④汚部屋にメイドは立ってた、天使みたいに?
「ただいまー!」
スミレは玄関のドアを開き元気に言った。
その声が意外に響いて、河北は一瞬耳を疑った。
自分の家にこんな明るい声が響く日が来るなんて思ってもいなかったからだ。
「手を洗いたいんですけど、洗面所どちらですか?」
「ん、こっち」
河北は少し間を置いてから案内した。
スミレの目線があちこちに泳ぐのを感じて、内心少し焦る。
洗面所が汚れていたらどうしよう、と急に気になったが、案外きれいだったことにほっとする。
スミレは洗面所の蛇口をひねり、丁寧に手を洗い始める。
指先まできれいに洗うその姿がどこか上品で、河北は目のやり場に困った。
「…タオル、いるか?」
「あっ、すみません」
スミレは鞄からハンカチを出そうとするが、河北は先にタオルを差し出した。
「ほら、これ。ちゃんと洗濯してるから」
「ありがとうございます」
柔らかな笑みを浮かべてタオルを受け取るスミレに、河北はなぜか少し照れる。
「河北くんも手を洗ってくださいね?」
「は?」
「風邪ひいちゃいますし」
「……はいはい、わかったよ」
河北は渋々といった様子で蛇口をひねり、水で手を洗う。
スミレが満足そうに頷くのが、なんだか妙に悔しかった。
リビングへ行くと、すぐにスミレはテーブルの上に置いたペットボトルを出した。
「いただきますね。河北くんも飲みますか?」
「いらねえよ」
スミレは少し考え込むような顔をしてペットボトルをみつめていた。
「あ、紙コップでも買ってくりゃよかったな、うち、コップとか存在してねえわ」
「ん…大丈夫です」
スミレはペットボトルを頑張って持ち上げ、そのまま口をつけた。
ペットボトルの水が喉を通る音が微かに聞こえた気がして、河北は思わず視線をそらした。
飲み終わると、スミレは満足そうに口角を上げ、河北の顔を見た。
「ふふん」
その表情があまりにも得意げで、何かを勝ち取ったかのような顔だった。
「……なんだその顔」
河北が低く呟くと、スミレは屈託なく笑った。
その瞬間、河北の中で妙な感情が膨らんだ。
何かに負けたような、翻弄されたような悔しさ。
それは、言葉にするにはあまりにちっぽけな感情だと思ったが、放っておくこともできなかった。
「やっぱ俺も飲むわ」
そう言いながら、河北はスミレの手からペットボトルを奪おうとした。
「えっ、えっ、ちょっと待ってください!えええ……同じので飲むんですか?」
スミレの声は一気に上擦り、目が大きく見開かれた。その動揺が、河北の中の意地悪心をくすぐる。
「別にいいだろ、俺が買ったし?」
「よくないですよ!話が違います……」
スミレの必死な言葉がどこか滑稽で、河北はつい笑いそうになるのをこらえた。
「ほら、貸せよ」
「だ、だめです!」
「いいから」
スミレの手を軽く払い、河北はペットボトルを奪い取る。
ふわふわの頬がみるみる赤く染まっていくのがわかった。
「じ、自分で買えばよかった」
河北はスミレの言葉に少し得意げな笑みを浮かべながら、ペットボトルを手に取った。
「バカ、嘘だよ」
軽い口調でそう言って、ペットボトルをそのままスミレに返す。
「えっ……」
スミレは目をぱちくりさせた後、どこか気まずそうにボトルを受け取った。
「……ほら、そんなに驚くなよ」
スミレはペットボトルを握りしめたまま、小さく息をついた。
「ひぇ……って感じです……」
そのつぶやきに、河北は思わず吹き出しそうになる。
だが同時に、自分が少し子供っぽい意地悪をしたことへの罪悪感がじわりと湧いてきた。
「お前、ずっと言動不一致なのな」
河北が半笑いで言うと、スミレはぷいっと横を向いた。
自分の胸がぎゅっと締め付けられるのを感じた。
なんてことはない、ただ飲み物を返しただけだ。
けれど、その「なんてことはない」が今、自分をどうしようもなく揺さぶっている。
あの時、スミレの唇が触れた場所に、自分が口をつける可能性があったという事実が、まるで地雷のように頭の中で何度も炸裂している。
指先に残るペットボトルの冷たい感触と水滴が拍車をかける。
――間接キス。
頭の中でその言葉が何度も反響する。
ああ、くそ、バカかよ。
そう思って振り払おうとするが、一度芽生えた意識は簡単には消えてくれない。
スミレは怒ったように顔をそむけている。
あの赤い耳の後ろに隠された表情が気になる。
けれど同時に、それを見たいようで見たくない自分もいる。
「……ほんと、いちいちムカつく女だな」
呟きが思わず口から漏れる。
自分でも分かっている。
この動揺はスミレがイラつかせてくるから、仕方なくした行動だった――なんて理由にならない言い訳だ。
スミレが自信満々で「ふふん」と笑ったから、意地悪をしてやりたくなった。
ただそれだけだ。
だけど、スミレの飲みかけを自分が――その瞬間があったのだと認識した途端、言いようのない感覚が胸を埋め尽くした。
まるで世界の重力が変わったみたいに、手足がふわふわと宙を漂うような感覚。
そして、心臓だけが妙にリアルに鼓動している。
