第五話 悪霊と疑念

 --- 晋吾の部屋 ---


 五人に、それぞれ一部屋ずつ個室が割り当てられた。晋吾に割り当てられた部屋は、一人用の病室の名残が残る簡素な空間だった。

 壁にはべろりと剥がれた白い壁紙が垂れ下がり、その下からは湿気で黒ずんだコンクリートがむき出しになっている。天井には所々ひび割れが入り、錆びた鉄筋がちらりと見えた。古い蛍光灯が天井からぶら下がっているが、もちろん点灯しない。薄暗い空間を支配しているのは、ランプの灯だけだ。


 部屋の中央には、細い鉄パイプで組まれた簡易なベッドがぽつんと置かれている。薄汚れたマットレスには黒ずんだ染みがいくつもあり、触れるのをためらわせる不潔さが漂っていた。その隣には、片方の脚がかすかに歪んだ金属製の椅子が一脚だけ置かれている。背もたれにはほこりが薄く積もり、長い間誰もこの場所を使っていないことを物語っている。


 床はひび割れたタイルで覆われており、一部のタイルは剥がれ、無造作に転がっている。湿気のせいで床全体がぬめりとした感触を醸し出し、かすかにカビ臭さが漂っていた。部屋の片隅には使い古された金属の引き出しが置かれていたが、扉は開いたままで、内部は空っぽだった。


 まるで時が止まったかのような、殺風景で冷え冷えとした部屋だ。

 しかし、それでも天国のように感じられた。牢獄のような部屋で一晩を過ごした後では、この簡素ささえも贅沢に思えたのだ。深く息を吐き、荒れた心を少し落ち着かせる。


 目まぐるしくいろいろなことがあった一日だった。彼は服を着替える気力もないまま、倒れ込むようにベッドに身を横たえた。薄いマットレスが背中を受け止めるが、その感触すら気にならないほど疲れていた。


 深夜だろうか。不意に、人の気配を感じてぱっと目を開く。暗闇の中で鼓動が早まるのを感じながら、壁を向いていた体をそろそろと動かし、ドアの方に視線を送る。静寂を裂くように、かすかな足音が耳に届いた。


 そこには、一人の男性が立っていた。ドアは開いており、彼が入ってきたばかりのようだった。緑色の病院用パジャマを身にまとい、どこか浮世離れした雰囲気を漂わせている。晋吾は息を飲む。さっき食堂で見た顔ではない。おそらくこの施設の九人の中には含まれていない。


 背筋にぞわぞわと寒気が走る。男は晋吾の存在に気づいていないのか、ちらりともこちらを見ず、ゆっくりと窓の方に進む。彼の動作は不気味なほど滑らかで、静かだった。


 鉄格子がはめ込まれた窓の前に立つと、男はその格子を両手でつかみ、顔を近づける。月明かりが窓の外を淡く照らし、男の横顔を浮かび上がらせる。だが、晋吾はそこで違和感を覚える。


『ここは地下だ。窓なんてあるはずがない』


 晋吾は心の中でそうつぶやき、目をぎゅっと閉じた。『部屋に入ったとき、あそこは確かに壁だった。夢を見ているんだ、きっと』と、自分に言い聞かせる。だが、寒気は消えない。


 意を決して、晋吾はゆっくりと起き上がる。喉が渇き、声がうまく出るか不安だったが、何とか絞り出した。「あの、どなた様でしょうか」


 声が響くと同時に、男が驚いたように振り返る。月明かりの中で、男は不気味にニヤリと笑った。その笑顔は冷たく、底知れない恐怖を呼び起こす。


 晋吾は反射的にベッドから飛び出し、壁際で立ちすくむ。すると、男がポケットからガラスの破片を取り出し、突然それを投げつけてきた。思わず顔を背けたが、間に合わず、鋭い破片が額をかすめた。


 強烈な痛みが走り、晋吾は額に手を当てた。手のひらに広がる生温かい感触。暗闇の中でも真っ赤な鮮血が滴り落ちるのが分かった。


「うわぁー!」


 思わず叫び声を上げ、晋吾は部屋を抜け出し廊下に出る。後ろを振り返るが、男の姿はない。心臓が喉元で激しく跳ねる。


 涼や光の部屋に行きたかったが、どこにあるのか分からない。仕方なく、自分の部屋の前まで戻る。開いているドアの隙間から中を覗き込むが、そこに男の姿はなく、窓も消えていた。


