第三話 闇に漂う足音と影

 --- 王座病院 廃墟の地下--- 午後六時


 六人は地下の部屋に閉じ込められて、三時間が経過した。


「それにしても、まるで刑務所みたいだよね」光が金網の壁から部屋の外の廊下をスマホで照らし、通路を挟んで左右に部屋が並んでいる様子を見て小声で呟く。


 冷たい空気が肌にまとわりつき、獣臭さとかすかなカビ臭さが鼻をつく。廊下の両側には重厚な金網の扉が並び、その向こうにぼんやりとした暗闇が広がっている。スマホの光が金網に反射し、鋭い光の線が揺れ動くたび、不安感が増幅する。


「獣臭さと、この毛が気になる。なんで病室に動物の毛があるんだ」涼は床に落ちている毛をさわりながら、呟く。


「血痕もあっちこっちにあるので、たぶん、この牢屋に動物を閉じ込めていたんじゃないかなぁ」晋吾が、壁の血痕の後をスマホで照らしながら言う。


「え?、ん?、どいういうこと? 廃墟になる前の話だよね?」


「病院が、動物を閉じ込めるとしたら、動物実験として使うためぐらいかなぁ」


「いやいや、震災前だとしたら、十九年前だぞ。そんな昔の動物の臭いが残っているなんて、不自然じゃない?

 それに、血痕の跡がたくさんあるので、傷つけたり、殺したりしたという事だと思う。動物実験っぽくないなぁ」


 突然、光の背後に立っていた里がピクッと反応し、耳を澄ませながら囁いた。「シー……ちょっと静かにして。何か聞こえる」


 六人は顔を見合わせた後、息を殺し、耳を澄ませる。


 コツ、コツ、コツ——


「ん?足音だ……」晋吾がゆっくりと立ち上がりながら、低い声で呟く。


 廊下の奥からゆっくりと近づく足音が、冷たい壁に反響して響いてくる。足音の間隔は一定だが、どこか重々しく、機械的ではない奇妙なリズムを刻んでいる。男が手にしているランプの光が、金網越しにちらつき、不気味さを際立たせている。

 六人は金網のドアから静かに距離を取り、背後の壁まで下がる。部屋の中は男が手にしているランプの弱い光だけに照らされ、影が不規則に揺れ動く。足音は徐々に近づき、重く響く音が緊張感を増幅させた。

 やがて、廊下の奥からゆらゆらと揺れる炎の光が現れる。それは壁や天井をオレンジ色に染めながら、近づいてくる。部屋の中の金網に影が映り込み、まるで生き物が這い寄ってくるかのようだった。

 男だ。白髪が腰まで伸び、ボサボサと乱れた髪が影となって顔を覆い隠している。くすんだ布のようなローブを身にまとい、その姿は年齢不詳でどこか仙人のようにも見えるが、不気味さが際立っている。彼の足取りはゆっくりで、手に持ったランプが揺れるたび、男の影が壁や床に伸び縮みする。

 男は無言のまま立ち止まり、金網越しに部屋の中をじっと覗き込む。その視線は冷たく、鋭いナイフのように六人を貫くようだった。金網の間から漏れる光が、彼の顔の一部を照らすと、異様なまでに深い皺と色あせた肌が浮かび上がった。


 里は怯えたように兄である涼の胸に抱きついた。穂乃果と郁恵もお互いの腕を掴み、体を寄せ合う。部屋の隅に座り込む晋吾は拳を強く握り、光は目を細めながらじっと男を観察している。


 張り詰めた沈黙が続いた後、涼がゆっくりと立ち上がる。わずかに震えながらも、意を決して金網越しの男に向かって歩き出す。

「た、助けてください。ぼ、僕たち、この部屋から出られないんです……」涼は緊張で震えた声で訴えかける。声は静寂の中に吸い込まれるように響き、廊下に反射する。


 しかし、男は一切反応せず、ただ涼を見つめ続ける。瞳の奥にあるものは、人間味なのか、あるいは何か得体の知れない狂気なのか、見分けがつかない。


 涼は少し声のトーンを上げて続けた。「僕たちは怪しい者ではありません。ただの学生です。好奇心で、この廃墟を散策していただけなんです」


 男は依然として無言で、冷たい視線を投げかけるだけだった。その沈黙は、部屋全体を覆うように重く、圧迫感すら感じられる。

 後ろにいた五人も徐々に涼の隣に歩み寄り、横一列に並ぶ。暗闇の中、わずかな光が彼らの不安そうな表情を照らしていた。


「助けてください。どうかお願いします」穂乃果が必死に訴える。


 晋吾が慎重に尋ねた。「すいません……みんな少し興奮してしまって。ところで、警備の人とかですか?」


 男からの返事はない。


「助けていただけたら、お礼は必ずします。私でできる事であればなんでもします」郁恵が震えた声を上げる。


 郁恵の言葉に反応し、男は金網の穴から手を差し出してきた。そこに見えたのは、指が三本しかない異様な右手だった。紫がかった肌と曲がった骨の形が生々しく、誰もが息を飲んだ。

