③汚部屋にメイドは立ってた、天使みたいに?③

とりあえず、やることはもう決まっている。

河北はスミレが大事そうに握っていた契約書の封筒を取り、玄関へ向かう。

後ろからスミレも追いかけてくる。


「おい、まず郵便局行くぞ」


「はあ、郵便局、ですか」


「お前の気が変わらないうちに契約書送るから」


「変わりませんよ、気なんて」


スミレは優しく微笑んで靴を履いていた。

不釣り合いなパンキッシュなローファーがよく似合っている。


「そ、速達で送るからな…」


「ええ、普通郵便でいいでしょう。もったいないですよ」


速達で送り、派遣会社で許可が下りるまで何日かかるのだろうか。

それまでにスミレの気が変わらないかが、河北は心配だったのだ。

2日くらいだろうか、その間に掃除するか…いや、掃除業者でも呼ぶか。

でもメイドを雇うのに掃除業者雇ったら、スミレにバカと思われるだろうか。


そんなことを考えながら河北がサンダルを履きドアを開けると、大きな黄緑色のトランクがあった。


「あっ、あああっ……忘れてました…」


スミレが慌てて外に出て大きなトランクを、重そうに、よいしょと家の中に入れる。

海外旅行サイズだろうか。


「…お前の?」


「はい!断られた時に悲しいので、いったん外に置いておいた…でした」


河北はスミレをなんとも健気だと思うのもつかの間、すぐに疑問がわく。


「これお前の荷物ってこと?」


「そうですね、今日からミニマリスト目指そうと思って服くらいしか入ってませんけど」


髪がふわりと揺れる。

河北はその仕草に微妙に心が揺れつつも、眉間にシワを寄せる。


「…ちょっと待て、お前いつから住むんだよ」


「そりゃ今日からですけど…」


「おい、寝るとこねえぞ!」


河北は思わず声を荒げた。

彼の頭に浮かぶのは、とてもじゃないけど汚い自室のベッドだった、

こんな場所で暮らせるわけがない。


「あ、私けっこう、毛布一枚あれば…廊下とかでも寝れます」


スミレは明るく言い放ったが、彼女の無邪気さが河北の焦りを煽った。



「…ちょっと、どこかホテルとか取るしかねえな」


「はあ!?えっ、ホテル」


スミレの頬が真っ赤に染まった。予想外の反応に、河北は顔を背ける。


「バカか、普通のだよ!お前だけ泊まれ、それかちょっといったんお家に帰れ」


「あ、すみません…」


スミレは視線を落とし、小さくため息をついた。

その表情に妙な罪悪感が芽生え、河北は苛立たしげに息を吐く。


河北は目をそらしながら、玄関に立つスミレの肩越しに見えるスーツケースをもう一度眺めた。

大きいけど小さい。

彼女の生活が、この小さな箱にすべて詰め込まれているのだろうかと思うと、なんだか不安になった。


「…本当に、帰る場所とかないのかよ?」

「いや、ありますよ、一応。でも帰ったら負けかなって思ってます」


スミレはどこか挑戦的な笑みを浮かべた。

だが、その瞳の奥には小さな不安の色が見え隠れしている。


河北は内心でため息をついた。

彼はしばらく黙った後、意を決したように口を開く。


「…とりあえず、ベッドは明日買いに行くとして…片付けてソファとかでいいか?」


「えっ、いいんですか?わーい、勝ち、ですね」


スミレの目が輝いた。河北は「うるせえな」と照れ隠しに舌打ちをした。


夕方の住宅街は静かで、日が暮れ始めていた。

スミレは手を擦り合わせながら歩き、河北は小さなバッグを肩にかけた彼女を横目で見た。


「寒いなら手袋とか持ってこいよ」


「忘れちゃいました。急だったので」


「そりゃ悪かったな」


河北はポケットに手を突っ込んだままそっぽを向く。


歩いて5分のコンビニ前のポストへ契約書を入れた。


「これで契約完了、か?」


河北はスミレの顔を見た。


「はい、そうですね。家に帰ったら会社に電話をするので、ご主人様も赤眼鏡に連絡した方がいいんじゃないですか」


河北は赤眼鏡--柴崎マネジの顔を思い出して気分が悪くなった。

電話なんかしたら小言が止まらないだろう。


「お前、普段何飲むの?」


「お水があればいいです」


「あー…水道水しかねえけど」


スミレは、あっけにとられたように目を丸くした。

「それはそれで飲めますけど…」


「いやいや、こんな時代にそれはねえだろ。ほら、コンビニ行くぞ」


ドアを開けると、暖かい空気が二人を迎え入れた。


「大きな水のボトルがいいですね」とスミレが言うと、河北は水の棚を指さした。


