15.絶対幸せにします
はしゃぎ疲れたらしい芙柚は、真帆の膝に頭を預けてスヤスヤ寝てしまった。つい数分前までは口の周りに粉をいっぱいつけながらフルーツ大福を食べて、「保育園のアオトくんに告白されたけど、ふゆはまさひろ先生のことが好きなの」という話をしてくれていたのだが。
子どもの体温は大人よりもうんと高い。真帆は手を伸ばして、汗で額に貼りついた髪をそっと剥がしてあげる。可愛い。そのうち自分も、穂高との子どもを産むのだろうか。想像してみようとしたけれど、うまくできなかった。
「あれっ、もうお酒なくなっちゃったの?」
赤い顔をした千明が、空になった缶をひらひらと振った。
赤のワインボトルは、千明がほぼ一人で空けていた。相当な酒豪なのだろう。ソファの背もたれに顎を乗せると、キッチンで洗い物をしている伊織に向かって言った。
「伊織くん、お酒買ってきてよー!」
「俺、今手が離せない。穂高に頼めよ」
「じゃあ穂高くん、頼んだ!」
「ええ? しょうがないな……」
穂高はげんなりした表情をしつつも、渋々立ち上がる。真帆の膝で眠る芙柚を見てから、声をひそめて尋ねてきた。
「俺、ちょっと行ってきてもいいか」
「うん。私は大丈夫」
「大汐、何飲みたい?」
「うーん。じゃあ、レモンサワー」
「わかった。義姉さんは、どうせアルコールが入ってたら何でもいいんだろ」
「人のことアル中みたいに言わないでよねー」
千明はぶーぶーと頰を膨らませる。穂高は「行ってきます」と言うと、財布とスマートフォンだけを持って部屋を出て行った。
「そういえば、二人とも何で苗字で呼び合ってるの? ここにいるの全員〝五十嵐〟なのに、なんだか面白いね」
千明はそう言って、くすくすと肩を揺らして笑った。たしかに、今となっては真帆も「五十嵐」なのに、未だに五十嵐くん呼びを続けているのはなんだかおかしい。
「そういえば、変えるタイミングがなくて……」
「そうなの? 初々しくて可愛いけど、名前で呼べばいいのに」
「穂高、名前で呼んでやれば喜ぶと思うよ」
洗い物を終えた伊織が戻ってきて、千明の隣に腰を下ろす。テーブルの上に散乱した空き缶を集めながら、続けた。
「あいつ、自分の名前気に入ってるらしいから」
「そうなんですか?」
「……母さんがつけてくれた名前だから、って言ってた」
伊織の言葉に、真帆ははっと息を飲む。
穂高の母は、彼が中学三年生の頃に亡くなった。真帆の頭に浮かんだのは、下を向いたまま歯を食いしばって、声も立てず涙をこぼしていた男の子の姿だった。そっと握りしめた手の感触まで蘇ってきて、真帆はぎゅっと拳を握りしめる。
「真帆さん」
伊織はラグの上で正座をすると、ソファに座っている真帆をまっすぐに見上げてきた。真帆も正座をするべきか迷ったが、膝で芙柚が眠っているために身動きが取れない。
「あいつと結婚してくれて、ありがとう」
「いえ、そんな。何も、お礼を言われるようなことじゃありません」
別に真帆は、穂高のために結婚したわけではない。真帆が結婚したかったタイミングで、穂高にプロポーズされただけだ。
真帆が困惑していると、伊織は頭を下げたまま続ける。
「……ずっと後悔してたんだ。母さんが死んだとき、俺は家に寄りつきもしなかった」
あのときのことは、真帆もよく覚えている。ひとりぼっちになってしまった穂高のそばに、たまたま居合わせたのが真帆だった。
それでも、隣にいても――何もしてあげられなかったのは、真帆も同じだ。
「……母親は穂高を産んですぐ病気になって……俺はずっと、自分が世界で一番不幸みたいな気持ちだった。穂高がどんな気持ちでいるかなんて、想像もしなかった」
「伊織さん……」
「千明と結婚して、千明があいだに入ってくれるまで、あいつと兄弟らしい会話なんて、まともにしたことなかったよ」
「ほんと、最初は大変だったんだから! ろくに目も合わせない無表情の男二人に挟まれて、一人でべらべら喋ってた私の気持ちにもなってよね」
冗談めかして胸を張った千明に、伊織は柔らかな笑みを向ける。その瞳には驚くほど優しい色が浮かんでいて、素敵な夫婦だな、と真帆は思った。
「俺たぶん、千明がいなかったらもっとろくでもない奴になってたから。穂高も……俺にとっての千明みたいな人に、出逢えたらいいなって思ってた」
「……いえ、私は……」
「自分が何もしてやれなかったから、せめて誰かと幸せになってほしい、だなんてムシが良すぎるよな」
「……」
「……でも、あいつがちゃんと誰かのことを好きになって、自分で結婚相手を見つけることができてよかった」
伊織の話を聞きながら、真帆は何も言えず俯いていた。
きっと穂高にとっての真帆は、伊織にとっての千明とはまったく違う。自分たちの関係は、普通の夫婦とは前提から違っているのだ。
穂高が真帆を結婚相手に選んだのは事実だけれど、それは穂高が真帆を好きだからではない。ただ単に結婚相手として手頃な、天涯孤独の女がそこにいただけだ。