 涼はその異様さに、一瞬息を飲んだが、平静を装い、男の手を握った。硬く冷たい感触が手に伝わり、その手はまるで生気を失ったようだった。

 男は他の五人にも順番に握手を求めてきた。晋吾、光、穂乃果、里がそれぞれ恐る恐る手を握り返す。そして最後に郁恵が手を差し出した。

 しかし、男は郁恵の手を握ると、そのまま力強く引き寄せ、彼女の手をさすり始めた。


「きゃっ……やめて!」郁恵が悲鳴を上げる。


「やめろ! 何やっているんだ!」涼が怒鳴りながら郁恵の腕を引っ張る。


 男は一瞬驚いたような表情を浮かべたが、あっさりと手を離した。男はどことなく悲しげだった。彼は無言のまま踵を返し、ランプを手に暗闇の中へと消えていった。

 廊下の奥へと遠ざかる足音とともに、再び深い静寂が訪れた。六人はその場で呆然と立ち尽くし、金網の向こうに消えた男の影を見つめていた。


 --- 王座病院 廃墟の地下--- 午後九時


「もう我慢できない」穂乃果が立ち上がり、髪を掻きむしりながら呟いた。


 光も座り込んだまま力なく言う。「俺も、そろそろ限界かも」


 晋吾が深い息をつきながら、壁にもたれかかって呟いた。「落ちてから十時間くらい経つからな。そりゃ限界もくるよな……まさかトイレがこんなに深刻な問題になるなんて、人生初だよ。トイレがあるって、本当に恵まれてたんだなって実感する」


 涼は無言でカバンを開き、中身を出す。コンビニの袋をカバンに詰め直すと、それを穂乃果に差し出した。「この中にしていいよ。匂いを最小限にするために、終わったらファスナー閉めてくれ」


 穂乃果はカバンを手に取り、しばらくそれを見つめた。


 それを見た光も、自分のカバンを開き、中身を取り出しながら言う。「こっちは大きい方用に使ってくれ」


 その光景を見ていた里が、目に涙を浮かべながら首を振った。「無理……私には無理。みんなが見ている前で、カバンの中なんかにできない」


 涼が里の肩に手を置き、穏やかな声で励ます。「みんな同じだよ。恥ずかしくない。大丈夫だ。出さないわけにはいかないから、気をしっかり持つんだ」


 穂乃果は涼のカバンを掴み取り、決意を固めたように立ち上がった。「私が先にやるから。その間、男の子たち私に背中を向けて、一緒にカエルの歌を歌って」


 郁恵は静かに頷き、里と共に穂乃果を支えながら部屋の隅へ移動した。


 部屋の中に静かな歌声が響く。「カエルの歌が——」郁恵と里が歌い始める。やがて、「ゲロゲロ」という歌詞の部分に合わせて、穂乃果の排尿音が混ざり合い、妙に間の抜けたハーモニーを生み出す。


 排尿はなんとか済んだものの、問題は大便だった。限られたポケットティッシュしかなく、満足に拭くこともできない。さらに、前の人が排泄したものから漂う強烈な悪臭に耐えながらするのは地獄そのものだった。


「もう、やだ……」最後に済ませた里が、しゃがみ込んで泣き出した。


 妹のつらそうな涙を見て、涼は、昨日の居酒屋での楽しかった一時が、遥か昔のように感じた。

 わずか、一日で、トイレも水もない世界最貧国よりも、劣悪な生活環境に投げ込まれる事になろうとは、夢にも思わなかった。

 人生は、分岐点の連続だ。面白半分の気分で、遊びに来た、廃墟の散策は、過去の人生の分岐点の中では、簡単に修正できるほんの小さな分岐点だと思っていた。

 もし、昨晩、山梨県警のホームページの行方不明者の情報を見て、散策をとりやめていたら、もし、廃墟散策の許可をしっかりとって入っていれば、もし、壊れた聴診器なんかに興味を持たなければ。

 やり直せるなら、昨日に戻ってやりなおしたい。このような結末を迎えたのも、どこか、ふわふわとした気持ち、世の中を甘くみていた事が原因なのだろうと思った。





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