14.新婚さんいらっしゃい

 五月最後の週末は夏を思わせるような暑さで、青い空には眩い太陽と白い雲が浮かんでいる。真帆はやや緊張した面持ちで、電車に揺られていた。

 通勤時ほどではないけれど、車内はそれなりに混雑している。近くに立っている大学生ぐらいの男女四人組はウキウキとパンフレットを広げていて、どうやらこの先にあるテーマパークに向かうらしい。きゃあきゃあとはしゃぐ声は微笑ましく、不快な音量ではなかった。


「悪いな。せっかくの休みなのに」


 楽しげなやりとりに耳をそば立てていると、穂高が言った。真帆は「ううん」とかぶりを振る。


「私もご挨拶したかったから、大丈夫だよ」

「別に、そんなにかしこまることもないから」

「こんな格好でいいのかな……もっとちゃんとした格好の方がよかったかも」

「大汐はいつでもちゃんとしてるだろ。その服、似合ってる」


 穂高はこういうとき、意外とさらりと真帆を褒める。真帆はこっそり頰を赤らめて「ありがとう」と答えた。

 今日の真帆の服装は、ストライプのシャツワンピースだ。穂高は「適当でいい」と言ったけれど、初めて夫の家族に会うのだから、もっとフォーマルなスタイルの方がよかったかもしれない。


 先日、穂高がやや申し訳なさそうに「俺の兄夫婦が、大汐を連れて遊びに来いって言ってる」と切り出してきた。

 穂高は「嫌なら断ってもいい」と何度も言ったが、真帆の方も会いたいと思っていたので、断る理由がなかった。かくして話はトントン拍子に進み、こうして彼の兄夫婦の家に遊びに行くことになったのである。

 それにしても、「いまさら挨拶に来るなんて」などと怒られないだろうか。普通は入籍前に挨拶を済ませておくべきなのだろうが、自分たちの結婚はかなりイレギュラーかつ非常識だったので仕方がない。無礼な女だと思われていないだろうか、と心配になる。


「お兄さんとお義姉さんって、どんな人?」


 電車の窓の外を流れる景色を眺めながら、真帆は尋ねた。穂高は顎に手を当てて「どんなって言われてもな」と首を捻る。


「普通だよ。義姉さんはおしゃべりで明るい。兄貴は……昔は尖ったナイフみたいな奴だったけど。結婚してから丸くなったな」

「尖ったナイフ?」


 それはちょっと意外だ。たしかに昔の穂高も多少はトゲトゲしていたけれど、触るもの皆傷つけるようなタイプではなかった。

 真帆の頭に、特攻服を着てバイクを乗り回す一昔前のヤンキーのイメージが浮かぶ。「ウチの大事な弟に何をしてくれとんじゃい」などとヤキを入れられたらどうしよう。

 傍に立つ穂高の顔を、真帆はちらりと盗み見る。毎日のように見ていても、未だに新鮮な気持ちで「顔が良いな」と思う。彼のお兄さんも、相当なイケメンなのだろう。


「でもきっと、かっこいいんだろうね。五十嵐くんのお兄さん」


 真帆の言葉に、穂高は何故だかむっと眉を寄せた。ややムキになったような口調で言う。


「たしかに昔からモテてたみたいけど……言っとくけど、兄貴は結婚してるからな。義姉さんとすげえ仲良いし」

「知ってるよ。というか、なんの心配してるの? 私も結婚してるよ」


 そう言って結婚指輪を見せつけると、穂高も自らの左手薬指に視線を落として、「……そうだった」と呟いた。




 穂高の兄夫婦の家は、駅から歩いて十分ほどの場所にあるタワーマンションだった。まるで巨塔のごとくそびえ立つ建物を見上げ、真帆は少々気後れする。

 大理石が敷かれた高級感のあるエントランスはひやりと涼しく、何を模ったのかわからないオブジェが鎮座していた。穂高は慣れた手つきで部屋番号を押すと、「俺」と短く言った。すぐに自動ドアが開く。入ってすぐにある受付にはコンシェルジュが待ち構えており、ますます緊張が高まった。

