②汚部屋にメイドは立ってた、天使みたいに?

俺の汚い家に女がいる。

タバコとインスタント食品の混ざった匂いの中、どこか女の周りだけ空気が澄んでいるような気がする。

河北は、そんなことを考えていた。


窓から差し込む太陽の光が、真っ白な肌をさらに白く際立たせていた。

初めて見た時の青い肌は、色が真っ白だからだと知った。

伏し目がちな目についたまつげは河北よりも短いが、小さく何度もぱちぱちと忙しく動く。


河北は、学校で飼っていたうさぎに餌をやっていたことを思い出す。

飼育委員でもないのに、餌をあげていた。

ある日、寒かったのを覚えている。

珍しく早く学校に着いた朝、飼育小屋に向かうと先生が大騒ぎしていて、うさぎが死んだことを知った。

今思えば、あの騒ぎかたは、野犬に荒らされたか何かそういうことだったのだろう。


10秒程度の時間が経ち、女の唇がゆっくりと動く。


「あの…契約成立したので」

「あ、ああ…、ごめん」


河北が何から案内しようかと思ったところ、女は――ジャージのジッパーを下ろした。


「ちょっ、おい!」


現れたのは、ヒョウ柄のキャミソール。


「えへへ……まず抱いときます?」


泣きそうな顔で笑顔を作り、女は河北を見る。


「いやいやいや!抱かねえよ!なんだそれ!」


河北は顔を真っ赤にして叫ぶ。


「ご主人様の……会社の人から、ギャルが好きって聞いたんですけど……」


「言ったこともねぇよ!誰だそんなデマ流したやつ!赤眼鏡か?おい?」


「……私じゃ、嫌なんですね?け、契約書、破りましょうか!間に合うし!すみません!」


「いや、そういうんじゃなくてさ……」


河北は額に手を当てて大きく息を吐き、言葉を続けた。


「俺はけっこうその…お友達からはじめたいと言うか…」


「…って絶対言うので、グイグイ行くようにと」


「グイグイ行くようにと…、赤眼鏡が…か?」


こくりと女は頷いた。

河北は、柴崎マネジにそう思われているのかと悲しくなったが、改めて女の胸を見た。

キャミソールの胸の部分のヒョウ柄が大きく伸びるほどの豊かさ、

真っ白な肌のふくらみ、とんでもなく深い谷間までじっくりと見て、はっとして目を背けた。


「ばか!ジャージの前、閉めろって!」河北は思わず声を荒げた。

女は小さくと首をかしげたが、すぐにジャージのジッパーを上まで引き上げた。


「…これでいいですか?」


「そう、それでいい……!」


女はグッと親指を立てて、泣きそうな顔で笑った。


「あ、あと一応、練習してきたんです……見てください!」


女は椅子から立ち上がり、大きく息を吸い、吐いた。


「ご主人様、いえーい!」


片手でピースを作り逆さにしてこちらへ突き出し、もう片方の手をを腰に当てた完璧な“ギャルピース”だった。


河北はその光景を見て一瞬固まり、次に声を上げて叫んだ。


「やめろ!!! 全然似合ってねぇよ!」


女は目を伏せて言った。


「…おかしいですか?」


「おかしいどころの話じゃねぇ!」


河北は額を押さえながら苦笑いを浮かべた。


「……ていうか、なんだよ……そんなの俺、好きとか言ったことねぇからな?」


女はしばらく考え込み、最後に肩をすくめて小さく笑った。


「でも、ちょっとだけ……笑ってくれたから、よかったです。練習した甲斐が」


その言葉に河北はぐっと息を飲んだ。


「あのさ…なんか騙されてるとか…じゃない?」


「えっ、ご主人様を騙したりは…」


「お前だよ!なんか変な人…赤眼鏡とかに言いくるめられて…その…こういうことしてんの?」


「いえっ、いえいえいえ!!開発部なので、どういうお仕事かは理解していますので、その…」


「その…?」


「…"お友達″として見れなくなったら、いつでも言ってくださいね?」


河北は深く息をつき、真っ赤な顔でブツブツとつぶやき続ける女を立って見下ろした。

この女、どこからどこまでが計算なんだろうかと考える。


「いや、私も、私がギャルって変だと思ったんですよ……」


小さな声で自分に言い聞かせるように話す女。


「でも、私がギャルじゃないから抱かないのも、さもありなんで……」


河北は思わず眉間にシワを寄せた。


「いやいや、抱かないとかそういう話、俺、してないよね?」


「えっじゃあ。ひぇっ……」


駄目だ。話がループしている。


「待て、えっと…」


河北は名前を思い出そうとするが聞いていないことに気づいた。

いや、一度電話で聞いているはずではあるが、

それはカウントしないとして、ここまで自己紹介無しで話が進んでいる。


「や、やっぱり私じゃギャルっていうのは…その、日サロ?とか、あっ、でも白ギャル?ええっと…」


女の顔はコロコロと表情を変え、一人で喜怒哀楽しているようだった。


「おい、お前あの…その…プロフィール的な…」


