⑤汚部屋にメイドは立ってた、天使みたいに?

スミレはリビングのドアを閉めて、洗面所でスマホの画面を見つめていた。

メッセージアプリには部署の上司である遠藤からのスタンプが表示されている。

可愛らしいゴメンネ!のスタンプとともに、河北家の住所が記されたメッセージが目に入る。


「……あの女ッ」


思わず小さく呟いたスミレは、画面をスワイプして会社へ折り返しの電話をかけた。

数回のコールの後、遠藤が出た。


「やっほー、スミレちゃん。今朝はごめんね!大丈夫?レイプされてない~?」


遠藤の明るい声が受話口から飛び込んでくる。その軽さに、スミレは眉間にシワを寄せた。


「はい、元気ですよ……遠藤さんお腹は大丈夫ですか?」


「うん、ありがと!営業さんも来ないなんて思わなくて、ほんっと、びっくりだよねえ」


「……そうですね?びっくりしますよね」


スミレは声に抑えた怒りを滲ませながら返事をする。

遠藤は気づかないふりをして話を続けた。


「こんな時間ってことは玄関までは入れたってこと?どうする?今から出社する?」


「契約、成立しました」


その言葉を告げると、電話の向こうで一瞬の静寂が訪れた。そして次の瞬間、遠藤の大きな笑い声が響いた。


「えーーーっ、マジで!?賭けに勝っちゃった!」


「……何の話ですか?」


スミレの声が冷たくなる。遠藤はお構いなしに続けた。


「いやさ、最初にあのクレーム電話に出た竹田ちゃんと賭けてたの!」


「はあ……」


「竹田ちゃんって、ほら、スミレちゃんのこと好きじゃん?だから超真剣だったのよ。『スミレ先輩が負けるわけありません!』とか言ってさー。でもさー、そりゃあのおっぱい見せられたらねえ、負けるって!」


「……遠藤さん?」


スミレの声にはっきりと怒りが滲む。

けれど遠藤は気にする様子もなく、笑い声を止めない。


「で、どうなの?既成事実とかさー、済んだわけ?」


「答える必要はありませんよね、それ」


きっぱりとそう返す。


「ええっ意味深~~!ふふ、じゃあこれで今日付けで転籍する書類、出しとくね!新天地でもがんばってね!」


その言葉に、スミレは手が止まった。

転籍。その響きが胸の中で響く。

河北が断れば、スミレは元の所属に戻れたのだった。


「…承知しました」


「あっ、竹田ちゃんが電話代わりたいって」


「はあ……」


「スミレ先輩! 本当に契約しちゃったんですか? どうしてあんなクソ男のところに行くんですか!?」


スミレは思わずスマホを耳から離した。相変わらず声が高く大きい。

常にこの喋り方で常識人もクレーマーへと変える天賦の才がある。


「竹田さん、大丈夫ですよ。そんなに心配しなくても…」


「大丈夫じゃないですよ! 私がクレーム対応をちゃんとしていれば、スミレ先輩がこんなことになる必要なかったのに……! 私がもっと頑張っていれば……先輩を売春婦になんてっ…」


竹田の声には本気の悔しさが滲んでいた。

スミレはため息を隠し、少し落ち着いた声で応えた。


「そんなことないですよ。誰のせいでもないですし、私はちゃんと自分で決めたんですから、あと現場業務の人を売春婦というのはやめましょうね…」


「でも、ううっ…やっぱりあんな熱烈プロポーズをする男の方がいいんですね!?やはり女はダメなんですか先輩は……」


竹田の言葉がヒートアップしていくのを、スミレはやんわりと遮る。


「竹田さん、また勝手に遠藤さんのアカウントで通話履歴聞いたんですね。ダメですよ。それより、お仕事頑張ってください。竹田さんは優しい心の持ち主ですからね。困ったらまたお話しましょう」


