12.おとうさんといっしょ

 スーパーで買い物をしたあと、真帆は穂高を連れて自宅アパートへと帰ってきた。窓を閉め切っていた部屋はむっとした熱気に包まれていて、真帆は慌ててエアコンのスイッチを入れる。

 穂高はスニーカーを脱ぐと、やや居心地悪そうに表情を強張らせたまま「……お邪魔します」と言った。


「どうぞ。そのへんに座ってて」

「……大汐の父さんは?」

「まだ仕事だよ。たぶん、七時頃に帰ってくると思う」

「へー……」


 穂高はキョロキョロと、落ち着きなく周囲を見回している。真帆が父と暮らすアパートはそこまで古くも狭くもないし、真帆のための一人部屋だってちゃんとある。それでも、イガラシの御曹司である穂高にとっては、もしかすると犬小屋も同然なのかもしれない。

 よくよく考えると、それほど親しいわけでもないクラスメイトをいきなり自宅に連れ込むなんて、結構大胆なことをしてしまった気がする。一応、父には「今日クラスの子を晩ごはんに呼んだから」とメールを入れておいた。


「五十嵐くん、受験勉強してる?」


 台所に立って米を研ぎながら、真帆は雑談を振ってみる。畳の上であぐらをかいた穂高は、「それなりに」とそっけなく答える。


「どこの高校受けるの?」

「……星南せいなん高校」


 このあたりに住む人間なら誰もが知っている、超有名な私立の進学校だ。真帆は感嘆の声をあげた。


「わあ、めちゃくちゃ頭いいとこだ。さすがだね」

「……別に。俺はどこでもいいんだけど、親父がそこ行けってうるさいから……」

「五十嵐くんなら絶対受かるよ」

「……大汐は、どこの高校受けんの」

「私は浪河なみかわ高校だよ」


 米を炊飯器にセットして、ピッとスイッチを入れる。真帆の答えに、穂高はやや意外そうに瞬きをした。


「浪河? 大汐の成績なら、もっといいとこ狙えるだろ」

「でも公立だし、家から一番近いから。よくわかんないけど、私立だと学費とかも高いんでしょ」


 父は「他に行きたい高校があれば言うんだぞ。真帆のやりたいことは何でもやっていいからな」と言ってくれるが、真帆には大それた将来の夢も目的もなかった。それならできる限り、父の負担が少ない進路を選びたい。


「それに偏差値はそんなに高くないけど、別に荒れてるわけじゃないし、大学への推薦枠も結構多いって聞いたよ。あと、空いた時間でバイトもしたいし」


 つらつらと理由を並べた真帆の言葉を聞いて、穂高はやや恥じ入ったように目を伏せた。


「……大汐、ちゃんと家族のこと考えててえらいな。俺、自分のことばっかりだ」

「別にえらくないよ。私立に行くほど特別やりたいことがないだけだし、バイトしたいのだって遊ぶ金欲しさだもん」

「なんだよ、その犯行動機みたいなやつ」


 穂高と雑談を交わしながら、冷蔵庫から玉ねぎとピーマンを出す。今日のメニューはオムライスだ。少し前までは冷凍のミックスベジタブルを使用していたけれど、今日は穂高もいることだし、頑張って野菜を微塵切りにしよう。

 ゆっくりと、ぎこちない手つきで玉ねぎを刻んでいく。鼻の奥がツーンと刺激されて、自分の意思とは関係なく涙が出てきた。

 ぐずぐずと泣きながら玉ねぎと格闘している真帆を見て、穂高はぎょっとしたように目を丸くする。慌ててキッチンにすっ飛んできた。


「お、大汐。大丈夫か?」

「た、玉ねぎがしみる……鼻水出てきた……」

「……そうか……料理って大変なんだな……」

「うう……前が見えない……」

 

 真帆はいったん手を止めると、目を閉じてボロボロと涙を零す。穂高はティッシュを手に取って、ごしごしと真帆の顔を拭った。ようやく目を開けると、予想外に近くに穂高の顔があって、どきりと胸が高鳴る。


