第十話 犠牲と決断

--- 研究開発室 ---


「やだよ。怖いよ。頭の中に電極いれるなんて」
里が涼の背中に隠れる。


「里へのブレインコンピューターインターフェースの埋め込みはやめてください。彼女は、アルファ波を自在に操って、時空の歪みを調整しているように見える。人工知能の支援は不要だと思います」涼が里の前に立って庇う。


 博士は少し困ったような表情を浮かべながら、里の手を両手で優しく握り、丁寧に頭を下げた。
「絶対に危険なことはしないと約束する。ここにいるみんなが脱出するために、どうか協力してほしい」その真剣な瞳に里は一瞬たじろいだが、視線をそらしながら小さく息を吐いた。


 するとゴッドが落ち着いた声で口を開く。
「今開発している人工知能による時空の歪み修正プロトコルは、かえって彼女の能力を邪魔してしまう可能性があるかもしれませんね」


「里が渋谷に行ったとき、この研究室のドアの前まで来て、渋谷のマックに行きたいと強く想ったら、気がついたら、行っていたとのことです。

これは僕の推測ですが、青木ヶ原樹海の中でも、ここは天井が高い地下五階なので、最深部は深さ三十メートル以上あるかと思います。

ここの異常に高い磁力が時空を歪めているのだと思います。時空の歪みをいかに上手に制御するか、調整するかということがポイントとなり、里は、アルファー波を使って、制御しているのではないかと思います」


 博士はその言葉にしばらく考え込んだ後、納得したように頷いた。
「確かにそうかもしれないな。では、脳はのモニターだけしよう」


 そう言って博士はカチューシャ形状の脳波測定器を取り出し、里に手渡した。
 里は少し警戒しながらも、受け取って頭に装着した。


「じゃあ、また渋谷でチーズバーガーを買って来てくれないか?」
 博士が微笑みながら言うと、里は目を丸くして振り返った。


「わかった。でも、地下にいる十四人全員に食べさせてあげたいから、お金をちょうだい」
 里が涼を見ながら頼んだ。


 するとゴッドが慎重な表情で答えた。
「ごめん。この実験はまだ他の人には内緒なんだ。だから、チーズバーガーは一つだけでいいよ」


「わかった。でも喉が渇いたから、行く前にお水を飲ませてほしい」


 ゴッドが奥の部屋に続くドアを指さして言う。
「あそこの部屋にペットボトルに詰めた煮沸済みの水があるから、自由に飲んで」


 里は頷き、そのまま隣の部屋に消えていった。


 それから三十分が過ぎても、里は戻ってこない。


「ちょっと里ちゃん遅くないですか?隣の部屋からまだ戻ってこないですね」
 ゴッドが眉を寄せながら言う。


「僕、見てきます」
 涼がそう言うと、すぐに立ち上がり隣の部屋へ向かう。


 隣の部屋は隠れる場所が一切ない六畳ほどの狭い空間だった。しかし、そこに里の姿はない。


「また、ワームホールだ……」
 涼が大声で呟くと、博士とゴッドが慌てて部屋に入ってきた。


「里ちゃん、行っちゃったんですね。ここで待ちましょう」
 博士が静かに言う。涼は深い不安に駆られながらも、里がまた渋谷で楽しい時間を過ごしていることを願った。


 涼、博士、ゴッド、助手の四人はソファーに腰を下ろし、沈黙の中で里の帰りを待つ。


 五時間ほど経った頃、上階へ続く階段ホールから足音が聞こえてきた。誰かがやって来たみたいだ。涼がドアを開けると、そこには厳しい顔をした郁恵と、その背後に隠れるように立つ里の姿があった。


「里!」
 涼は安堵のあまりその場にしゃがみ込み、脱力した声で呟く。
「よかった。本当によかった……」


 涼はすぐに立ち上がり、里を抱きしめる。


「ちっともよくないよ」
 郁恵が涼の背後に立つ博士を睨みつけながら言う。その鋭い目には怒りが宿っていた。


「何が起きたのか知らないが、まあ、落ち着いて」
 ゴッドが郁恵に穏やかに声をかけた。


 しかし郁恵はそれを無視し、里に向かって言った。
「里ちゃん、さっきの話をもう一度ここで話して」


 里は涼の顔を見つめながら、静かに口を開いた。
「ここでの実験は脱出のためなんかじゃない。私、ワームホールで二十五年前のこの部屋に行って、聞いたの……博士は、お金儲けのために兵器を作っている」


