第2話

 カーティスからの援助は断りポーターからスタート、ガイドになってから四年。僕は登山者のロザリー、ウェルムスから指名された。名から察するに女性。この山に女が挑むなんて無茶だ。


 僕は仲介者に断った。だが、ロザリーは諦めが悪い人で、家まで会いにきたのだ。


 金色のベリーショートに白い雪のような肌。瞳は晴天の空のように青い。彼女は僕と同じ年だという。


「厳しいことは百も承知しています。そのために訓練し鍛えてきました」


 上手なプシャ語を話すロザリーは何度も頭を下げる。


「私は、父が制覇できなかったエターナルクレストにどうしても挑戦したい。そのためにはアナタが必要なんです!ガイドを引き受けて下さい、お願いします」


 結局、僕は彼女のガイドを引き受けた。決めてになったのはリマだ。ロザリーはリマを二倍支払うと言った。


 カリストはチームで動く。僕がチームのリーダー。副リーダーがアイクだ。ポーター達が出発後、僕とアイク、ロザリー、登山パートナーのミシェルも出発した。


 道中にある宿泊施設に泊まり、歩くこと八日後、無事にベースキャンプに到着。僕はこれからの予定を彼女達に説明した。


「ここに数日滞在してから六千メートル付近に設営したキャンプ1(C1)まで登りベースまで下山。高度順応のため、この往復を二週間ほど繰り返します」


ミシェルが首を傾げる。


「二週間もですか?高度順応していると思いますが」

「その台詞はC1に到着してから言って下さい」


 ロザリーと同じブロンドの髪を揺らして吐き捨てるよう、ミシェルが何か言った。外国語なので分からないが、おそらく『二週間もかけなくても私達は登れる』そう言いたいのだろう。


「あの女、世界一高い山をなめている」

テントから出ると、アイクはそう言って、転がる小石に唾を吐き捨てた。


 翌日、ベースキャンプを出発。間もなく登ると、ニカ・アイスフォールと呼ばれる地帯に到着した。ここは急峻な氷の滝で、巨大な氷のブロック(セラック)やクレバスが点在している危険ゾーンだ。毎年異なった地形になるためストックを先に差し入れ慎重に進む必要がある。氷の崩落やクレバスへの転落リスクが高く、早朝の冷え込んだ時間帯に渡るのが一般的。


 大きなクレバスに到着。これから設置されている梯子はしごを渡らなければならない。梯子の幅は約三十センチ。氷に固定された命綱がある。


 僕はロザリーとミシェルの腰回りのハーネスが命綱に接続されていることを確認。


 靴底にはアイゼンが装着されている。

アイゼンとは、氷や雪上を安全に歩くための金属製のギザギザしたスパイクだ。先にアイクが渡り手本を見せる。ガイドは何度も梯子を渡っているので慣れたもの。彼はフラつきもせず、あっという間に梯子を渡る。


 次はロザリーの番。僕は彼女に声をかけた。


「いいか、足はフラットに置け。そしてハンドライン(固定ロープ)にしっかり捕まりピッケルでバランスを取りながらゆっくり一歩いっぽ進むんだ」

「はっ、はい」


 震える足を踏み出すロザリー。途中までは順調。だが、彼女は立ち止まりハンドラインから手を放す。そしてゴーグルを上げた。瞬間、グラリとバランスを崩し真下に消えてしまう。落下だ。


「ぎゃああーっ!!」


 甲高い悲鳴が谷間に響く。だが大丈夫。フィックスロープと呼ばれる命綱により宙吊りになっている状態。でもロザリーはパニックに陥り両足をバタバタさせていた。


「ハハッ」

半笑いのアイク。


 僕は慌てて梯子の中央まで歩を進めると、自身の安全を確保し、彼女に手を差し出した。


「落ち着けロザリー!命綱があるから落下しない!」

「いやああーっ!死にたくない!」


 下ばかりに顔を向け、上を見ようとしないロザリーに僕は怒号した。


「こんなんじゃ山頂まで、とても無理だぞ!」

「あっ……」


 やっと顔を上げる彼女。その顔は叱られた後の幼女のように頼りない。僕は緩く微笑んだ。


「大丈夫!深呼吸をして」

「はっ、はい」

「落ちついて、僕の手を掴むんだ」

「はい」


 なんとか引き上げ成功。渡り終えてから僕はロザリーに聞いた。


「なぜ、途中でゴーグルを外したの?」

「視界が悪いと思ったんです」

「いいか、ここから先クレバスは何ヶ所もある。いくつも梯子を渡らないといけないんだ。もう絶対にハンドラインから手を放してはダメだよ」

「はい、すみません」


 僕は再び戻りミシェルに梯子を渡るよう呼びかける。だが、彼女はロザリーの落下がショックだったようで、しゃがんで震えていた。続行不可能と判断。仕方なく、その日はベースキャンプに戻ることにした。