竹田は納得していない様子だったが、後ろから遠藤に業務に戻れと怒られているようでしぶしぶ電話を切った。


スミレはまた一つため息をつき、スマホの着信履歴を確認する。

もう一つの未対応着信は、河北のマネージャーからだった。


掛け直すとワンコールで赤い眼鏡のマネージャーは出た。

すぐに冷酷そうな声が電話越しに響く。


「はい、河北からメール確認しました。契約したんですね」


「ええ、今日からお世話になります」


「仕事を全うしてください。それから、河北が死んだとか、よほどの緊急事態でない限り、二度とこちらに連絡しないでください。河北に勘ぐられたら面倒なので」


突き放すような冷たい声だったが、スミレは特に気にせず、「承知しました」とだけ返して電話を切って通話履歴から消した。


緊張の糸が切れて、洗面所の床に座り、顔を両手で覆った。

深く吐き出したため息が、部屋の静けさに溶けていく。


「……ああああああっ」


来年には、このどうしようもない人生に幕を引くつもりだった。

だから、この仕事を引き受けたのも、どこか無責任だったのだ。

失って困るような仕事ではない。代わりなどいくらでもいる。

それでも、他人の人生を預かるという重みが、この薄っぺらい日々を百倍にも重くしていた。


「……まあ、いいか。人生はしょせん死ぬまでの暇つぶし…誰の言葉だっけ」


ぽつりと零れた独り言は、自分自身への苦笑だった。

スミレは洗面所の天井に据えられた白いライトを見上げる。淡い光が、どこにも影を落とさない。

それなのに、その光を受けた自分の影だけは、薄く床に滲んでいる。


誰かの人生を預かるなんて、どんな資格があっても間違いだ。

その重みが肩にのしかかるたび、足元の影が自分を縛るような気がしてならない。

それでも、河北のことを思い出すと、不思議とその影の輪郭が薄らいでいくような気がする。


まだ片付けも済んでいない荒れた部屋、埃っぽい空気、彼のぶっきらぼうな声。

その全てがどうしようもなく不器用で、ただ、それがひどく愛おしく思えた。


「だりぃな」


自分に言い聞かせるように呟いたその言葉は、きっと誰にも届かない。

けれど、今はそれでいい気がした。

おまけ人生の1日目は、まだ始まったばかりだった。




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夜風が窓ガラスを軽く叩きつける音が聞こえる。

海に近いその高層ビルのオフィスで、竹田と遠藤が向かい合っていた。


「どうしてなんですか!」


竹田は声を荒げて遠藤に詰め寄る。


「どうして遠藤さんは、先輩が契約を成立させるなんて賭けをしたんですか!」


遠藤は竹田の熱量を楽しむように笑い、テーブルの上に置いたコーヒーカップを指で軽く回した。


「竹田ちゃんは本当にピュアピュアねぇ。スミレちゃんはね、才能があるのよ」


竹田は目を丸くし、首を横に振った。


「何の才能ですか!先輩はただの、優秀で真面目な動物好きのやさしい女ですよ!」


遠藤は肩をすくめ、カップを持ち上げて一口すすった。


「ふふ、真面目? まあ、確かに表向きはそう見えるわね。でもねぇ、スミレちゃんに惚れた人たちは皆、言うのよ。『あの女のせいで人生めちゃくちゃになった』ってね」


「……そんなのデマです!」


遠藤は窓越しに見える夜景を見ながら、静かに微笑む。


「デマねえ。じゃあ、うちのオフィスにある『スミレ被害者の会』も、デマで集まった連中だと思う?」


「被害者の会……?」


竹田は言葉を失った。


「ねっ、竹田ちゃんも会員さんだね」


遠藤は竹田を見つめ、意味深に微笑んだ。


「スミレさんはね、付き合った人をめちゃくちゃにする天才なのよ。なのに本人は、ちょっと付き合うとすぐ突き放すの~!やばいでしょ」


竹田は拳をぎゅっと握り締めた。


「そんな……私はバカな男と違います、一緒にしないでください!」


遠藤は声を上げて笑い、立ち上がった。


「うんうん、みんな最初はそう言うの。さ、お仕事に戻りなさい」


竹田は唇を噛み、窓の外に広がる暗い海を睨みつけた。


自分の席へ帰り、今朝出社時に気づいた付箋を指で撫でる。


”竹田さんへ。明日もし私が会社に来なかったら駐車場の猫ちゃんに餌たのみます”


「私もねこちゃんも、被害者じゃないですよねえ」


竹田はため息をついて、電話を取った。

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