13.「嘘つき」

 なんとか玉ねぎに勝利して、父に手伝ってもらいながら、真帆は三人分のオムライスを完成させた。

 卵が一番綺麗に巻けたオムライスは、お客さまである穂高のものになった。二番目に上手にできたのは父のもの、失敗してぐちゃぐちゃになったものが真帆のものだ。味は変わらないから、何の問題もない。


「いただきます!」

「……いただきます」


 父と真帆は揃って手を合わせると、スプーンでオムライスをすくって頬張った。父が大袈裟に「美味い! やっぱり真帆は天才だなあ!」と褒めるものだから、真帆は恥ずかしくなる。二人のときはいいけれど、今日は穂高がいるのだからやめてほしい。

 穂高は父とは対照的に、特に感想を述べることもなく、黙々とオムライスを口に運んでいる。彼はきっと普段から高級なものを口にしているのだろうし、百グラム九十円の鶏肉で作った手料理など出すべきではなかっただろうか。

 真帆は不安になったが、穂高は眉ひとつ動かさずオムライスを食べている。美味しいとか不味いとか、何か言ってくれればいいのに。

 真帆が半分も食べ終わらないうちに、穂高はあっというまにオムライスを平らげてしまった。少し物足りなさそうな顔をしているので、真帆は尋ねてみる。


「……まだ残ってるけど、いる?」

「え、いいの。食べたい」


 間髪入れず答えが返ってきた。もしかすると、結構気に入ってもらえたのだろうか。

 真帆はキッチンに行くと、再び卵を焼いてチキンライスを包んだ。さっきよりもうんと上手にできて、真帆はよしよしと満足げに頷く。

 ふたつめのオムライスを、穂高は綺麗に平らげてくれた。やっぱり美味しいとは言ってくれなかったけれど、自分の食べるものを残さず食べてくれることは嬉しかった。見ているこっちがおなかいっぱいになりそうだ。


「すごいね。あんなにいっぱい作ったのに、なくなっちゃった」

「ありがとう。ごちそうさまでした」

「いやあ、男の子はやっぱり食べるなあ。見てて気持ち良いよ」


 両手を合わせた穂高を見て、父は嬉しそうに破顔する。立ち上がると冷蔵庫からプリンを取り出して、穂高の前に置いた。蓋には油性マジックでデカデカと「父」と書いてある。


「特別に、これは穂高くんにあげよう」

「え」

「真帆と仲良くしてくれてるお礼だよ。あと、社長の息子に恩を売っておこう」


 父はアハハと笑ったが、穂高は暗い顔で俯いた。プリンをじっと見つめたまま、「俺に恩売っても、無駄ですよ」と吐き捨てる。


「俺、親父と仲悪いんで。嫌いなんです」

「そうかあ。まあ、親子といえど相性はあるからね。別に、無理して好きになることないんじゃないかな」


 父の言葉に、穂高は弾かれたように顔を上げた。ぱちぱちと瞬きをして、じっと父のことを見つめている。


「……自分の父親にそんなこと言うな、って言われるのかと思った」

「いや? 親子だからわかり合えるはず、愛し合うべき、だなんて先入観はただの呪いだよ」


 顔色ひとつ変えず言ってのけた父に、穂高は目を見開く。缶ビールをちびちびと飲みながら、あっけらかんと父は語る。


「おじさんも、両親と上手くいってなかったからね。もう何十年も、連絡も取ってない」


 真帆は黙って聞いたけれど、内心驚いていた。父が自分の家族の話をすることは滅多にない。父は優しく真帆に微笑みかけたあと、穏やかな口調で続けた。


「病弱だった真帆の母さんとの結婚を猛反対されて、それでも強引に押し切ってから、完全に親と縁が切れたよ」


 父はちょっと自嘲するように眉を下げて、唇の両端をつり上げる。いつもの子どもみたいな笑顔とは違う、年相応の笑みだった。


「今考えると、完全に縁を切らなくても……もう少しお互いに折り合いをつけて、居心地の良い距離感を模索してもよかったのかなと思うけどね」

「……折り合い?」

「家族だと思うから、お互いに期待しすぎてしんどくなるんだよ。相手もただの人間だと思うようになってから、僕はちょっとだけ楽になった」


 父はそう言って、ぐいっと缶ビールを飲み干す。穂高は神妙な顔で父の話を聞いていたけれど、「なんとなく、わかりました」と頷いた。




 プリンを食べたあと、真帆と父は穂高を自宅まで送って行った。穂高は一人で大丈夫だと言ったけれど、父は「おじさんのぶんのプリンを買いに行くついでだよ」と言った。

 穂高の自宅は想像以上に立派な豪邸だったけれど、電気が点いておらず真っ暗だった。穂高は「ありがとうございました」と頭を下げると、門をくぐって中に入っていく。部屋の電気が点くのを確認してから、真帆と父は並んで歩き出した。