しかし瞳を潤ませている伊織を見ると、それは違うんです、とはとても言えなかった。真帆はただ下を向いて、すうすうと寝息をたてる芙柚の頰を撫でている。
「真帆さん。これから穂高のこと、よろしくお願いします」
伊織は床に額を擦りつけるほどに深々と頭を下げた。ぎゅうっと胸が苦しくなる。
穂高のことを真剣に心配してくれる家族がいることが嬉しくて――ほんの少しだけ、妬ましいような気持ちになった。
「……はい。絶対幸せにします」
喉から絞り出した声は、僅かに掠れていた。
彼が、そのつもりだよ、と言ってくれたように。始まりが恋じゃなくても、愛がなくても、きっと幸せな夫婦になれる。
そのときガチャンと扉が開く音がして、「ただいま」という声とともに穂高が帰ってきた。ずっしりと重そうなエコバッグを持った穂高は、リビングの光景を見て目を丸くする。
「……大汐。うちの兄貴土下座させるなんてすげえな。昔は〝返り血の伊織〟だか〝狂犬の伊織〟とかいうダサい異名まであったんだぞ」
一体何やったんだよ、という穂高の言葉に、千明が明るい声をたてて笑う。ようやく顔を上げた伊織は、やや気まずそうに「人の黒歴史を晒すな」と言った。
結局ダラダラと夕方まで飲んで、自宅マンションに帰ってきたのは夜十九時だった。おつまみを食べていたせいかあまり空腹を感じておらず、お茶漬けを二人で食べた。
風呂に入ってソファでのんびりしていると、LINEの受信通知が鳴り響いた。開いてみると、千明から『今日は来てくれてありがとう。また遊びに来てね!』というメッセージが届いている。大吟醸の写真とともに『今度はこれを飲もうぜ!』というコメントが続いて、真帆は思わず吹き出した。
ぜひご一緒させてください、と送信すると、バスルームから穂高が出てきた。穂高はガシガシとバスタオルで髪を拭きながら、座椅子の上に腰を下ろす。
「今、千明さんからLINE来てたよ。今度は大吟醸飲もう、だって」
「あんなに飲んだのに、また飲むつもりなのか……」
「伊織さんも千明さんも、すごくいい人でよかった。芙柚ちゃんは可愛いし」
「そうか。じゃあ、また遊びに行こう」
穂高は心底ほっとしたように言った。お父さんには会わなくていいの、と尋ねようかと思ったけれど、おそらくそれは地雷だろう。代わりに、「五十嵐くんの家族に会えてよかった」と口にした。
「お兄さん、五十嵐くんのこと大事に思ってるんだね」
「……そうかな」
穂高は少し照れたように頰を掻く。真帆は思わず、「羨ましいな」と口にしていた。彼が怪訝そうにこちらを見ているのに気付き、慌てて言い訳のように続ける。
「……えっと……自分を心配してくれる家族がいるのって、いいなーって。私にはもう、いないから……」
ぎこちない作り笑いを浮かべた真帆に、穂高は何故かむっと不満げに唇を曲げた。「なんでだよ」と言う声には、僅かな苛立ちが滲んでいる。
「俺がいるだろ」
「え」
「俺たち、もう家族なんだから。大汐になんかあったら、俺が心配するよ」
「……ほん、とに?」
「あとまあ、兄貴と義姉さんと芙柚のことも……大汐の気が向いたら、家族だと思ってくれていいから」
穂高の言葉に、真帆は胸にほんのりと温かなものが注ぎ込まれたような気持ちになった。ぱきぱきに乾いて強張っていた心の一部分を、優しく溶かしてくれるようなぬくもり。
(やっぱり、この人と結婚してよかった)
幸せにする、と言ってくれた言葉に、きっと嘘はない。自分も彼のことを幸せにしてあげたいと、真帆は心の底からそう思った。
これから妻として、彼に何をしてあげられるだろう。どうしたら、もっと喜んでもらえるんだろう。
――名前で呼んでやれば喜ぶと思うよ。
そのとき思い出したのは、伊織の言葉だった。
果たしてこんなことで喜んでもらえるのだろうか、と疑問を抱きつつも、真帆はそっと唇に彼の名を乗せた。
「ありがとう。……ほ、穂高」
「へ」
唐突に名前を呼ばれた穂高の反応は、存外間抜けなものだった。
ぽかんと口を開けて、まじまじとこちらを見つめている。なんだか居た堪れなくなった真帆は、気まずい空気を跳ね飛ばすように、勢いよく立ち上がった。
「……私、もう部屋戻るね」
「あ、え、うん」
真帆はパタパタとスリッパを鳴らして、足早に自室へと向かう。ドアノブに手をかけた瞬間に、背中から声が響いた。
「真帆」
どきっ、と心臓が大きく跳ねる。
聞き間違いでなければ、それは確かに自分の名前だった。母が唯一自分に残してくれた、何よりも大切な名前。
「……おやすみ」
「お、おやすみなさい」
平静を装いつつも後ろ手で扉を閉めて、はーっと大きな息をついた。薄暗く静かな部屋の中で、心臓の音だけがどきどきと響いている。
(なんだこれ、照れる。ものすごく照れる)
夫の名前を呼んだぐらいで何を、とも思うが、頰の温度はどんどん上昇していくばかりだ。ほだか、ともう一度小声で呟いて、また少し恥ずかしくなった。
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