 エレベーターはボタンを押すまでもなく階数ボタンが点灯していた。二十七階だ。ぐんぐんと猛スピードで上っていく感覚は、なんだか眩暈に似ている。


「……こういうとき、停電とか起きたらどうしようって思わない?」

「タワマンのエレベーターは、大体予備電源があるから簡単には止まらないらしいぞ」

「そうなんだ。物知りだね」


 そんな会話を交わしているうちに、部屋の前に着いた。穂高がインターホンを押すと、「はーい!」という元気いっぱいの声とともに、可愛らしい女の子の姿が現れる。予想外に小さな子が現れたので、真帆は面食らった。


「こんにちはあー!」

「こ、こんにちは」

芙柚ふゆ、久しぶり」

「あっ、新婚さんいらっしゃーい!」


 幼女の後ろから現れたのは、ショートヘアの快活そうな女性だった。シンプルなTシャツにデニム姿だ。きっと穂高の義姉だろう。真帆はしゃきんと背筋を伸ばす。


「あっ、そちらが穂高くんの結婚相手? うわあ、きれいな子じゃーん。やるねえ、穂高くん」

「はじめまして。お邪魔します」

「まあまあ、挨拶はあとでゆっくり。とにかく入って入って。おーい伊織いおりくーん! 新婚さんが来たよー!」


 真帆と穂高は、案内されるがままにリビングへと通される。立派なアイランド式のキッチンには、穂高によく似た背の高いイケメンが、黒いエプロンをつけて立っていた。


「おう、穂高。来たか」


 どうやらピザを作っているらしく、生地の上にピーマンやらベーコンやらを乗せている。これがきっと、穂高の兄なのだろう。


(なるほど、想像以上にかっこいい)


 昔からモテていた、という穂高の言葉も嘘ではないのだろう。うっすらとお洒落な髭が生えていて、長めの髪には軽くパーマがかかっていて、バーテンダーのような雰囲気だ。元ヤンらしさはほとんど感じられない。真帆はぺこりと頭を下げた。


「はじめまして。大汐……じゃなくて、五十嵐真帆です」

「穂高の兄の伊織です。こっちは妻の千明ちあき。それから娘の……」

「いがらしふゆ、ごさいです! はじめまして!」


 元気いっぱいの自己紹介に、真帆は微笑みを浮かべる。千明は真帆の両手を取って、ぶんぶんと振り回してきた。


「いやあ、まさか穂高くんがこんなに可愛いお嫁さん見つけてくるなんてねー! いきなり〝今から入籍するから証人になってくれ〟って言われたときは何の冗談かと思ったけど!」

「あ、その節はお世話になりました……」


 そういえば真帆と穂高の婚姻届の証人欄には、この二人にサインをしてもらったのだった。穂高は千明に、手土産の紙袋を手渡す。


「義姉さん。これ」

「わあっ、フルーツ大福! ありがとう、ここのやつ大好きなの! あとでおやつに食べよう! ねえねえ、芙柚ちゃんはどれがいい?」

「ふゆはイチゴ!」

「じゃあママはマスカットにしようかなー」


 千明と芙柚は賑やかだが、伊織は無言のままピザを作り続けている。弟と同じく、どちらかというと寡黙なタイプなのかもしれない。しばらくすると、オーブンから良い匂いが漂ってきた。


「千明。そろそろ一枚目のピザが焼けるぞ」

「じゃあそろそろ昼ごはんにしましょー。安物だけどワイン買ってきたの! 真帆ちゃんはお酒飲める人? 赤と白どっちがいい?」

「あ、飲めます。じゃあ白ワインで……」


 真帆と穂高はダイニングチェアに腰を下ろす。目の前に置かれたグラスに、白ワインをなみなみと注がれた。ほんのりと香る白ブドウの匂いが芳しい。


「じゃあ、結婚おめでとーう! 乾杯!」


 千明が明るくグラスを持ち上げると、芙柚も「かんぱい! かんぱい!」とオレンジジュースの入ったコップをぶつけてくる。そのあまりの愛らしさに、真帆は頰を綻ばせた。これまで小さい子どもと接する機会があまりなかったけれど、こんなにも可愛いものなのか。

