10.気付かないふりばかり上手くなる
「それにしても、真帆がこんなに急に結婚するとは思わなかったなあ」
カップ焼きそばをぐるぐる掻き混ぜながら、風花は感慨深げに溜息をついた。カップ焼きそばのソースの匂いは強烈で、周囲にあっというまにソースの匂いが充満する。昼休みが終わっても鼻にこびりつきそうだ。
社員食堂の片隅で、真帆はソースの匂いを嗅ぎながら弁当を食べていた。ここ最近は昼休憩のタイミングが合わなかったため、風花と二人で昼食を食べるのは久しぶりのことだ。
「あーあ。真帆の結婚、あたしはちゃんと真帆の口から聞きたかったよ。まさか人伝てに聞くことになるとは思わなかった……」
「ごめん。なかなか言うタイミングがなくて」
大袈裟な仕草で泣き真似をした風花に、真帆は慌てて謝った。
本当は入籍してすぐに話すつもりだったのだが、タイミングを逃しているうちに、あれよあれよと真帆が結婚したという噂が広まってしまったのだ。しかも相手がかなりのイケメン、という情報も。穂高が真帆に会いに来たときに、誰かに目撃されたのだろう。あれだけ目立つ男なのだから、無理もないことだ。
「ま、総務のタチバナさんの耳に入ったのが運の尽きだったね。あの人、スピーカーだから」
「ほんとに、風花にはすぐ話そうと思ってたんだよ。電話でもLINEでもすればよかった」
「まあ、しゃあない。いろいろ話も聞きたいし、今度ランチ行こ。埋め合わせにデザート奢ってよ」
「了解です」
こういうときにウジウジと根に持たないところが、風花のいいところである。
知り合いの中には、前触れもなく突然結婚した真帆に対して、「事後報告なんて水くさい」と陰口を叩く者もいた。事情を説明したところで理解してもらえる気がしないので、真帆は結婚の経緯をごく親しい友人以外には話していなかった。もともと、交友関係が広い方でもない。
「しかし、こんなに電撃結婚しちゃって。虎視眈々と真帆のこと狙ってた男どもは今ごろ悲しんでるだろうね。気の毒に」
「存在しない人に同情しても意味ないよ」
「いやいや、真帆って結構人気あるから。同期の中にも、真帆のこと〝クールでミステリアスな雰囲気がいい〟って言ってる奴いたし」
「そうなの?」
身に覚えがまったくないし、実際真帆はクールでもミステリアスでもない。ただぼんやりしていて、表情に乏しくて、口数が少ないだけだ。とんでもない誤解である。
「自覚がないなんて、罪な女だなー。で、どうなの? 新婚生活は」
風花はきらきらと目を輝かせながら、身を乗り出してきた。真帆は卵焼きを頬張りながら、首を傾げる。
「……うーん。新婚生活かあ」
穂高と結婚してからおよそ一ヶ月、一緒に住み始めてからは二週間。正直、あまり結婚した実感はない。
電話に出るときには三回に一回は「大汐です」と言ってしまうし、「五十嵐さん」と呼ばれても咄嗟には返事ができない。このあいだネットのアンケートに答えたときも、自信満々で「独身」にチェックを入れてしまった。
しかし穂高との同居生活そのものは、すこぶる順調である。もっと気を遣うのではないかと思っていたのだけれど、穂高との距離感はちょうど良く、過剰に干渉してくることもない。
穂高は綺麗好きらしく、こまめに掃除をしてくれて、いつも部屋は美しく保たれている。真帆の作る料理を、いつも美味しいと言って残さず食べてくれる。互いに気をつけている甲斐もあり、「お風呂でバッタリ」みたいな古典的なアクシデントも今のところはない。
たった二週間で真帆は穂高のいる空間にすっかり慣れ切ってしまい、寝起きのすっぴんを見せるのも、リビングでパジャマ姿のままゴロゴロするのも平気になってしまった。本当はもう少し恥じらいを持った方がいいのかもしれないが。
「うん、快適だよ。あんまり揉めたりしないし」
「へえ、そうなんだ。いくら中学の同級生だからって、あたしだったらほぼ知らない男といきなり一緒に住むなんて絶対無理だけどな……」
たしかに真帆も、相手が穂高でなければ嫌だったかもしれない。以前に付き合っていた男性とは、結婚を考えないわけではなかったけれど、一緒に生活していくビジョンがまったく見えなかった。まあ、今となってはどうでもいい話だ。
「あの、真帆。その、こういうこと訊いていいのかわからないんだけど」
風花は頰を赤らめ、周囲を気にしながらヒソヒソと囁いてくる。昼休みの食堂は騒がしく、真帆たちに注目している社員は誰もいない。
「その、夫婦の営み的なものはあるの?」
「いや、まったく」
「マジ? ちゅーは? さすがにしたよね?」
「してない」
「ひえええ……プラトニックだなあ。すごい夫婦だ」
真帆の返答に、風花は目を丸くした。