 翌日もC1へと登り、何とか到着。だが、C1から彼女達は高山病に悩まされることになった。予想はしていたが、かなり酷くて薬を飲んでもあまり効果はない。


 日数だけが無駄に経過してゆく。ベースキャンプのテント内、ロザリーが呟いた。


「私じゃ無理なのかな」


 僕は調理した肉料理をテーブルに置く。そして言った。


「もう、何日まともに食べてない?」

「四日ぐらいでしょうか。食欲がなくて」


 ミシェルも同じ。覇気のない表情で皿に乗った白パンをじっと見つめている。


「ハッキリ言うが、君達では無理だ。諦めた方がいい」


 刹那、ロザリーの表情が歪んだ。


「諦めたくない」

「それは、お父さんが制覇できなかった山だから?」

「そうです。でも理由はもう一つある」

「もう一つ?」

「はい。アナタと一緒に登りたかった」

「僕と?なぜ?」

「アナタのお父様が父の命の恩人だからです」

「父を知ってるの?」

「カーティス、マコーニの友人。ジョルジュと言えば分かるでしょうか?」


 カーティス!ジョルジュ、ああ…まさか。


「父がザイルを切って助けた登山家」

「そうです。ジョルジュ、ウェルムス、私の父です」


続いてミシェルが口を開く。


「私はカーティスの娘、ミシェル、マコーニよ」


彼女は俯いた。


「あの日以来、父は山に登っていない。家族より山だった人が、山から目を背けて生きてきたの。父は笑わなくなってしまったわ。いつもどこか寂しそうにしてるの」


ロザリーの涙声。

「うちの父も一緒よ。あの日以来、塞ぎ込んでしまった。口にするのはプラダとチタに申し訳ない。そればかり」


 下を向き、爪を噛むアイク。その後、彼は無言でテントを出て行った。複雑な心境だと思う。それは自分も同じだ。


 二日経過、僕は彼女達に諦めるよう説得を試みたが、二人は答えの変わりにパンにかぶりついた。肉料理も残さず平らげる。


 徐々に体力を戻して行くロザリーとミシェルに負け、僕は続行を決断。C1、C2へと高度を上げていった。


 強風で揺れるテント内。温かい紅茶を飲みながら二人と語り合う。家族のこと、趣味、彼女達は楽しそうに色んなことを話した。仏頂面だったアイクにも次第に笑顔が見られるようになる。


 登山は命がけの高い壁。それを共に力を合わせて乗り越えるのだから友情が芽生えて当然だ。


 そして一か月半後、僕らは山頂アタックに向けた一歩を踏み出すことになる。


 無事を祈り、四人でプシャの神に祈りを捧げた。


 ベースキャンプを出発しC1に到着。休息を取りC2へ。梯子にも慣れてきたようで危な気なくクリア。高山病も、登山に支障がないほど軽い。


 C2から、彼女達だけ酸素ボンベを使用しC3へ。途中の氷壁も、ザイルワークを巧みに使いこなし無事クリア。二人は並の男より根性がある。C 3から僕達も酸素を使用。危ない瞬間もあったが、何とかC 4に到着した。


 C 4出発前、僕は彼女達に言った。


「これより先は、生物が存在できない世界になる。標高八千メートルより上を皆は死の地帯、デスゾーンと呼んでいるんだ」

「デスゾーン」

「ああ、これから君達は過去の登山者の遺体に何度も遭遇するだろう」

「遺体、回収されないんですか?」

「八千メートル以上の遺体回収は困難を極める。よって放置が基本となる」

「そんな……」


 ロザリーが不安気に呟くと、ミシェルが彼女の肩を叩いた。


「ここまで辿り着いた私達なら大丈夫だよ」


「うん」

頷くロザリー。

「それに頼れるガイドが二人もいるしね」


(頼れる)

僕とアイクは視線を合わせ顔を背け合う。互いに父を亡くしてからのわだかまりが、解けぬ氷塊のように残っているからだ。


 僕は天候を確認。風は緩く降雪はない。迷わず山頂アタックを決断。去年から無線という機械が導入されベースキャンプと連絡が取れるようになった。僕は無線でアタックを報告。ベースには救助チームが待機している。救助の班長からの返事は「楽しんで」だった。


 夜明け前、装備品のチェックを行う。山頂アタック時のバッグパックは、必要最低限にしなくてはならない。酸素ボンベは一本四キロ。それを二本背負うからだ。四人を繋ぐザイルの確認終了後、僕達はC4を出発。