「ああああっ!!!」


女が大きな声で自分のカバンを漁りだし、封筒を渡した。


「早く出せよ…」


「す、すみません…えへへ…」


河北が糊付けされた封筒を乱雑に開けると、折りたたまれた紙が入っていた。

ちゃんとしてるじゃないかと思ったのもつかの間、開くとそれは河北のプロフィールだった。


河北の宣材写真、経歴、獲得タイトル、同時接続数…そして昨年度の年収が書いてある。


「…おいこれ、俺のプロフィールだけど?」


「あっはい、そうですね」


女はにっこりとほほ笑んでいる。


「……いや、これ何だよ!?」


「あっ、ああーー!?なるほど、おそらくですね!弊社の担当営業が作ったのかと、その、なかなかマッチングが上手くいかないときに、作ったりするとか?聞いてますので?」


「…えっ?」


「…ん?赤眼鏡がちゃんと読むように言っていたので、営業と二人で作ったんじゃないですかね?」


「俺…何にも知らねえんだけど…これ、その…お前の会社のメイドに配ってんの?」


河北が書類をめくると、ゲーム大会で優勝した時の写真や、雑誌のグラビア撮影された時の写真だった。


「あっはい、事前に派遣対象者に勉強しておくように渡すんじゃないですか」


「…今まで俺が追い返したやついるじゃん?コレ…追い返した後は回収してるよな?」


「…………」


女はこの家に着て、一番黙り込んだ。


「おい!お前の会社の!セキュリティ!は!どうなってんだよ!年収とか書いてあるぞこれ!」


「…ッ知らないですよ!営業に言ってください!コールセンターには電話掛けないで下さい!」


河北はふと、封筒に糊が付いたままだったことに気づいた。


「これ、お前は見なかったの?」


「あっ、はい」


気まずそうに女は笑って目をそらした。


「ま、まあ昨日急に言われたんだろ…いきなり渡されても…困るよな」


なぜか河北はその時、ほんの少しだけ、その女がこの紙を見ていないことに落胆した。


「あっいえ……」


女は髪を触りながら言葉を濁した。

河北は黙って女を見ていたら、話題が変わらないこと察した女は小さくため息をついて言葉を続けた。


「一方的にっていうか…そういうの、嫌だなって思って」


河北はそのまま黙っていた。


「だからその…それってその人の言葉じゃないし、いや、その人が書いたとしても、その人じゃなくて、その人が書いたものだし…」


女は落ち着いたようで、言葉を続けている。


「つまり、そんな紙とか見て、その人を知った気になったり、知られた気になったりって嫌だなって、その人のことはその人から聞きたいし…嘘だったとしても、その人から知りえた情報であってほしいって…」


河北は女の言葉を聞いていた。そして、そのまま、ずっと聞いていたいと思ったが、

言葉をさえぎって声を張った。


「俺は、河北 光、えっと、名前めっちゃ嫌でさ…ひかるじゃなくて、ひかりって戸籍上は…そうなんだけど、母親がバカでさ、きらりって読むんだって言うんだよ、変だよな?」


「かわいいじゃないですか、キラキラしてますもんね、わかる」


女はくすくすと笑う。口元に手を当てて、小さな指のピンクのネイルが輝いている。


「…で、おまえだよ、おまえの名前は?」


「私の名前…?あああっ、すみません!そうだ、営業さんが紹介するっていうから…あ、名刺ないや…ひえ…」


女はカバンから財布を取り出し、免許証を突き出して言った。


「私、失礼なことを、すみません!私の名前はスミレです。掲載プロフとかなくて、えっと…」


「要らねえよそんなの、今から知っていけばいいだろ」


「そう…ですね。それで…お願いします、ご主人様」


スミレは、微かな恥じらいとともに柔らかな微笑みを浮かべた。その表情に、確かな優雅さと揺るぎない誠実さが同居していた。


河北は、その笑顔に胸の奥がきゅっと締めつけられるような感覚を覚えた。

これは何だろう、と考えたが、すぐに言葉を探すことをやめた。たとえどんなに的確な言葉があったとしても、それでこの感情を定義してしまうのが惜しいような気がしたからだ。


去年の今頃、自分は何をしていたのか。そんなことを問いかけられても、明確な答えは出てこないだろう。

過ぎた時間は曖昧で、記憶の中の12月はいつも無機質だ。

でも今年は違う。


ここからの1年はきっと、瞬く間に過ぎていくのだろう。

けれど、その毎日が愛おしくなる。朝が来るたびに少しだけ寂しさを覚えながらも、その寂しささえ含めて幸福だと感じるのだろうと、なぜか確信めいた思いが胸に残った。


この散らかった部屋が、まるで光をまとったかのように見える日が来るとは思いもしなかった。

それだけが、今、この瞬間の揺るぎない真実だった。

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