「よし。これでいいか」

「う、うん……」


 傾き始めた夏の太陽が、部屋の中をオレンジ色に染め上げている。夕陽を浴びた彼の顔もとても綺麗だな、と真帆は思わず見惚れてしまう。

 ぽろりと目尻から流れた雫を、穂高の繊細な指が掬い取った。妙に居心地の悪い空気が二人のあいだに流れて、なんだか心臓がむずむずとくすぐったくなる。

 真帆の顔をじっと見つめた穂高が、「あのさ」と口を開いた、そのときだった。


「真帆、ただいまー! なんかお友達が遊びに来てるんだっ……て……?」


 勢いよく開いた扉から、作業着姿の父が部屋に入ってきた。

 包丁を片手に涙目になっている真帆と、困った顔で立っている穂高を見て、かちんとその場に固まってしまう。


「き、き、きみ……う、うちの大事なま、真帆に何を……」


 父が真っ赤な顔をして、ワナワナと体を震わせる。まずい、何か変な勘違いをしているみたいだ。真帆は慌てて事情を説明する。


「お、お父さん。違うの。玉ねぎ切ってたら涙が止まらなくなっちゃっただけだよ」

「へ? 玉ねぎ? あ、ああ、そうなのか……」


 父は気まずそうに頰を掻くと、オホンと咳払いをしたあと、穂高に向かって深々と頭を下げた。


「いや、申し訳ない。いらっしゃい、よく来たね」


 父に笑いかけられた穂高は、背筋を伸ばし、やや緊張した面持ちのまま礼儀正しく挨拶をした。


「はじめまして、五十嵐穂高です。大汐……さんとは同じクラスで……その、いきなり来ちゃって、すみません。お邪魔してます」

「真帆、クラスの子って男の子だったのか。びっくりしたぞ。しかもこんなイケメン、やるじゃないか」

「もう、お父さん……そんなんじゃないってば」


 からかうような父の口調に、真帆は小さく肩を竦める。


「五十嵐くんと偶然会って、晩ごはん一人だって言うから連れてきたんだよ」

「そうかそうか。狭いところで悪いね。どうぞ、ゆっくりしていって」


 父はそう言って、ニコッと明るい笑みを浮かべた。真帆の父親は人懐っこい笑顔が親しみやすく、愛嬌のある風貌をしている。見た目も童顔だけど中身も結構子どもで、対戦ゲームで真帆に負けて本気で拗ねるようなタイプだ。


「ところで、穂高くん。今日うちに来ること、ちゃんとご家族に連絡したのかい?」


 父からの問いに、穂高はちょっとふてくされたような顔をした。


「……いえ。でも、うち誰もいないんで。いつも金置いてあるだけで、適当に晩メシ食ってこいって感じだし。別に連絡しなくてもいいです」

「そういうわけにはいかないよ。心配するだろうし、ちゃんと伝えておきなさい」


 父の口調は穏やかだけれど、有無を言わせない響きがあった。穂高は渋々といった様子で、携帯電話を取り出す。真帆の二つ折り携帯とは違う、つい先月出たばかりの最新型のスマートフォンというやつだ。

 穂高はすいすいと画面に指を滑らせると、不機嫌極まりない顔で耳に押し当てる。ややあって、「俺だけど」とぶっきらぼうに言った。


「今日、クラスの女子んちでメシ食うから。……はぁ? うるせえな、関係ねえだろ。……挨拶?」


 穂高は深々溜息をつくと、真帆の父に向かってスマホを差し出す。


「すみません。親父がおじさんと話したいって」

「あ、そうか。じゃあ代わるよ」


 父は穂高のスマホを受け取ると、「はじめまして、大汐真帆の父です」と快活に挨拶をした。


「いやいや、いいんですよ。お気になさらず。うちも娘と二人ですし、人数が多い方が楽しいですからね。ええ、ええ……こちらこそ。アハハ、今後ともよろしく」


 通話相手には見えないのに、ぺこぺこと頭を何度も下げている。短いやりとりを終えた父は、穂高にスマホを渡しながら言う。


「ありがとう。いいお父さんだね」

「……外面がいいだけだよ。こうやって電話に出るのも珍しいぐらいだ」


 穂高にとっては地雷だったらしく、取り繕うこともせず、ますます表情を険しくする。

 父は穂高の顔をまじまじと見つめたあと、「待てよ、五十嵐って……」と首を捻った。


「もしかして、社長の息子さん?」


 真帆の父は、イガラシの工場に勤務しているのだ。父からの問いに、穂高は苦虫を潰したような表情で「はい」と頷いた。


「じゃあ、さっきの電話は社長か。アハハ、全然気がつかなかったよ。いや、息子さんが真帆の同級生だって噂は聞いたことがあったんだ。うちに来るほど仲が良かったなんて、知らなかったなあ」


 特別仲が良いわけではないけれど、真帆は「そうだね」と曖昧に誤魔化した。穂高はいつものように、鋭い目つきで虚空を睨みつけている。


「しまった。相手が社長だったら、ボーナス上げてください、ぐらい言っておけばよかった」


 父はそんなことを冗談めかして言ったけれど、真帆も穂高も笑えなかった。父は決して悪人ではないけれど、ちょっと空気が読めないタイプだ。

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