「ほら、好きなの選べよ」


スミレは少し迷った後、2リットルのボトルを手に取った。


「はい、お水、です!」


「…ほんとに水かよ」


二人は飲み物を手にレジに向かおうとしたが、ふと河北が日用品の棚に目を向けた。


「なんか、いるのないの?」


スミレは少し考え込むように眉を寄せた。

「あ、歯ブラシ忘れちゃいました」


「歯ブラシねえ。ほら、これでいいだろ」


スミレに見せた歯ブラシは、淡いピンク色のシンプルなデザインだった。


「ありがとうございます、それで大丈夫です」


そう言うスミレの声は、どこか控えめだ。

河北はその隣でふともう一本、青い歯ブラシを手に取った。


「俺のも買っとくわ」


「お、色違いですね」


河北は返事もせず、足早にレジへ向かった。


慌ててついてきたスミレは財布を取り出そうとするが、河北が手で制する。


「いいから、今後一年、お前の財布は出すな」


「でも、そんな…」


スミレは申し訳なさそうに眉を下げ、どう言葉にしていいのか分からない様子だった。


「成金の財布とか気にすんなって」


河北の言葉は、どこか照れ隠しのようだった。それでもスミレはその場で頭を下げた。


「…ありがとうございます。本当に、ご主人様は優しいですね」


「いや、歯ブラシと水買っただけでそれ言うなよ」


河北は少し顔を赤らめながら、袋を手にして店を出た。

冷たい風が二人の間をすり抜ける。

コンビニの袋が河北の手で揺れ、歯ブラシの硬い輪郭がビニール越しにわずかに浮かび上がっていた。

スミレは一歩後ろを歩きながら、ふわりとした息を吐く。

その気配を背中で感じながら、河北はどうにも落ち着かない胸の内を抱えていた。


不意に足を止め、河北は振り返る。

「と、とりあえずさ……“ご主人様”ってやめね?」


スミレはぱちりと目を瞬かせる。

「え?」


河北は視線をどこに置けばいいのか分からず、長い髪をかきながら続けた。


「友達から始めるって話しただろ?だから、普通に呼べよ」


その言葉に、スミレは目を丸くして考え込む。


「えっと、じゃあ……“河北”…」


「えっ……」河北の眉が大きく動く。


「えっ……?」スミレは首をかしげる。


「いや、呼び捨て!?それ…友達っていうか……なんか乱暴じゃね?」


スミレはさらに困惑した表情で河北を見上げた。


「でも……私、男友達ってそう呼びますけど……」


「いやお前交友関係おかしいだろ!」


河北は声を少し荒げてしまい、急いで言葉を補う。


「も、もうちょっと…なんかねぇの…」


スミレは小さく首をかしげた後、ゆっくり頷いた。


「……わかりました。じゃあ、“河北くん”…?」


「お、おう…スミレ…?」


河北はどこかホッとしたような、でも微妙に心に刺さるものを感じながら頷いた。


だが、次の瞬間、スミレが静かな声で尋ねてきた。


「河北くん…は女友達を下の名前で呼び捨てにするんですか?」


河北は息を詰める。まさかそんな方向から突っ込まれるとは思わなかった。


「なんだよ、変か?」


スミレは顔に微かな影を落としながら首を振った。


「いえいえ、聞いただけじゃないですか」


その仕草がどこか挑戦的に見えて、河北は余計に落ち着かなくなった。

女友達、女友達、と頭の中でその言葉が反響する。

呼び捨てにするどころか、そもそもそんな存在がいない事実を、ここで白状するわけにはいかない。


「べ、別にいいだろ。下の名前呼び捨てくらい普通だろ!」


妙に強い口調で言い返した後、自分でも無意味にイラついていることに気づいて、河北は内心で舌打ちする。


しかし、スミレはそんな彼をじっと見つめた後、ふっと笑みを浮かべた。


「普通でしたか、すみません」


「思ってねえだろ…」

河北は顔をそらしながら、低くつぶやいた。

その声はスミレの耳に届いたかどうか分からない。


少し歩いた後、河北は不意に声を漏らした。


「……お前さ、男友達とか多いの?」


その言葉に、スミレは立ち止まり、目をぱちぱちさせる。


「…男友達ですか?」


「いや、別に深い意味はねえけどさ」


河北は視線をそらし、髪をぐしゃっとかき乱した。


「その……お前、なんか、友達多そうじゃん。男女関係なくさ」


スミレは眉を少し持ち上げ、思案するような表情を浮かべた。


「男友達……そうですね、そうかも?」


「ふーん……」


河北は短く相槌を打つものの、その声の硬さを隠しきれなかった。


