09.変わったもの、変わらないもの

 真帆が中学時代の五十嵐穂高を思い出すとき、頭に浮かぶのはいつも端正に整った横顔だった。

 記憶の中にある彼は、いつも真帆の隣を、歩幅を合わせることもなくマイペースに歩いていた。ときおりこちらを振り返っては、「歩くの遅いぞ」と不機嫌そうに唇を曲げて。




 穂高と同じクラスになってから、二ヶ月ほどが経った。

 何をやらせても完璧な御曹司である穂高と、真面目だけが取り柄の平凡な真帆とのあいだに、クラスメイト以上の接点はなかった。それでも穂高は挨拶ぐらいはしてくるし、真帆もそれに応えていた。


 ある日の放課後。真帆は部活もしていないため、いつものようにまっすぐ帰宅することにした。

 六月の空はどんよりと暗く、灰色の空からはざあざあと雨が降り注いでいた。透明のビニール傘をくるくると回しながら、今日は何を作ろうかな、と真帆は考える。

 中学に入学してから、毎日の夕飯を作るのは真帆の仕事になった。仕事で疲れた父に家事を任せるのは忍びないと、真帆の方から言い出したことだ。もちろんそんなに難しいものは作れないけれど、父は何でも美味しいと言って食べてくれる。

 豚肉と野菜の炒め物にしよう、と心に決めたところで、信号待ちをしている後ろ姿を見つけた。真帆と同じ制服を着た、背の高い男の子だ。立派な黒い傘をさした彼の正体に気付いて、真帆はあっと声をあげた。


「五十嵐くん」


 思わず呼びかけてから、失敗したかな、と真帆は思う。もし行き先が同じ方向だった場合、さほど親しくないクラスメイトと帰り道を共にしなければならない。それはちょっと気まずい。

 振り向いた彼は相変わらず不機嫌そうな顔をしていたけれど、真帆の姿を認めて、ほんの少しだけ表情が緩んだ。


「ああ、大汐」

「五十嵐くん、家こっちなの」


 五十嵐家がどこにあるかはしらないが、きっとさぞ豪邸なのだろう。そんな大きなおうち、近くにあったかなあ……などと思いを巡らせていると、穂高は首を横に振った。


「違う。今日は病院に行くんだ」

「えっ。五十嵐くん、どこか悪いの」

「俺じゃない。母さんが入院してるんだ」

「え……」


 真帆が絶句していると、信号が青に変わった。穂高は足早に歩き出す。横断歩道を渡り切ったところで、その場に立ち尽くしている真帆に向かって「何やってんだ。信号変わるぞ」と叫んだ。

 真帆は慌てて、横断歩道を渡る。水溜りを勢いよく踏んづけて、泥水が白のソックスに跳ねた。


「……お母さん、心配だね」

「うちの母さん、もともと身体が弱いんだ。なあ、小鳥遊たかなし病院ってどっちだ。昨日から転院したらしいんだけど、行き方よくわからなくて」

「私、知ってるよ。案内しようか」

「ありがとう」

 

 穂高は真帆の半歩後ろをおとなしくついてきた。なんだかアンドロイドというより忠犬みたいだな、と考えて少しおかしくなる。

 てくてくと歩いているあいだ、会話はまったくなかったけれど、ぱらぱらと雨が傘を叩く音がうるさかったので、それほど気まずい思いはせずに済んだ。

 二十分ほど歩くと、目的の病院についた。「小鳥遊緩和ケアセンター」と書かれた立派な看板を見上げて、穂高は小さく息をつく。そしてもう一度「ありがとう。助かった」と丁寧にお礼を言ってくれた。


「ううん。私もそこのスーパーで買い物して帰るから。じゃあね、五十嵐くん」

「うん。また明日」


 穂高はそう言うと、やや緊張した面持ちで、病院の入口へと歩いていった。その背中はどこか不安げで、余計なお世話だと思いつつも少し心配になる。

 真帆の母親は、真帆を産んでからずっと入院していたらしく、物心つく前に他界してしまった。真帆には母親の記憶がほとんどない。だから、穂高の気持ちを想像することしかできないけれど、きっと身内が入院するのは不安だろう。真帆だって、今父が入院なんかしたら、心細くて泣きそうになる。

