08.ベーグルとマリッジリング
目が覚めた瞬間、見慣れない天井が目に入った。
自分がどこにいるのかわからず、脳が混乱する。仰向けに寝転んだままボーッとしていると、ようやく現状を把握できた。
(そうだ。昨日から、五十嵐くんと一緒に住み始めたんだった)
起き上がって充電器からスマートフォンを抜くと、うーんとその場で伸びをする。休日なのでアラームはセットしていないけれど、いつも八時前には目が覚めてしまう。枕元の父に、いつものように「おはよう」と挨拶をした。
昨夜は雨が降っていたようだが、カーテンの隙間からは柔らかな太陽な光が差し込んでいた。この部屋は東向きなのだ。
こんな寝起きの顔でいいのかな、と思いつつ、パジャマのまま寝室を出た。穂高はとっくに着替えており、ダイニングテーブルに座ってコーヒーを飲んでいる。テレビドラマのワンシーンかと思った。あまりの眩しさに、真帆はしぱしぱと目を瞬かせる。
穂高は真帆に気付いて、つと視線を上げた。
「ああ、おはよう」
「おはよう。五十嵐くん、早いね」
「五時に起きて近所をジョギングしてきた。シャワーまで浴びたぞ」
「えっ。そんな、休みの日なのに偉すぎる……いつもそうなの?」
「いや、そうでもないけど」
穂高はカウンターの上にある袋を指差して「ジョギングついでに買ってきた」と言った。袋の中身を確認してみると、真ん中に穴の空いたベーグルがふたつ入っている。
「わあ、ありがとう。美味しそうだ」
「コーヒー飲む?」
「ううん、紅茶にする。自分で入れるよ」
真帆はキッチンの電子ケトルのスイッチを入れると、食器棚からマグカップを取り出した。高校時代に修学旅行で京都に行ったときに買った、金閣寺が描かれたマグカップだ。真帆は物持ちがいい方なので、捨てずになんとなく使い続けている。
穂高が買ってきてくれたベーグルは、プレーンとメープルナッツの二種類だった。もちもちとした食感で、優しい甘さでとても美味しい。
「美味しい……このお店どこにあったの?」
「マンションの裏手の道をまっすぐ行ったとこ。近かったぞ」
「そうなんだ。今度別の種類も買ってみよう」
プレーンを食べ終わったので、今度はメープルナッツを手に取る。穂高は何をするでもなく、コーヒーを飲みながらベーグルを頬張る真帆を眺めていた。
ふと思いついて、ベーグルの穴から目を出して覗いてみる。穴の向こうにいる男は、呆れた顔でこちらを見つめていた。うーん、ベーグル越しに見てもイケメン。
「なに遊んでるんだよ。準備できたら買い物行くぞ」
「あ、そうか。カーテンとか買わないとね」
「それもそうだけど、他にも買いたいものあるから」
「そうなの? なあに?」
家具も家電も一通り揃っているし、他に大きな買い物はなかったはずだが。真帆は首を傾げて、ベーグルを頬張る。メープルの甘さとナッツの香ばしさが絶妙だ。
「結婚指輪」
「結婚、指輪」
しれっと答えた穂高の言葉を、真帆はオウムのように繰り返す。
「いらない?」
「あんまり考えたことなかった……」
「そうか。俺は欲しい」
穂高はきっぱりと言い切った。たしかに結婚指輪をつける夫婦の方が多数派なのだろうが、「結婚式はしなくてもいい」と言った彼が結婚指輪を欲しがるのは、なんだか意外な気がした。もしかすると、「指輪をつけていると、わざわざ既婚者であることを他人に説明せずに済む」といった、合理的な理由かもしれないが。
真帆は考えた。指輪が欲しいか欲しくないかと言われると、欲しいかもしれない。余裕がないのでそれほどたくさん持っているわけではないが、ジュエリーもアクセサリーも人並みに好きだ。
「うん。私も欲しいな」
「ならよかった。俺は詳しくないから、どういうのがいいか選んでくれ」