 夜になっても暑さは和らぐことなく、不快な夏の熱気がむわっと身体にまとわりつく。真っ黒い星のない空に、白い月だけが寂しく浮かんでいた。


「……ねえ、お父さん」

「うん?」

「お母さんと結婚したこと、後悔してる?」


 街灯に照らされた父の顔を見上げながら、真帆は尋ねた。家族と縁を切ってまで母と一緒になったのに、母は結局いなくなってしまった。もし母と結婚しなければ、父は家族ともう少し良好な関係を築けていたのだろうか。


「いや、まったく。真帆にも会えたしね」


 しょんぼりしている真帆の様子に気付いたのか、父はぽんと真帆の頭に手を乗せた。嬉しくないわけじゃないけれど、中学生にもなって頭を撫でられるのはなんだか気恥ずかしくて、「やめてよ」とそれを振り払う。


「……両親は選べなかったけれど、母さんのことは自分で選んだ。自分で選んだ人と家族になれるって、いいなって思ったよ」


 隣から聞こえたのは、いつも明るい父の声とは思えないものだった。

 弾かれたように顔を上げると、父はどこか遠くを見つめていた。もしかすると、母のことを思い出しているのだろうか。真帆は母のことをほとんど覚えていないけれど、父にとってはそうではない。


「ただひとつ、後悔していることがあるとしたら……」

「したら?」

「……もしお父さんがいなくなったら、真帆がひとりぼっちになることかな。もっと真帆が頼れる人との繋がりを、残しておけばよかった」


 父の言葉に、真帆ははっと息を飲む。もし父がいなくなったら、と――想像しただけで、胸が張り裂けそうになった。

 大切な人を失う痛みを、真帆はまだ知らない。病院の前で項垂れていた穂高の姿を思い出す。大切な人に置いて行かれる恐怖に、きっと彼は今も怯えているのだ。

 真帆は思わず、隣にいる父の手をぎゅっと握りしめた。


「ごめん、真帆。変な話しちゃったな」

「……お父さん……私をひとりぼっちに、しないでね」


 ふいに溢れた言葉に、父は眉を下げて笑う。「真帆がおばあちゃんになるまでは生きるよ」と優しく手を握り返してくれて――





(……嘘つき)


 夢と現実の狭間で、真帆はそう思った。

 頭が覚醒していくにつれて、夢の輪郭はどんどんあやふやになっていく。優しい笑顔も声も手に残る温度も、消えないで、と思っているうちに、溶けるようになくなってしまった。残ったのは、胸にぽっかりと穴が空いたような虚しさだけ。

 父が死んでから、父の夢を見るのは初めてだった。父が死んだあの日のことを、真帆はできるだけ思い出さないようにしている。じりじりと押し寄せてくる薄暗い感情に、目を閉じたまま耐える。


(大丈夫。心を殺せば、悲しみも痛みも何も感じずに済む)


 心を落ち着けて、ゆっくりと目を開ける。すると、驚くほど整った顔が間近にあった。ぱちんと目と目が合って、思わず「ぎゃっ」と声が漏れる。


「あ、起きた」

「い、五十嵐くん……何してるの」

「寝顔見てた」


 あっけらかんと答えた穂高に、真帆は両手で顔を覆う。いつのまにか、身体にブランケットが掛けられていた。彼が掛けてくれたのだろう。

 リビングで居眠りしていた自分が悪いのだが、寝顔をまじまじ観察されるのは恥ずかしい。半目になったり、涎を垂らしたりしていなかっただろうか。

 真帆は起き上がると、ソファに座り直した。穂高はラグの上で胡座をかいたまま、じっとこちらを見つめている。風呂上がりらしくバスタオルを肩から掛けて、短い髪は少し濡れていた。


「こんなところでうたた寝してたら、風邪ひくぞ」

「じゃあ、起こしてくれたらよかったのに」

「気持ち良さそうに寝てたから、いい夢でも見てるのかと思って」


 なにげない穂高の言葉に、真帆の鼻の奥は、玉ねぎを微塵切りしたときのようにツンとなった。

 紛れもなく、いい夢だった。もう二度と戻ってこない、父と過ごした幸せな日々。

 今の真帆は、大切な人を失う痛みを知っている。あの日の穂高の気持ちが、今なら理解できる気がした。

 

「五十嵐くん……」

「うん?」

「……オムライス、美味しいやつ作るね。鶏肉がいっぱい入ってて、デミグラスソースがかかってるやつ」


 大好きな父は、いなくなってしまったけれど――今の真帆には、自分の作った料理を「美味しい」と言って食べてくれる家族がいる。この人と家族になることを選んだのは、他でもない真帆自身だ。

 きっと今なら、あのときよりももっと綺麗なオムライスが作れる。もう、玉ねぎを刻んで泣いたりしない。真帆の言葉を聞いた穂高は、「楽しみにしてる」と微かに笑んだ。

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