第十四話 それぞれの居場所
小田切は、涼たちに穂乃果の事情を丁寧に説明した。 郁恵も含めて、皆がこれまで思い描いていた彼女の生活とはあまりにかけ離れた事実だった。穂乃果が住む豪邸は、誰もが羨む幸せな空間であると信じられていたが、実際には、彼女にとって十五歳から義父による暴行を受け続けた地獄の場所だった。その苦しみを穂乃果が誰にも打ち明けられなかったことが、涼達の胸をさらに締め付けた。
郁恵と里は、小田切の話を聞き終えた途端、怒りに震え、目から涙が止まらなかった。涼は拳を強く握りしめ、唇を噛んで嗚咽をこらえたが、それでも堪えきれず肩を震わせた。里も手で目元を覆ったまま泣き続けた。
もし、穂乃果に本気で恋をしていた光が生きていたら、彼は怒り狂い、義父に殴りかかっていただろう――その姿が容易に想像できた。
穂乃果に裏切られ、脱出を妨害されたという怒りは、今では完全に消え去っていた。誰も彼女を責めることなど考えもしなくなった。
三人は、穂乃果や地下に閉じ込められた人々が脱出すべきだという自分たちの考えが、一面的であったことに気づき始めていた。誰もが地上に出たいはずだという単純な決めつけは、間違っていたのだ。
脱出したいと思っているのは、我々三人だけなのかもしれない。
脱出のためにワームホールシステムの開発の犠牲となった、住民や晋吾。私利私欲の犠牲となったゴッドの死は一体なんだったんだろう。
自分が、一体何をやっているのか、何のために行動しているのか、だんだん、わからなくなった。
ただ、一つわかったことは、幸せになれる居場所は、他人には決してわからない。本人にしかわからない。他人が決めつけてはいけないということだと涼は思った。
「決行する前に、最後に、アツたちに意見を聞くべきだ。ここは廃墟だけど、土地や建物の所有者はいるはずだから、法的には住居侵入になる。ほとんどの住民がここに残りたいって思っているみたいだけど、もし救助隊が来たら、強制的に全員追い出されると思う。つまり、残りたいと思っても残れないはずだ。だから、彼らの気持ちは尊重すべきだと思うんだ」 涼は郁恵と里の顔を順番に見ながら、真剣な表情で語った。
郁恵は少し考え込んだあと、静かに口を開いた。「私も意見を聞く案に賛成。そもそも、あの人たちに助けてもらえなかったら、私たち、とっくに死んでいたと思うの。だから、その人たちの気持ちを尊重すべきだと思う」
「もし、彼らに脱出を反対されたらどうするつもりかなぁ」小田切が静かに尋ねる。
里が一瞬目を伏せた後、真っ直ぐに顔を上げ、はっきりと言った。「アツさんは優しい人。アツさんからこの場所を奪えない。だから、もしアツさんに反対されたら……私は諦めて、一生この地下で暮らす」
その言葉に場が静まり返る。涼が驚いた表情を浮かべ、里の肩を軽く叩いてから抱きしめた。「里……お前、すごいな。自己犠牲精神、誰から教わったんだよ……まだ高校生なのに、本当にすごいよ……」彼の目には涙が浮かんでいた。
涼も静かに頷き、言葉は発しなかったが、その決意が表情からにじみ出ていた。
小田切は皆の顔を見渡し、意を決したように言った。「みんなの気持ちはわかった。僕がこの話をアツにしてみるよ」
* * *
小田切がアツに涼たちの結論を伝えると、アツは「掟に則って決めよう」と提案してきた。そして、住民たちとの話し合いの末、民主的な投票で決定することになった。
投票は、博士、悟、クィーンを除く住民五人と、穂乃果を除く涼たち三人、合計八人で行われ、過半数の五人以上が賛成した場合に脱出計画が実行されることとなった。
「それでは、これから脱出計画について決をとりたいと思います。賛成の方は挙手をお願いします」 小田切の声が響く中、涼、郁恵、里、小田切の四人が手を挙げた。
「他の人は反対ですか?他の人が全員反対の場合、四人なので、この脱出計画は中止となり、救援隊は来ません。我々はずっとこの地下で暮らすことになります」小田切が淡々と言う。
「みなさんはこの三人の若者達をこの地下に閉じ込めておくつもりですか?」小田切が再度確認すると、一瞬の沈黙の後、目黒、アツ、そしてマッスルが手を挙げた。
「賛成七人、反対一人となりました。これにより、脱出計画は実行することに決定しました」 小田切が結果を宣言すると、涼子も「私も賛成」と小さく呟いて手を挙げた。
その瞬間、八人全員の拍手が鳴り響き、地下に反響した。
涼、郁恵、里の目には涙が溢れ、声にならない声で全員にお礼を述べた。