ベーグルを食べてミルクティーを飲み干すと、真帆は穂高に急かされつつ出掛ける準備をした。
思えば、休日に外出するのは久しぶりだ。仕事に着て行くにはややカジュアルなデニムシャツと、花柄のロングスカートを身につける。ロングヘアは頭の後ろでねじってひとつにまとめた。今日は走らされることはないと思うけれど、たくさん歩くかもしれないから、踵の低いローファーにしよう。
「ごめん、お待たせ」
「よし。じゃあ行くか」
部屋を出て鍵を閉める穂高を見ながら、なんだか変な感じだな、とむずむずした。真帆と穂高は同じ部屋の鍵を持っていて、同じ部屋から出発して、同じ部屋に帰るのだ。
地下鉄に乗ってやって来たのは、繁華街にあるハイブランドのジュエリーショップだった。普段の買い物では気後れして、気軽に入れないような店構えだ。先に言っておいてくれたなら、それなりに心づもりをしてきたのに。
真帆がたじろいでいるうちに、穂高はスタスタと店に入っていく。自動ドアが開いた途端、黒いスーツを着た女性スタッフがすかさず「いらっしゃいませ」と近寄ってくる。
「予約してた五十嵐です」
「はい、お待ちしておりました。こちらへどうぞ」
穂高が言うと、にこやかに奥のソファへと案内された。真帆はこっそり穂高に囁く。
「予約なんてしてたの?」
「ネットで調べたら、予約した方がいいって書いてあったから」
真帆は感心してしまった。やはり彼は段取りの鬼だ。
「さすが。五十嵐くん、慣れてるね」
「慣れててたまるか。俺、初婚だぞ」
女性スタッフは真帆と穂高の正面に座ると、美しく広角の上がったマネキンのような笑みを浮かべながら、うやうやしくお辞儀をする。
「本日はご来店ありがとうございます。マリッジリングをお求めとのことでしたね? 入籍のご予定は……?」
「あ、もう籍は入れてるんです」
「さようでございましたか。おめでとうございます」
ありがとうございます、と穂高と真帆は頭を下げた。結婚してから二週間で、いまだに結婚した自覚はほとんどないのに、「おめでとう」と言われることにはすっかり慣れてしまった。
「結婚式に使用されるご予定などはありますか」
「いえ、式はしません」
「かしこまりました。男性の方はデザインがほぼ同じですから、女性の方に選んでいただくのがよろしいかと。気になるものはございますか?」
そう言って、スタッフは箱に入ったサンプルを差し出してくれた。ずらりと並んだリングを見ていると、なんだかワクワクしてくる。と同時に、突然値段のことが気になってきた。
よく見ると、サンプルのリングに小さな値札がついている。ダイヤがたくさんついているものは、さすがになかなかのお値段だ。ゼロの数を数えて、軽く目眩がした。
「あの、五十嵐くん。この支払いって……」
「俺が払うよ」
穂高は言ったが、真帆は首を横に振った。
「二人のものだし、五十嵐くんのぶんは私が出すよ」
「いいのか?」
「私があげたものを五十嵐くんがつけてくれる方が、なんか嬉しい気がする」
真帆の言葉に、穂高はほんの僅かに頰を緩ませた。しかしそれは一瞬のことで、すぐにいつもの仏頂面に戻ってしまう。
「わかった。じゃあ頼む」
それからサンプルをあれこれ眺め、一粒ダイヤのついた、ほんのりとS字型にウェーブしたリングを選んだ。華美なものではないけれど、真帆はどちらかといえばシンプルなデザインが好きなのだ。
「無料でリングの裏側に刻印もできますよ」
「五十嵐くん、どうする?」
「大汐がいいならしてもらおう」
意外と乗り気な反応に、真帆は驚いた。真帆は嫌ではないけれど、穂高はこういったことに興味のないタイプかと思っていたのだ。もしかすると、結構ロマンチストなのだろうか。
