07.結婚生活の始まり
真帆と穂高が入籍してから、およそ二週間が経った。
真帆は新居のフローリングの上にへたり込んで、ノロノロと荷解きをしていた。寝室に持ち込んだ真帆の荷物は、段ボールみっつぶん。それほど多くはないけれど、やっぱり面倒臭い。
(今日からここで、五十嵐くんと暮らすのか……)
入籍したときほどではないが、ここに至るまでの過程もかなりのスピード感だった。二人で不動産屋に行き、部屋を決め、契約をして、今住んでいるマンションを引き払い、業者の手配をして、ゴールデンウィークのあいだに引っ越しを完了させてしまった。
穂高の行動は少しの無駄もなくテキパキしていて、真帆はまたしても流されるままだった。それでも彼のおかげで、いい物件が借りられたと思う。
「大汐、まだ荷解き終わってないのか」
穂高がひょいと寝室に顔を出す。動きやすそうなパーカーとデニム姿の彼は、こんな格好でもまるで俳優のようなオーラがある。
(こんなかっこいい人と一緒に生活するなんて、なんだか信じられない)
あらためて惚れ惚れと見つめていると、穂高は「荷解き終わったら、メシ食いに行こう。近所に美味そうなラーメン屋があった」と言った。
真帆と穂高が新居として選んだのは、互いの勤務地からもほど近い2LDKのマンションだった。以前住んでいたマンションよりもずっと新しく綺麗で広く、家賃はほぼ倍になった。二人で相談した結果、寝室は別にした。
今まで使っていた家具は、使えるものは持ってきて、不要なものは処分した(家電に関しては、たいてい穂高が使っていたものの方が新型で性能が良かった)。イガラシ製の洗濯機を使っていた真帆に、穂高は「よりにもよって……」と渋い顔をしていた。結局洗濯機は穂高のものを使うことにして、真帆のものはリサイクル業者に引き取ってもらった。
新しいものはほぼ買わずに済みそうだが、リビングのカーテンだけは長さが合わなかった。仕方ないので、明日買いに行くことにした。五月の連休は、まだ二日残っている。
真帆はまず、「貴重品」と書かれた段ボールを開くと、写真立てを取り出した。生前の父と幼い真帆が二人で写っているものだ。ベッド脇にある棚の上に置いて、短く手を合わせる。穂高はその様子を、黙って眺めていた。
それから書籍の入った段ボールを開くと、中から出した本を棚に並べていく。ジャンルにこだわりはなく、古典文学もライトノベルも評論もエッセイも何でも読む。それほど読書家な方ではないけれど、父が死んでからとりとめなく活字を追うようになった。本に没頭していると、余計なことを考えずに済んで楽なのだ。
「あ、卒業アルバムがある」
本棚を眺めていた穂高が言った。そういえば中学と高校の卒業アルバムも、捨てずにここまで持ってきたのだった。穂高はやや懐かしそうに目を細めて、アルバムを手に取った。
「久しぶりに見た」
「五十嵐くん、卒アル捨てちゃったの」
「たぶん実家で埃かぶってるよ」
真帆のいる三年二組のページを開いた穂高は、まじまじと今の真帆と中学生の真帆を見比べた。中学時代の真帆は肩までの髪をふたつに結んで、ややぎこちない笑みを浮かべている。
「やっぱり大汐、あんまり変わってないな」
「それ、喜んでいいのか微妙だな」
「カフェで会ったときにも、ああ大汐だって、すぐわかった」
変わっていない、と言われるのは複雑だけれど、穂高が中学時代の自分を覚えていてくれたことは嬉しくて、ちょっとくすぐったかった。
しかし、あまりまじまじと中学時代の自分を見られるのは恥ずかしい。野暮ったいふたつ結びだし、眉毛とかもボサボサだし。
真帆は穂高の手からアルバムを取り上げると、「ところで」と話題を変える。
「五十嵐くんは荷解き終わったの」