スミレは、考え込むように河北を見た。


「どうしてそんなこと聞くんですか?」


その問いに、河北は目を泳がせた。答えに困ったように、ぽつりぽつりと声を漏らす。


「いや……なんつーか、気になっただけ。普通にさ、ほら、お前、なんかこう……話しやすそうだし」


「話しやすそう?」

スミレは小首を傾げた。


「そう。だって、お前……なんか、モテそうじゃん?」


言いながら自分でもバカみたいだと思った。

口をついて出た言葉を即座に後悔した。

河北はすぐに視線をそらし、手に持ったコンビニの袋を無意味に振った。


「……あはは、何ですかそれ」


スミレが短く笑う。その声にはどこか乾いた響きが混じっていた。


「別に深い意味ねぇよ」


河北はそっけなく答えながら、視線を前に向けたまま少し早足になる。


「友達、河北くんも多そうですし」


さらりと返すスミレの声は、どこか穏やかでからかうような調子だ。


「俺?」


河北は声を裏返し、少し間を置いてから鼻を鳴らした。


「多くねーよ、別に。必要最小限ってやつだろ」


スミレはその答えに小さく笑い、ぽつりと言った。


「…モテそうですけどね、河北くん」


その言葉に河北は思わず足を止めた。


「は?」


振り返ると、スミレが軽く微笑んでいる。

だが、その瞳には警戒心が薄く漂っていた。

まるでどこかの部外者が覗き込むような、一定の距離感を保つ視線だった。


「いや、なんでそうなるんだよ」


河北はぶっきらぼうに言い返しながら、言葉の裏にある意図を探ろうとする。


「なんとなくです。……なんか、ちょっと怖そうだけど頼りがいがある感じがするので」


「頼りがい? 俺が?」


河北は眉を上げ、どこか自嘲気味に笑った。


「……まあ、そう見えたんなら、そっちの目がおかしいんだろうな」


スミレはその言葉には答えず、前を向いて再び歩き出す。

コンビニ袋が軽やかに揺れる音だけが響く。


頼りがい。

その言葉が妙に耳に残る。自分のどこが頼りがいなんてあるんだろう。

確かに、配信者としては金はある方だ。

誰かの憧れになったことがある…と思いたい。

だが、それが何だというのだ。

散らかった部屋に、ろくに生活能力もない自分が、一体誰の頼りになるって言うんだ?


しかも、あの女はさらっと言ってのけた。大した意味もないくせに。

心のどこかで、そう言われて少しうれしかった自分に気づいてしまう。


河北は苦々しく口の中で舌打ちをする。

自分はこんな一言に浮き足立つような人間ではないはずだ。

あいつが褒めたのだって、適当なリップサービスだろう。

仕事でメイドとして来ているんだから、これくらいの会話は軽いもんだろうし、心底どうでもいい内容だ。

だって会ってちょっと話しておっぱい出す女だぞ。

冷静に考えたらクソビッチじゃねえか。


じゃあ…なんで気にしてんだよ。俺。


言葉にできない感情が胸の奥で広がる。

悔しいような、情けないような、でも確かにじんわりと温かいものがそこにある。


小さな背丈で、小さな歩幅でスミレがぴょこぴょこと前を歩いている。

たまに振り返って河北を見上げるその視線が、どこか彼の内側を覗き込むようだった。


「おかしいな……」

河北はつぶやきながら、片手をポケットに突っ込んだ。


何が変なんだ。俺が変だ。

そもそも、こんな風に他人に対して過剰に反応するのは、初めてかもしれない。

男友達が多いなんて話に苛立つのも、どうかしている。そんなこと知ってどうするつもりだ。


「頼りがいがある、ねえ……」

もう一度つぶやくと、自分でも少し笑ってしまった。


スミレはなんでもないように歩き続けている。

どこか遠い目をしている。その微妙な距離感が、河北にはやけに気に障る。


「おい……お前、頼りがいあるとか言うけど、あんまり期待すんなよ」


ふいに口から出た言葉。


スミレは足を止めて河北を見上げた。


「…え? 期待してないですよ?」


その無邪気な返答に、河北は眉をひそめた。


「あー、はい、そりゃどうも」


言葉尻を強めた河北は、自分が思った以上に不機嫌だったことに気づく。


こんな女に振り回されている自分が、どうしようもなく情けなかった。

だけど、スミレの笑みが心のどこかに引っかかって、どうしても消えない。


そんなもの、引っ張り出すなよ。知らないままでいたかったのに。

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