 ほっとした晋吾は、恐る恐る部屋の中に入り、震える手でドアを閉めた。ベッドに潜り込むと、全身が汗で冷たくなっているのを感じる。


『これは夢だ。夢なんだ』


 そう自分に言い聞かせたが、恐怖は消えない。額の痛みが現実感を引き戻してくる。晋吾は布団を頭までかぶり、震える体を無理やり丸めた。


 夜は明けた。時計を見ると朝の六時を指している。重い体を起こし、そっと額に触れると、傷口がパックリと割れ、血が固まっているのが分かった。


『やっぱり夢じゃなかったんだ』


 --- 食堂 --- 朝食


 五人は九人の住民と一緒に食堂で朝食をとっている。


「どうしたの?その傷?」里が晋吾の顔を見ながら、驚いて声を上げた。彼女はコップを置き、顔を少し前に突き出すようにして晋吾をじっと見つめる。


 晋吾は少し戸惑いながらも、昨晩起きたことを淡々と話した。その表情はどこか落ち着かず、視線が定まらない。


「霊ってことかな?」光がテーブルに肘をつきながらぽつりと呟く。声は静かだが、その目は真剣そのものだ。


「この病院で亡くなった成仏していない霊かもしれない」晋吾が息を詰めたまま、目を見開いて答えた。


「どうも、霊とか信じられないんだよね。寝ぼけてどこかにぶつけたとかじゃない?」涼が冗談ぽく笑いながら言う。その軽い口調に、場の緊張が少し和らぐ。


 晋吾は涼の言葉に目を細め、「よく見てみろよ。この傷跡、打撲じゃないだろ。明らかに切り傷だ。ガラスの破片だよ。でも、部屋の中にガラスは一枚もない。地下には窓がないからな」と語気を強めた。


「でも、夢の中では窓があったんだろ?」涼が少し疑念を抱いたような表情で訊く。


 晋吾は首を横に振り、眉をひそめながら強く反発する。「夢とか言うなよ。夢で額を切ったりしないから」


 その時、郁恵が声を震わせながら言った。「実は、私もなの」彼女の顔は青ざめ、目が潤んでいる。


 四人は、一瞬言葉を失った。重苦しい沈黙の中、涼が優しく声をかける。「話してみて」


 郁恵は息を整え、手を震わせながら話し始めた。「私は寝る前のことなんだけど。部屋に入ると、部屋の中がコンクリートの瓦礫の山になっていたの。瓦礫は崩れたばかりのようで、うっすら埃が舞い上がっていた。怖かったのが、瓦礫の隙間から足が出ていたこと。痙攣しているようだった。怖すぎて部屋を出て、再度ゆっくりとドアを開けてみたら、瓦礫も足も無くなっていた。私は怪我はないけど、瓦礫を触ったので指にコンクリートの粉が残っている」


 郁恵は、そっとてのひらを広げて見せた。粉の白さが不気味に目立つ。


「そう言えば、樹海に来る途中、GPSが狂って、自動運転が誤作動を起こしたなぁ。勝手に行き止まりの細い路地とかに入ったりして、結局手動運転に切り替えたよな。最近の自動運転でこんなこと一度もなかったから、これも霊の仕業なのかもしれない」


 黒い薄いコートを纏った女王のような風貌の女がさらりと言った。彼女の言葉には威圧感があり、空気が張り詰める。「あ、それは、ちょっとめんどくさい霊ね。悪霊の仕業だね。成仏できていない悪霊が多いからね。この病院は」


 女はクィーンと呼ばれていた。五十代だろうか。真っ白な髪と堂々たる体格が異様な存在感を放ち、魔女にも女王にも見える。その目はまるで五人を値踏みするように動き、冷たい光を放っていた。