 暗闇の中、ヘルメットに装着したライトの明かりを頼りに緩やかな斜面を登る。途中、ロザリーがキツそうだったので僕は尋ねた。


「もしかして予備の酸素ボンベを入れた?」

「入れてません」

「なら良いけど」


 後、少しで氷壁という時、アイクが足を止める。


「すまない。ザイルワーク前に用を足して良いか?」


 ふっと嫌な予感が過ぎる。だが、「ああ、そうだな」と、僕は頷いた。


 ロザリーとミシェルは大丈夫だと言ったので、僕らは繋ぐ順番を変え、足跡のついた登山道から外れた。順番は先頭がアイク、僕、ロザリー、ミシェルだ。


 瞬間、ザッという短い音が聞こえた。それと同時に、ザイルが引っ張られ強烈な力で前方に引き倒される。


 クレバス落下。脳は瞬時に判断した。だがピッケルを雪に差し込む暇なく制御不能に陥る。


 息を呑む間も許さず、僕は一気に深い闇へと引きずり込まれた。風が耳元で唸る音。アイゼンが氷壁に擦れる音だけが響く。周囲の視界が回転した記憶を最後に何もかもが黒く染まった。


「うっ、ぐっ」


 どのぐらいの時間が経過したのだろう?気がついたのは全身を貫く痛みだった。僕は(落ちつけ)と自分に言い聞かせた。ハーネスが食い込み腰と太腿が痛い。ヘルメットは飛ばされ周囲は暗闇だが、ザイルは上へと続いている。ぶら下がっている状態。ミシェルかロザリーがピッケルを突き刺し落下を止めたようだ。


 上から声が聞こえた。


「みんな、大丈夫!」


 ミシェルの声だ。顔を上げる。僕は僅かなヘッドライトの明かりに叫んだ。


「アンカーは?」

「その声はランね!やっと声が聞けた!大丈夫、設置したわ!」

「落下してからどのぐらいの時間が過ぎた?」

「多分、二時間ぐらい」


 とりあえず命は繋ぎ止めた。


「ロザリーは?」

「落ちた!」

「ミシェルからロザリーは見えるか?」

「ヘッドランプで照らすと赤いヘルメットが見える。ロザリーよ!」

「ロザリー!無事か?」


 僕とミシェルで懸命に呼びかけるも返事はない。気を失っているようだ。下にいるはずのアイクにも声をかけるが反応はなし。僕は無線で救助を要請した。


「待ってて、今、引き上げるから!」


再びミシェルの声。僕は叫んだ。


「無理だ!僕が自力で上がるからそれまで待つんだ」

「分かった!」


 ピッケルは落下時に手放してしまった。僕はバックパックから短いロープを取り出し輪を作る。だが、輪に足をかけ体重をかけた途端、激痛が走った。右左どちらも同じ状態。どうやら骨折している。


 その時、アイクの声がした。


「うぐっ」

「アイク、気がついたか?」

「これは、どんな状況だ?」

「クレバスに落下した」


 少しの沈黙の後「悪い、俺の不注意だ」アイクは低い声でそう言った。


「アイク、ピッケルは?」

「ない」

「プルージックノットを」

「もう、作った。今から昇る」


 だが、直後に悲痛な叫び声が聞こえた。


「くそっ!両足が石になったようにいうことを聞かない!」


 骨折か凍傷か。とにかく自力で昇ることは不可能なようだ。


 下からアイクの声。


「救助要請は?」

「したが、早くて一日かかる。天候が悪ければもっとだ」

「もう、何時間ここにいる?」

「二時間ちょいだ」

「酸素……もたないな」

「ああ…酸素ボンベは二本しか持ってきてないからな」

「ロザリーは?」

「落下した。気を失っている」


 上からミシェルが叫び声がした。


「酸素ボンベ、予備を一本持ってます!」

「えっ!」

「怒られると思って黙ってましたが、ロザリーと私、バックパックにボンベ三本入れてます」


 これは嬉しい予想外だ。酸素流量を低流量にすれば一本で十時間は使用可能。だが、酸素流量を減らせば高山病悪化は免れない。加えて低体温や凍傷のリスクが伴う。彼女達は女性。この極寒に何時間も耐えられるわけがない。


