいっぱいになって、でも言い返せなくて、ぐ、とうどんが喉に詰まったようだった。

 俺のことなんかどうとも思っていなかったくせに。

 少しぶっきらぼうで優しい、まっすぐな言葉が痛かった。

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