「……やべえな」
バカみたいな言葉が出る。
いや、ほんとにやばいのかもしれない。
これまで何度も冷静さを失ったことはあったけれど、この動揺はまた別物だ。
河北は自分の髪をくしゃくしゃと触った。
スミレの視線がこちらに向いていないのを幸いに、顔を伏せる。
――なんだこれ。
ただのペットボトルひとつで、心臓がここまで暴れるなんてあり得ない。
これ、たぶん、相当やばい。
なんでもない仕草、なんでもない言葉、なんでもないペットボトル。
そのどれもが、どうしてこんなにも自分を翻弄してくるのか。
河北はもう一度、大きく息を吐いて言った。
「なあ、まだ怒ってんのか?」
その問いかけに、スミレは一瞬だけ振り返った。
その顔は、やっぱり少し赤みを帯びている。
怒りか、それとも別の感情かはわからない。
ただ、彼女の視線はすぐに下へ向けられ、手元に目を落とす。
「……怒ってませんけど?」
ふてくされた声が返ってくる。その響きが可愛らしくて、河北は思わず笑いそうになる。
いや、笑えない。何を笑うんだ。
今の状況を作ったのは紛れもなく自分だ。
「なんだよ」
「なんでもないです」
スミレはそう言いながらペットボトルを両手でぎゅっと握った。
小さな仕草ひとつで、河北の心臓がまた跳ねる。
なんでもないことを、なんでもなくしようとしているのは、たぶん自分たち二人ともだ。
「……へえ」
スミレがその小さな体で「なんでもない」を演じているのが、ひどく切なかった。
河北は何か声をかけたくなった。けれど、どう切り出せばいいのかわからない。
そのくせ、スミレが一瞬こちらを見た時には、何も言えないまま彼女の表情を探ってしまう。
「河北くん、そんなにじっと見てどうしたんです?」
「……いや、お前、ほんと、変なやつだよな」
つい目をそらして、心を隠そうとする。
そんな不器用な自分が、余計に情けなかった。
「そうですか?」
彼女の口元が、ふっとわずかに持ち上がる。それは皮肉にも見えるし、照れ隠しのようでもあった。
「……けどさ」
「はい?」
スミレは再び河北の声に反応し、こちらをまっすぐと見た。
河北はつい顔をしかめる。言葉が喉の奥に引っかかって、うまく出てこない。
「お前の『なんでもない』って、ほんとに何もないの?」
スミレの目が少しだけ見開かれる。それが驚きなのか、別の感情なのかはわからない。
ただ、静かな部屋の中でその瞳が微かに揺れるのを、河北は確かに感じた。
「……なんでもないですよ、ほんとに」
スミレの声は柔らかい。それなのに、その言葉がまるで壁のように河北の前に立ちはだかる。
河北はその壁に触れたくて、そして壊してしまいたい。
「あっそ…まあ、いいけどよ」
「変な人。私、会社に電話しないと…でした」
スミレが部屋を出ていくと、河北は一人残されたリビングでふうっと息を吐いた。
緊張の糸が切れたような感覚に、思わず頭を掻きむしる。
「……なんでもない、か」
呟いてみても、その言葉が耳に残る。
どうしてもその「なんでもない」の裏に何かが隠されている気がしてならない。
そんなことを考える自分が情けなくて、河北は自室へ行きベッドに転がるように腰を下ろした。
眼鏡を外して、乱暴にベッドの端に投げる。
カシャンと小さな音がした。
モヤモヤとした感情を整理できないまま、スマホを手に取る。
マネージャーへの連絡を思い出し、そっけない文面を打ち込む。
「メイド今日から雇いました返信不要」
送信ボタンを押し、画面が閉じると、また静かな空間に戻った。
自分の体が妙に重く感じて、ベッドに顔をうずめる。
「今日から、か……」
自分の言葉に、河北は苦笑した。
今日から一緒に暮らす。そう考えると、胸の中で何かがざわざわと揺れた。
人と暮らすなんて、何年ぶりだろう。
昔一緒に住んでいた旧友のことを思い出す。
仲たがいしたあの頃の記憶が、ふと脳裏をよぎった。
理由なんて些細なことだった。
ゲームの練習で気が立っていた自分が、相手の気持ちを汲むことなくぶつかり合った。
それが修復不可能な溝を生んだ。
「……こんどは、失敗しねえよな」
独り言ちた声がやけに小さく響く。
天井を見つめた。
失敗したくないと、そう思う自分がスミレの「なんでもない」に触れることで、壊れてしまうのではないかという不安がある。
河北はスマホを置き、目を閉じた。
「ちゃんとやんなきゃな」
ポケットの中でスマホが振動した気がして取り出したが、通知は何もない。
送ったメッセージの「返信不要」という文言が、妙に寂しく思えた。
マネージャーのめんどくさい電話すら、今なら欲しいくらいだ。
苦笑しながら、スマホも床に投げる。
再度目を閉じれば優しくて、甘くて、スミレの柔らかな微笑みが浮かぶ。
それが本物かどうかなんてわからない。
ただ、その笑顔を信じたいと思う自分がいることは、どうしようもなく確かな事実だった。
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