第5話 七草粥
縁側のガラス戸からはまだ陽の光が入ってこないけど、座敷の中は朝方らしくわずかにほの明るい。
床の間の前に加加姫(かかひめ)様を据えて、私はその正面に
「せり、なずな、おぎょう、はこべら、ほとけのざ、すずな、すずしろ、これぞ七草」
昨日のうちにわたしと九摩留で摘んできた野原の若菜、そして泰明さんが持ってきてくれた小蕪とこれまた小さな大根、他五種類を声に出してまな板に置いていく。
中国では元旦から八日までの各日に、鶏、狗、羊、猪、牛、馬、人、穀を配して、それらを大事にする風習があるのだそうだ。そして人の日である七日には七種の菜でお粥を作る。
だから本当は七種類の具材ならなんでもいいようなのだけど、日本に伝わったそれはいつしか春の若菜である七種類の野草や野菜が定番となった。
とはいえ地域によって微妙に違いはあるみたいだけど。
「七草なづな、唐土の鳥が、日本の土地に、渡らぬ先に、七草なづな、手につみいれて、
大きめの声で
左右の斜め向かいに座った泰明さんと九摩留もそれぞれ包丁とすりこぎを手に七草を叩く。
回数は歌の拍子に合わせて七回。歌を七回繰り返すので合計四十九回叩くことになる。
歌にある唐土の鳥とは
それが日本にやってくる前に、この歌を唱えて囃して災いを寄せつけないようにするものらしい。
この七草粥を食べれば一年間無病息災にあやかれる。
また、お正月のご馳走で疲れた胃をねぎらう意味もあるのだそう。
実際よくできたもので、せりは利尿作用、なずなは止血、おぎょうは痰切、はこべらは浄血、ほとけのざは整腸、すずなは咳き止め、すずしろは消化を助ける作用がある。
胃だけでなく体調を崩しやすい冬にはぴったりのお粥だ。
囃した七草は食べる分とは別に少しだけ取り分けておき、お鉢に水と一緒に入れて手先や足先を浸したあと、年明け最初の爪切りをすることになっている。
これも邪気払いと無病息災のための儀式だ。
歌って叩いてをしつつ、わたしは正面の姫様をこっそりと見る。
白絹を思わせる艶やかな長い髪に陶器のような白い肌。そしてやや伏せられた鮮やかな赤い瞳と花びらのような濃桃色の唇。
夜が明けたばかりの薄暗い部屋の中、吊るしランプの明かりにぼんやりと白く浮かぶ彼女は、神々しくもどこか妖しげな美しさがあった。
この里山一帯が一度も不作や飢饉を経験せず、他のどこよりも恵み豊かであるのは、山の神であり田の神でもある姫様のご加護によるものだ。
そのご加護を未来永劫受けられるように、彼女の子孫である倉橋家は姫様を代々守護している。
姫神が不自由なくこの地で暮らせるように、あらゆるすべてを差配する――。
数百年前に交わされたというその契約には、身の回りの物だけでなく、身の回りの世話をする者も含まれる。
わたしは泰明さんに目を移した。
ワイシャツにネクタイを締めて黒色のセーターを着込んだ美しい青年は、黙々と包丁の背で七草を叩いている。
契約をして以来、倉橋家には数世代にひとり姫様を視ることができる男子が生まれるようになった。その男子は七つの年にこの屋敷へ迎えられ、
泰明さんは、その数世代にひとりの視える者だ。
本来であれば姫様の前に座り儀式を行うのはわたしではなく泰明さんのはずだった。
でも、彼はわたしに世話役を譲られた。
そして譲られたにもかかわらず、いつもなにかと屋敷のことを気にかけてくれている。
……本当は世話役になりたかったんじゃないのかな? と思うことがある。
それなのにわたしに――どこにも寄る辺ない身の上のわたしに居場所を作ってくれたと、そう思えてならない。
どうしたらこのご恩を返せるだろう。
なにか彼のためにできることはないだろうかと、そう思わずにはいられない。
七草を叩き終わって、わたしは顔を上げて姫様をじっと見つめた。
彼女はなにも言わない。どこかぼんやりとうつろな眼差しで七草を見下ろしている。
「…………姫様?」
小さく声をかけると、唇が花開くようにわずかにほころび……よだれがつーっと垂れた。
泰明さんが大きく咳払いする。
「ほがっ……ん? おぉ、あかり。
まるで何事もなかったようににこりと笑うが、他の全員が心の中で突っ込みを入れたに違いなかった。
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