「僕たちは、自分たちのことしか考えていませんでした。でも、皆さんはそんな僕たちを応援してくださる。本当に、本当にありがとうございます」
アツが優しい目で涼たちを見つめ、静かに言った。
「最後に、私の部屋で一緒に飲もう」
--- アツの部屋 ---
涼、郁恵、里はアツに誘導されながら彼女の部屋へ向かった。廊下を進む途中、アツがふと呟く。
「博士もね。根は悪い人じゃないんだけどね……間違えちゃったみたいだね」
その言葉に三人は黙ったまま歩を進めた。やがてアツの部屋に着き、扉が静かに開く。部屋にはかつて診察室だった名残が残されていた。木製の医者用デスク、背もたれ付きの椅子、患者用の丸椅子、そして簡易なベッドが無造作に配置されている。
しかし目を引いたのは、部屋全体に施されたカラフルな装飾だった。赤や緑、青など原色でペイントされた壁が、無機質だった空間を覆い隠すように彩られている。さらに、パイプハンガーには多くの洋服が吊るされ、部屋を個性的な雰囲気にしていた。
「洋服、たくさんありますね!」
郁恵が目を輝かせながら声を上げる。
アツは肩をすくめて笑い、答えた。
「他にやることないから、作ったのよ」
ハンガーに吊るされた服に目を向けると、それは医者や看護婦が着ていた白衣や、入院患者用のパジャマを染めたり形を変えたりしたものだった。糸の代わりにホチキスが使われているところがアート感を出していた。
「今日は特別に未成年者も解禁だ。一緒に飲もうよ」
アツがデスクの引き出しからビーカーを四つ取り出し、透明な液体を注ぎ始める。涼は患者用の丸椅子に腰掛け、郁恵と里はベッドに座り、差し出されたビーカーを受け取った。
液体は喉を焼くような刺激があり、涼は眉をしかめる。
『お世辞にも美味しいとは言えないけど、度数は高そうだ。すぐに酔いそうだな』
アツはくつろぎながら話し始めた。
「東日本大震災があったでしょ?」
三人は頷き、静かに耳を傾ける。
「私は震災の前年にこの病院に入院したの。仕事の人間関係でトラブルがあって、鬱病になっちゃったのよ。震災が起きたとき、たまたま地下にいたから助かったの」
郁恵が小首をかしげながら訊ねる。
「それで、それからずっとここにいるというわけですか?」
アツは軽く頷いて続けた。
「最初の数年は脱出を模索したけどね」
「諦めたんですか?」
「諦めたというより……不思議なんだけど、ここも悪くないかなって思えるようになったの」
「電気もガスも無い、こんな暗いところでもですか?」
里が目を見開いて聞き返す。
アツは静かに笑みを浮かべた。
「なんかね、自分の居場所を見つけた気がしたのよ。私、そもそもアナログ人間だからデジタルな世界が苦手なの。幸せってさ、自分にとって居心地がいい場所にいられることじゃない? 電気が無い方がむしろ落ち着くし、ネットなんて必要ない」
里がアツの言葉に頷きながら言う。
「私もSNS嫌いなんです。友達との関係が色々めんどくさくなるから」
涼も静かに言葉を紡いだ。
「確かに自分に合った居場所って大事ですよね。僕にとっては、物理的な場所よりも誰と一緒にいるかが重要です。だから居心地のいい相手と一緒にいられる場所が、僕の幸せの条件です」
「分かる、分かる。でもね、私は涼くんとはちょっと違う。一人の時間が大好きだから。鼻ほじれるし、オナラしやすいし」
アツが冗談を交えると、郁恵が笑いながら言う。
「わかります、それ」
アツと三時間ほど談笑を楽しみ、三人は部屋を出た。部屋を後にして歩き始めたところで、アツがドアから顔を覗かせて三人の背中に向かって静かに言った。
「君たちが幸せになれる居場所は、ここじゃないと思う。こんなところにいちゃいけないよ」
その言葉に三人の涙が一気に溢れた。大粒の涙が頬を伝い、言葉を失ったまま立ち尽くす。
「アツさん、本当はここに居たいんだと思う。ここがアツさんにとって心地よい居場所なんだと思う……」里が小さく呟く。
郁恵も涙を拭いながら言う。
「私たち、ここに来て色々疑ってた。干し肉見て『私たち食料にされるんじゃないか』なんて想像して、ここにいる人たちを疑って……でも、アツさん、マッスルさん、目黒さん、涼子さんまで、ここにいる人達はみんな、私たちの犠牲になろうとしている」
三人は言葉が出なくなり、しばらく涙が止まらなかった。
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