「ここで悪霊に取り憑かれた人はいるんですか?」晋吾が怯えながら訊く。


「たくさんいるよ」クィーンが答えた。その声には余裕と不気味さが交じっている。


 郁恵と晋吾は怯えたような顔をして、息を小さく切らせながら尋ねた。「どうしたらよいでしょうか?」


「お祓いすれば、すぐに退散するよ。奴らは」ヘルメットに白衣姿のなんともトンチンカンな格好をしている男が口を開いた。男は、六十ぐらいだろうか。鼻の下に見事なヒゲを生やし、厚いレンズのメガネをかけている。博士と呼ばれていた。


「お祓いは、どなたにお願いすれば良いのでしょうか?」晋吾が哀願するように訊いた。


「クィーン以外はできないよ」博士がクィーンの顔をちらっと見て答える。


「お願いできますか?」


「じゃあ、食後にやってやるよ」


「ありがとうございます。よろしくお願いします」晋吾が深く頭を下げた。


 郁恵は無言で、そのやり取りを聞いていただけだった。口を開く気力がないように見えた。


 晋吾が小声でこっそりと訊いた。「郁恵は、お祓いしなくてもいいの?」


 郁恵は俯きながら答えた。「私、そういうの、なんだか怖いんだよね。だからとりあえず、やめとく」


 食事が終わると、クィーンは晋吾に向かって話した。「ついてきな。お祓いしてやるから」


 クィーンは席を立つと、スタスタとドアに向かって歩き始めた。その後を博士と助手らしき男が連なっている。助手の男も博士同様に、ヘルメットに白衣だ。両手を合わせて、なにやらペコペコと頷いている。


 晋吾は、さっと立ち上がり、足早に三人の後に続いた。やがて四人の姿は食堂から消えた。


「僕は、霊とかお祓いとか、全然ピンとこなくてダメだな」涼が首を傾げながら呟く。


「涼も、霊に会えばわかると思う。私は霊感強いなんて言われた事ないんだけど、昨晩は、ヤバかったんだから」郁恵が少し怒ったような口調で言った。その目には怯えと怒りが混じっている。


 --- 食堂 --- 夕食


 朝食後は、晋吾はお祓いに行き、涼、光は中庭の畑で農作業をし、郁恵と里は洗濯や水汲み、皿洗いに追われていた。そして、夕食の時間が訪れる。


 光が言葉を選びながら慎重に話し始めた。「俺は悪霊も気になるけど、俺らに贅沢な個室を割り当てたのがもっと気になっている。俺たちから金取るわけじゃないし、特に何も搾取されてないし、特別な強要もされてない。ずっと一緒にいる他の住民と全く同じ扱いだぜ。よくわからない新人が入ってきたら、普通は大部屋にまとめてぶち込むんじゃないかな。分けるとしても男女せいぜい二部屋ぐらいだろう」


 光の視線がテーブルの上をさまよい、周囲を気にするように声を潜めた。


「そう言われると、不自然かも。寝ている時に襲いやすくするために、あえて一人ずつ部屋を分けているという考え方もあるよな」涼が答えた。


 郁恵が眉間にしわを寄せ、小さく首を振る。その表情には不安の色がにじんでいた。


 光が目を伏せながら考え込む様子を見せる。その沈黙を破るように、涼が静かに口を開いた。「俺たちはここでは完全に無力だよ。彼らがいないと水すら飲めない。彼らは、俺らを殺そうと思えば、いつでも殺せると思う。でも今まで、殺されなかったので、たぶん殺す気はないんだと思う」


「なんか、怖くなってきた。みんなで一緒に寝たい」里が哀願するように言った。彼女の声には微かな震えが混じっている。


「狭いシングルのベッドに五人で寝るのは無理だから、郁恵ちゃんと里がベッドを使って、俺ら三人は床で寝るというパターンになるな」光が嫌そうな顔をして渋々答える。


「床、打ちっぱなしのコンクリだからなぁ。一晩ぐらいだったら全然いいけど、毎日となると厳しいかも。現実的ではない」涼も軽く肩をすくめた。


 里は涙目になりながら震えた声で言う。「もう……やめてよ。怖い話……」


 彼女の言葉に、場の空気が一瞬静まり返る中、暗い食堂のランプの灯がゆらゆらと揺れている。


 四人の頭に、悪霊に加えて住民たちへの疑念の種も植え付けられ、不安が静かに心を侵食していった。


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