とはいえフォーエバーラブとかアイラブユーとか入れるのはさすがに気恥ずかしく(そもそも、互いに愛を誓って結婚したわけじゃない)、二人のイニシャルのみを刻印してもらうことにした。
左手薬指のサイズを測ってもらい、それぞれクレジットカードで支払いを済ませた。予想外の出費ではあるけれど、来月にはボーナスも入るし、奮発して少し高価なアクセサリーを購入したと思えばいいのかもしれない。
「ありがとうございました! ご足労おかけしますが、二週間後にまた取りに来ていただけますでしょうか」
女性スタッフに見送られ、二人は店を後にした。思いのほか緊張していたらしく、真帆はほっと肩の力を抜く。穂高はちょっと残念そうな顔をしていた。
「なんだ、すぐに持って帰れるわけじゃないのか」
「意外と時間かかるんだね。でも、いいのが買えてよかった。五十嵐くん、ありがとう」
「いや、こちらこそ。婚約指輪も買ってないし、もっと高いやつでもよかったのに」
「ううん、充分だよ」
「じゃあ、昼はちょっと贅沢しよう。この近くに死ぬほど美味い天丼屋がある」
そこから五分ほど歩いて連れて行かれた「死ぬほど美味い天丼屋」は、本当に美味しかった。
揚げたてサクサクの天ぷらがこれでもかと乗せられており、なかなか下のごはんに辿り着けなかった。ちょっとした登山気分だ。豪華な具材をふんだんに使った天ぷらももちろんだが、特に上にかかっているタレが絶品で、これだけごはんにかけていくらでも食べられそうなぐらいだ。
「五十嵐くん、いつもこんなにいいもの食べてるの?」
温かいお茶を飲みながら、真帆は尋ねる。
ものすごく美味しいけれど、気軽にランチで来れるような価格帯ではない。どんぶり一杯とお味噌汁、お漬物だけで三千円もする。日頃のランチを手作り弁当で済ませている真帆にとっては、かなり贅沢だ。
「そんなわけないだろ。こんなとこ、普段めったに来ないぞ。でかい契約取れたときに、一回だけ課長に連れて来てもらったんだ。普段はカップラーメンとか食ってるよ」
どうやら彼は、真帆とそれほど金銭感覚がかけ離れているわけではないらしい。お坊ちゃん育ちだから、もしかしたらものすごくセレブな感覚の持ち主なのかもしれないと思っていたのだけれど、そうでもないようで安心した。結婚生活において、金銭感覚の違いは致命的な亀裂になり得るだろうから。
「美味しかった。ごちそうさま、おなかいっぱい」
結局、ランチの支払いは穂高がしてくれた。幸せそうにお腹をさする真帆を見て、穂高も満足げに頷く。
「そりゃよかった。じゃあカーテン買いに行くか。ついでに家電も見たい」
穂高はそう言うが早いが、さりげなく真帆の手を取った。あまりに自然に手を繋がれたので、どきりと心臓が跳ねる。
入籍したときも手を繋いで走ったから、初めてというわけじゃないけれど。あのときは必死だったから、ドキドキするどころじゃなかった。
(手を繋ぐぐらいで、何をいまさら。私、この人と結婚してるんだから)
真帆は自分にそう言い聞かせると、平静を装いながら、大きくてごつごつした左手をゆるく握り返す。隣を歩く横顔には少しの動揺も見えない。彼の歩調はいつもよりゆっくりで、真帆の歩幅に合わせてくれているのだと気付く。
中学時代の穂高はいつだって大股で早足で、真帆を気遣うこともなくさっさと先を歩いていた。もしかすると、穂高が今まで付き合っていた女性が、彼のことを変えたのかもしれない。
そんなことを考えると、胸になんともいえないモヤモヤが立ち込めてくるのを感じた。
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