 とはいえ、真帆が彼にできることなんて何ひとつない。せいぜい、ひっそりと彼のお母さんの無事を祈ることぐらいだ。

 真帆は踵を返すと、病院の隣にあるスーパーへと向かった。




 翌日、教室で見る穂高はいつもと少しも変わらず、相変わらずの無表情で――ときおり、世界を呪うかのような怖い顔をして――黙々と授業を受けていた。

 真帆は彼のことが気になっていたけれど、突然話しかけるのも気が引けて、結局声をかけられないまま放課後になってしまった。

 今日も空は分厚い雲に覆われていたけれど、雨は降っていなかった。念のためにと持ってきたビニール傘を右手に、真帆は帰路につく。

 校門を出てしばらく歩いたところで、昨日と同じく信号待ちをしている穂高の姿を見つけた。今度は真帆が話しかける前に、彼が真帆に気がついた。


「あ、大汐」

「五十嵐くん。今日も病院行くの?」

「うん」


 穂高は言葉少なに答えた。それ以上会話が発展することはなく、しん、と二人のあいだに沈黙が落ちる。気まずさを感じる間もなく、信号が青に変わった。

 真帆が内心ほっとしていると、穂高は大股で歩き出した。いつものペースでのんびり歩いていると、しばらくして穂高がぴたりと足を止め、くるりとこちらを振り向いた。


「大汐、歩くの遅いな」

「へ」


 どうやら彼は、今日も真帆と一緒に帰るつもりらしい。真帆が小走りで追いつくと、穂高は再びスタスタと歩き出した。

 身長が十センチほど違うのに、歩幅を合わせてくれる気配はないので、まあまあしんどい。ほとんどジョギングみたいな感じだ。


「……五十嵐くんのお母さん、大丈夫なの?」

「わからない。しばらく入院するだろうって言ってた」

「そうなんだ……」


 真帆は俯いた。こういうとき、何を言ってあげればいいのかわからない。下手に慰めたり元気づけたりするのも、変な気がする。

 下唇を噛み締めて黙っていると、「そういえば」と穂高の方が口を開いた。


「大汐、昨日買い物するって言ってたけど、今日もスーパー行くの」

「うん。晩ごはん作るの、私の役目だから」

「母さんは?」

「うち、お母さんいないの。私が小さい頃に死んじゃった」


 そう答えたあと、今穂高の前で言うべきではなかったかも、と後悔した。穂高の母は入院しているのだから、あまりよくない想像をしてしまうかもしれない。

 真帆の顔を見た穂高は、なんだか困ったような、怒ったような、微妙な顔をした。


「なんで大汐が申し訳なさそうにするんだよ」

「いや……変なこと言っちゃったかなって」

「俺の方こそ、無神経でごめん」


 妙に湿っぽくなった空気を跳ね飛ばすように、真帆はつとめて明るい声を出す。


「全然、平気だよ。お母さんのこと、ほとんど覚えてないし。それに私、晩ごはん作るの好きなの」

「すごいな。俺、カップラーメンぐらいしか作れない」

「今日は肉じゃがにするんだよ」


 そんなに大したものは作れないくせに、褒められたのが嬉しくて、ちょっと見栄を張ってしまった。かっこつけたけれど、味付けは市販のすき焼きのタレを利用する簡単レシピだ。


「うちの肉じゃがは鶏肉なの。お父さんが好きだから」

「ふーん。父さんと仲良いんだな」

「そ、そうでもないよ。別に普通だよ。足とか臭いし」


 穂高の言葉を、真帆は慌てて否定する。実際のところ、真帆は父のことが大好きだったけれど、それを同級生に指摘されるのは恥ずかしい。


「そういえば五十嵐くんのお父さん、イガラシの社長さんなんだよね。うちのお父さん、イガラシの工場で働いてるの」


 真帆にとっては、ほんの世間話のつもりだった。

 しかし穂高は険しい表情を浮かべ、「知らねえよ」と吐き捨てた。その口調の乱暴さに、真帆はひゅっと息を飲む。


「知らねえよ、親父のことなんか」


 家族に向けるものとは思えない、憎悪を含んだ声だった。よくわからないけれど、どうやら彼の地雷を踏んだのだろう。


「……ごめんなさい」


 反射的に謝罪を口にした真帆に、穂高もはっと我に返ったように口元を押さえる。


「いや、悪い……俺、親父と仲良くなくて」

「……そうなの?」

「嫌いなんだ、親父のこと」


 心底憎々しげな口調に、真帆は驚いた。真帆の友人の中にも、雑談の中で「あたし、お父さん嫌いなんだよね!」と口にする子はいたけれど、ここまで切実な響きを孕んだ「嫌い」ではなかった。


「親父の奴、母さんが入院してるのに仕事ばっかりで、見舞いにも来やしない。俺たちのことなんて、どうでもいいんだよ」


 そのとき真帆は、穂高がいつも虚空を睨みつけている原因――彼の憎悪の行き先を、ようやく見つけた気がした。彼はきっと実の父親のことを、心の底から憎んでいる。

 そんなことないよ、と否定するのも、それはひどいね、と同意するのも、なんだか違う気がする。そもそも、部外者である真帆が軽々しく口を挟む問題じゃない。


 返答に窮しているうちに、病院に到着した。穂高は「じゃあまた明日」と言って、昨日よりは慣れた様子で建物の中へと入っていく。オレンジ色の夕陽に照らされた彼の背中は、やっぱり少し不安げに見えた。





「おい、信号青だぞ」


 強く右手を引かれて、真帆ははっと現実に引き戻された。二十六歳の五十嵐穂高は、呆れた顔で真帆のことを見下ろしている。あのときよりも身長差は開いて、顔を見ようとするとちょっと首が痛い。


「あ、うん……ごめん」

「大汐、昔からボーッとしてたよな。一回、赤信号渡ろうとしたときは焦った」

「えー、そんなことあったかな」

「電柱に直撃したこともあったぞ」

「余計なことばっかり覚えてるなあ」


 真帆が頰を膨らませると、穂高はふっと笑みを溢した。大人になった彼の表情には、あの頃のような険呑さはないけれど、それでも今も父親への憎悪を胸に燃やしているのだろうか。


「結構遅くなったな。晩飯、適当に何か買って帰ろうか」


 穂高はそう言って、真帆の手を引いたまま歩き出す。今の彼はきっと、煮えたぎる憎悪を覆い隠す術も、女の子と歩幅を合わせることも覚えたのだろう。

 あのときよりも大人っぽくなった端正な横顔からは、何の感情も読み取れなかった。

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