 もはや、残された道は一つ。僕は呟いた。


「彼女達は、一刻も早くC4まで避難して救助を待つのが得策だ」

「ああ、その通りだ」


 アイクの声の後、視線を上げると、薄い光がクレバスの縁を頼りなく照らしている。夜明けだ。


 再びアイクの声が響いた。


「ラン、ザイルを切れ」

「分かってる」


 僕は既にナイフを手に握っている。最後、ミシェルに叫んだ。


「ミシェル、ロザリーだけならお前の力で引き上げられるな?」

「なっ、なにを言ってるの?まさか……」

「ロザリーを連れC4まで引き返し救助を待て!これはリーダー命令だ!」

「待ってよ!これじゃあ、アナタのお父さんやパパ達と一緒じゃない!」


「父さんと一緒……か」

アイクの声。


「今なら、ランの父の気持ちが分かる。責めて悪かった。長年、苦しませてごめんな」

「アイク……」


 ゴーグルの中にブワッと涙が溜まった。僕はナイフを握る手に力を込める。だが、その時「だめえーーっ!!」という絶叫が氷壁を突き刺した。


 視界を振り上げる。そこには赤い両足をバタバタと動かしているロザリーがいた。


「ザイルを切ったら許さない!切るなら私も一緒に落ちるから!」

「ロザリー!」


叫んだのはミシェルだ。


「ミシェル、待ってて!プルージックノットで昇るから」

「ロザリー!ああ……良かった」


 ロザリーは手早くロープで輪を作り、徐々にだが上昇してゆく。見る限り怪我はしていないようだ。


 だが、どうやって男二人を引き上げる?


 昇りきり縁から僕を見下ろすロザリー。彼女は勝ち誇ったように叫んだ。


「私、ダブルプーリーを持ってる!」


 ダブルプーリーとは引き上げる滑車装置のことだ。普通は救助隊が持っているものだが。


「父のように悔やみたくない!だから予備酸素と一緒に持ってきたの!」


 ああ、なんてことだ。


 ロザリーとミシェルは安全の高いアンカーを設置。複数の滑車装置を取り出し、ザイルに取り付ける。まずはシングルプーリーでザイルを通し、さらにダブルプーリーを連結させた。


 この作業工程の音を僕は知っている。ポーター時代、救助チームにもいたことがあるからだ。


 滑車装置が設置されると、手動のホイストを使ってザイルを引き始める。ザイルが徐々に伸び、身体が少しずつ引き上げられていく。彼女達により僕らは無事に引き上げられた。


 動けない僕とアイクは、そのまま救助を待つことになったが、予備の酸素を四人で少しずつ順番に吸い、励まし合った。酸素残量が終わる頃、救助隊が到着。なんとか生還を果たすことになる。


 その後、アイクは両足骨折と凍傷により右手の人差し指と中指を切断。足の指も三本失った。僕は全身打撲、腰と両足骨折。凍傷は免れた。


 ロザリーとミシェルは低体温による意識混濁。後は凍傷だったが軽かったため切断せずにすんだ。


 四人共、首都の病院に入院。病室ではアイクの母と僕の母が泣きじゃくっていたっけ。


 カーティスさんとジョルジュさんも見舞いにきてくれた。二人とも酷く泣いていたので、僕とアイクはこう言った。


「僕達の父は正しかった。それを証明してくれるのはカーティスさんとジョルジュさんしかいません。もし父達に償うとしたら、二人が元気で前に進むこと。それしかないと思います」


 ジョルジュさんはこう尋ねた。


「我々に、もう一度、エターナルクレストに挑む資格があると思うかい?」


僕はアイクと微笑み合った後、元気に答える。


「僕とアイクにガイドをさせてくれるのなら、ありますよ」


 母には泣かれたが、僕はこの仕事が天職だと思っているので続けるつもりだ。それはアイクも同じこと。


 五年後。


 雪と氷に覆われた尖った形状。周囲の山々も平伏してしまうほど際立つ山。その山頂に、今、僕は立っている。


 横にはカーティスさん、その横には義足をつけたジョルジュさん。アイクは酸素マスクを外して雄叫びをあげている。彼はいつも元気だ。そんなアイクには村で帰りを待つ妻がいる。


再び叫ぶアイク。

「ミシェル!すぐ帰るぞおおーっ!」


 そう、ミシェルとアイクは結婚して二年になる。ミシェルは今回の登山に同行する予定だったが、急遽、断念した。腹にアイクの子が宿ったからだ。


「ああ〜、この景色が見れないなんてミシェルが可哀想」


 強風に揺れるプシャの旗に祈りを捧げながら妻が嘆いたので僕は彼女の肩を抱いた。


「ロザリー、またくれば良いよ」

「ランったら、ここをどこだと思ってるの?そんな気軽に言わないで」

「ははっ」


 だが、僕にとったらここが職場。雲海が広がるこの絶景、僕は後、何回見渡せるだろうか?


 登山家を虜にする残酷な山、父が眠る慕情の山、エターナルクレスト。


 君は今日もこの場所に聳え立つ。つくづく思うが、見上げても見下ろしても、君は偉大だ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

エターナルクレスト あおい @erimokomoko

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画