真帆自身、なかなか穂高と夫婦になったという実感が湧かないのはこういうところである。入籍してからの彼との身体的接触は、二人で指輪を買いに行ったときに手を繋いだぐらいだ。2LDKの空間で共同生活をしているというのに、指先ひとつも触れ合わない。高校生のカップルだって、もう少し進展が早いのではないかと思う。
自分たちの関係が夫婦として不自然であることくらい、真帆も重々承知している。それでも真帆はそこに踏み込まないようにしていたし、踏み込んでこない穂高に対しても安堵していた。
「まあ、お互い好きで結婚したわけじゃないし……」
「でも、キスもできない相手と結婚しなくない? 向こうがしたいって言ってきたらどうすんの?」
「うーん……しようと思えばできる、と思うけど」
真帆は穂高に好感を抱いているし、もしも「したい」と言われれば、きっと彼に身体をひらくだろう。なりゆきとはいえ、夫婦になることを了承したのだから当然だ。
しかし、穂高を恋愛対象として見ているのかと言われると――どうにも自信がない。再会してから一ヶ月しか経っていないのだから、当然だ。
……いや。真帆は穂高との「そういうこと」を、意図的に考えないようにしている。せっかく素晴らしい結婚相手が見つかったのだから、無理に恋愛をすることはない。恋愛なんて面倒なだけだ。
「……まあ、たぶん向こうも私とそういうことしたいなんて思ってないよ。これからゆっくり考えていけばいいかな」
風花はなんだか釈然としない表情を浮かべていたけれど、それ以上は追求してこなかった。焼きそばをずるずると平らげたあと、「そういや、もうすぐ推しの舞台があってさあ」と明るく話題を変えてくれた。
仕事を終えて会社を出ても七月の太陽はまだ高く、明るい日差しが降り注いでいた。紺色の折り畳みの日傘を取り出すと、真帆は足早に駅へと歩き出す。
引っ越してから、通勤時間がうんと短縮されたのは良いことのひとつだ。駅前のスーパーで夕飯の買い物をして帰ることにしよう。このあいだ買ったじゃがいもが余っているから、今日のメニューは鶏肉の肉じゃがだ。
穂高と暮らすようになってから、真帆は久しぶりに自分以外の誰かのためにごはんを作ることになった。料理はもともと嫌いじゃないし、自分のためだけにするよりも、美味しいと言って食べてくれる人がいる方がずっと楽しい。「真帆の作るごはんが世界一だ」と笑っていた人は、もういなくなってしまったけれど。
帰宅ラッシュの時間ということもあり、地下鉄のホームはなかなか混雑していた。電車の到着を待つ列の最後尾に並んだそのとき、向かい側のホームに見覚えのある顔を見つけた。
長袖のブルーのシャツに黒のスラックス。体育会系らしく爽やかな短髪。とびきりのイケメンではないけれど、愛嬌があって人好きのしそうな顔立ちをしている。全方位に愛想が良く、笑った顔はもっと魅力的なことを真帆は知っている。真帆もそれに騙された一人なのだ。
そこに立っていたのは、真帆がかつて交際していた男だった。日頃は奥底に押し込めている不快な記憶が、蓋を突き破ろうとしてガタガタ揺れている。
大学時代から五年近く付き合っていた恋人は、およそ三年ものあいだ、真帆の友人と浮気をしていた。
――真帆、本当にごめん。俺が無理やり誘って手を出したんだ。あいつは何も悪くない。
――ごめんね、真帆。私がどうしても諦めきれなくて、関係を続けてもらってたの……私が全部悪いの……。
恋人も友人も互いに「自分が悪い」と主張して相手を庇い、平身低頭して真帆に謝罪を繰り返した。みっともなく言い訳をしたり、口汚く罵ってくれた方が、きっとまだマシだった。
真帆は泣いたり喚いたり、彼らを責めることすらなく、あっさり恋人と別れ、友人とは縁を切った。その後の二人がどうしているのか、真帆は知らない。
彼の顔を見た瞬間に、なんだか上手く呼吸ができなくなった。肺を無数の針で突かれているように、胸が痛くて苦しい。腹の底から湧き上がってくる感情に気がついて、真帆は慌てて目を閉じて深呼吸をする。
想像するのだ。ゴムのように無機質な心が、痛みも悲しみも辛さも全部跳ね返してしまうところを。
心を殺して何も感じないようにすれば、大抵のことは耐えられる。父が死んでから、真帆はずっとそうしてきた。
そのときちょうど、電車がホームへと滑り込んできた。向かい側に立っていた男の姿がようやく見えなくなり、ほっとする。
そのまま何事もなかったのように電車に乗り込んだ真帆は、肉じゃがの付け合わせは何にしようか、とぼんやり考えていた。
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