 伊織のお手製らしいピザも、サーモンマリネもシーザーサラダもとても美味しかった。ワインともよく合う。お世辞ではなく「美味しいです」と褒めると、「うちは料理は伊織くんの役目なの!」と千明はニコニコしている。


「真帆ちゃん、いっぱい食べてね! 伊織くん、二人が来るからって張り切って作りすぎたから!」

「はい、ありがとうございます」


 千明がフレンドリーなタイプだったおかげで、真帆の緊張も次第に解けてきた。芙柚も人懐っこいタイプらしく、「まほちゃん、ふゆのトマトあげる」などとあれこれ話しかけてくる。「芙柚、トマトもちゃんと食べなさい」と伊織に窘められていた。


「ねえねえ穂高くん、真帆ちゃんといつから付き合ってたの? 彼女いる素振りなんて、全然見せなかったじゃない。伊織くんは知ってた?」


 千明はやや酒が回っているのか、頬がほんのりとピンク色に染まっている。バシバシと肩を叩かれた伊織は、「いや」とかぶりを振った。


「俺も全然知らなかった。いきなり電話かかってきたから、何事かと思ったよ」

「ほんと、秘密主義よねー」


 千明にじとっと睨みつけられた穂高は、涼しい顔でワインを飲んでいる。

 どうやら穂高は、結婚の経緯を兄夫婦にも話していないらしい。実は付き合ってなかったんです、と事情を説明すべきか悩んだ。


「おまえ、父さんにも真帆さんのこと言ってなかっただろ。いくらなんでも、事後報告は非常識だぞ。見合いの話だってあったんだから……」

「……うるさいな。ちゃんと報告したんだからいいだろ。てか、大汐の前で見合いの話なんかすんなよ」

「すみません。私も先にご挨拶すべきでした」


 唐突にピリッと緊張した空気が流れて、真帆は慌てて口を挟む。

 やはり父親の話題は、穂高の地雷なのだ。それをわかっていて容赦なく踏み抜いていくあたり、さすが兄と言うべきか。


「いや、真帆さんは悪くない。どうせ穂高こいつのことだから、真帆さんの意見も聞かずに強行したんだろ」

「でも、その日のうちに入籍するのを了承したのは私です。私も、五十嵐くんと結婚したかったので」


 真帆は伊織の目を見て、きっぱりと答えた。

 たしかに多少は流された感は否めないけれど、自分の選択を穂高の一方的な落ち度にされるのは嫌だ。彼と結婚することを選んだのは、他でもない真帆自身なのだから。

 伊織はやれやれと肩を竦めると、鋭い眼光で穂高を射抜いた。なるほどそういう顔をすると、ちょっと元ヤンの面影を感じる。


「穂高、さすがに真帆さんのご家族には挨拶したんだろうな?」

「私……他に家族がいないので。その点については大丈夫です」


 真帆が言うと、伊織ははっとしたように目を伏せた。叱られた子どものようなばつの悪そうな表情は兄弟そっくりで、なんだかおかしくなる。


「それは、無神経なことを……」

「気にしないでください。だから私、五十嵐くんと家族になれて嬉しいんです。素敵なお義兄さんとお義姉さんと、可愛い姪っ子もできたし」

「ま、真帆ちゃん!」


 真帆の言葉に、立ち上がった千明が勢いよく抱きついてきた。感極まった様子でこちらを見つめる瞳に涙が滲んでいる。もともと涙脆いのか、あるいは少し酔っ払っているのかもしれない。


「うっうっ、穂高くん、ほんとにいい子と結婚したねえ……よかったねー……」

「千明さん……」

「私のこと、おねえちゃんって呼んでもいいからね……! 穂高ァ! 泣かせんなよ! 絶対幸せにしてやるんだぞー!」


 千明はそう言って、真帆の胸でおいおいと泣き出す。穂高は呆れた視線を義姉に向けたあと、じっと真帆の方を見つめながら「そのつもりだよ」と答えた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る