 その場にいた全員が息を呑む中、里が続ける。
「ロシア人の官僚っぽい人と話をしていた」


「どこで?」涼が焦りながら尋ねると、里は奥の部屋を指差した。
「あそこのソファーに座って」


 郁恵が無言で博士とゴッドをかき分け、里の指差した奥の部屋に入っていく。
「どこのキャビネット?」郁恵が声を張り上げる。


 里がはっきりと答えた。
「一番奥の列の上から二段目」


 郁恵は指示されたキャビネットを開き、中を探る。
「黄色の封筒に入っていると思う」里が続けると、郁恵の手がピタリと止まった。


「これ?」
 郁恵が黄色の封筒を取り出して振り返る。


 里が力強く頷く。
「それ、それだよ」


 郁恵が封筒を開き、中の契約書を取り出す。そして博士の方に振り返り、大声で問い詰めた。
「これは何?」


 博士は言葉を失い、ゴッドが慌てて駆け寄り、郁恵の手から契約書を受け取る。封筒の中身に目を通すと、その目には涙が浮かび、体を震わせた。


「ロシア……政府……?」
 ゴッドが呟くように言った。契約書は二〇〇五年の日付となっており、ワームホールシステムを兵器として売却する取り決めが詳細に記されていた。


「だ、騙したのか? 僕を? みんなを?」
 ゴッドが博士に向かって叫ぶ。


 博士は動揺を隠せないまま、硬直した表情で口を開くこともできなかった。


「脱出のためだと思っていた。だから、これまで犠牲になった住民たちも仕方がないと思っていた。でも、私利私欲のためにみんなを犠牲にするのは違う!」
 ゴッドは怒りのあまり、近くにあった金属のパイプを掴み取ると、システムに向かって振り下ろした。


「やめろ!」
 涼が思わず叫ぶ。


 ゴッドはその声に一瞬動きを止めるが、涼を振り返らずに叫んだ。
「破壊しないと、この技術は誰かの手に渡る!仲間を犠牲にして、人を殺す道具を作るつもりなのか!」


 その言葉に涼は立ち尽くすしかなかった。


 突然、鈍い音と共にゴッドがその場に崩れ落ちた。周囲は一瞬静まり返る。ゴッドの背中から鮮血が噴き出し、床に広がる。


「ゴッド!」
 涼が叫びながら駆け寄る。


 倒れたゴッドの背後には、震える手で血塗れのナイフを握る助手の姿があった。


「何をやっているんだ!」
 涼は助手に向かって怒鳴りつけるが、助手は立ち尽くし、何も答えられない。


 里がゴッドの側に駆け寄り、郁恵もハンカチで傷口を抑える。しかし血は止まらず、ゴッドの顔は次第に青ざめていく。


 涼は助手からナイフを奪い取り、ゴッドの体を抱きかかえながら叫ぶ。
「目を覚ませ! オマエの言うことが正しい! 僕は間違っていた! ごめん……ごめん……!」

 ゴッドは微かに目を開け、涼と里、郁恵の顔を見つめ、かすれた声を絞り出す。
「……僕が……バカだった……。大勢の犠牲者を出して……本当に……すまなかった……」


 そう言うと、ゴッドは小さな笑みを浮かべ、静かに目を閉じた。


 涼は涙を流しながらゴッドの体を抱きしめたまま、震える声で呟いた。
「博士……もう開発を中止してください……」


 博士は眉をひそめながら答えた。
「私利私欲のためと言われても仕方がない。だが、ここから脱出するためにはこの技術が必要だ。君は一生この地下にいるつもりなのか?」


 涼は顔を上げ、涙で濡れた目で博士を真っ直ぐに見据えた。
「ずっと脱出したいと思っていました。でも、今は考えが変わりました。人を殺す兵器と引き換えにしかここから出られないというのなら、僕はこの地下に残ります。ゴッドの判断は正しいと思います」


 博士はその言葉に口を閉ざし、何も言い返せなかった。涼はゴッドの体を抱き上げ、郁恵と里を連れてその場を後にした。


--- 食堂 ---


 食堂の空気は重苦しく、誰もが口を閉ざしていた。窓からは薄暗い光が差し込み、まるでこの出来事を悼むかのように静かな時間が流れている。ゴッドの体は食堂の隅に敷かれた布の上に横たえられ、その周囲を囲むようにみんなが集まっていた。


 涼は立ち尽くし、何かを言おうとするが言葉にならない。握りしめた拳が震えているのを見た郁恵が、そっとその肩に手を置いた。
「涼、大丈夫?無理しないで……」


 涼は小さく頷いたが、その顔は悲しみと怒りで歪んでいた。しばらくの沈黙の後、意を決したように口を開く。
「みんなに知ってほしい。博士が何をしていたのか、そしてゴッドが何を守ろうとしていたのか……」


 涼は深呼吸をしてから話し始めた。時空の歪みの正体、博士が私利私欲のために兵器を開発していたこと、そしてゴッドがその企みを止めるために自ら命を懸けたこと。
「彼は最後まで、みんなのことを思っていました。命を懸けてでも、正しいことをしたかったんです」


 目黒が涙を拭きながら声を絞り出す。
「あいつは、本当に優しい奴だった……。俺が父親としてもっとしっかりしていれば、こんなことには……」


 涼は目黒の方を向き、力強く言った。
「目黒さん、あなたは何も間違っていません。ゴッドがあそこまでやったのは、目黒さんに教えられた『正しさ』を信じていたからです。彼は誇り高い人でした」


 その言葉を聞いた目黒は、胸を押さえながら嗚咽を漏らした。周囲にいた住民たちも涙を流しながら、ゴッドの死を静かに悼んだ。

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