「とっくに終わってるよ。リビングとキッチンもやっといた。後で確認して、使いにくそうだったら言ってくれ」
真帆の荷物もそれほど多くはなかったけれど、穂高の荷物はそれよりもうんと少なかった。衣類なども最低限のものしかない。自炊もほぼしていなかったらしく、調理器具の類もほとんどなかった。あまりものを持ちたくないタイプなのだと言う。
それから真帆は二十分ほどかけて、荷解きを完了させた。冬物の衣類はまだ段ボールに入っているけれど、寒くなるまで寝かしておけばいいだろう。
リビングに戻ると、穂高が早くもソファの上でくつろいでいた。穂高が持ち込んだ、二人掛けのソファだ。リビングの反対側に扉がもうひとつあり、その向こうが彼の寝室である。
「終わった?」
「終わったよ」
「よし、じゃあちょっといいか」
穂高はソファから起き上がると、フローリングの上に敷かれたラグの上に座り、居住まいを正した。真帆もつられるように、彼の前で正座をする。
「これから一緒に生活するにあたって、諸々のルールを決めておこう。できるだけ揉めたくないから」
「うん」
「まずは家計だ。いきなりで悪いが、毎月の収入額を教えてくれ」
隠す必要もないので、真帆は素直に答えた。都会で一人暮らしをするにはややカツカツだったが、一般事務職としてはそこそこ貰っている方だと思う。父の死亡保険金もまだ使い切らずに残っているので、それほど苦労はしていなかった。
「俺はこんな感じだ」
穂高はそう言って、給与明細と預金通帳を手渡してきた。開いてみると、想像していたよりも多い。マッチングアプリに記載されていた年収額は、どうやら嘘ではなかったようだ。
「五十嵐くん、結構貰ってるね」
「相場はわからないけど、たぶん夫婦二人で暮らしていくには不自由しないだろ。今後のことも考えて貯蓄はした方がいいだろうけど」
不自由しないどころか、家賃も光熱費も折半だと思えば、かなりの額を貯蓄に回せるだろう。結婚するとこういうメリットもあるのか、と真帆は感嘆した。
「俺も大汐も働いてるし、ある程度は互いが自由に使えるお金があってもいいと思う。共同の口座を作って、生活費はそこから落とすことにしないか。当然、俺が多めに入れる」
「わかった。ちゃんと家計簿つけるようにするね」
「家事は分担制にしよう。ざっくりやること決めとくか」
「料理は私がするよ。嫌いじゃないし、たぶん帰るのも私の方が早いと思うから」
「じゃあ、掃除は俺がやる。ただ寝室だけは、自分で掃除してくれ」
「洗濯は当番制にしようか。曜日で決めるとか……」
「あんまりガチガチにしすぎると、お互いの都合でできないときもあるだろうし、そのへんは柔軟にしよう」
「たしかに、そうだね。私もできるときにできることするよ」
「あと大汐の寝室には、勝手に入らないようにする。夫婦といえど、互いのプライバシーは大事だろ」
「うん。私も気をつけるね」
話し合いはスムーズに進んでいく。なんだか新婚生活というより、ルームシェアをするみたいだ。少し緊張していたけれど、それほど気負わなくてもいいのかもしれない。
「あと……結婚式はどうする?」
「へ」
突然話題が転換されて、真帆はぽかんと口を開いた。穂高はやや言いにくそうに、頰を掻いている。
「俺は、別にしなくてもいいと思ってる。金もかかるし、個人的にはあんまり必要性を感じないから。ただ、もし大汐がしたいなら……」
「……ううん。私も、しなくてもいいと思う」
穂高の言葉を遮るように、真帆は答えた。
そもそも結婚式をするなんてこと、考えもしていなかった。真帆には結婚式に呼ぶ家族はいないし、友人だってそんなに多くない。ウェディングドレスを着たい、といった願望もない。穂高がする必要がないと言うのなら、願ったり叶ったりだ。
「そうか、ならよかった」
穂高が安心したように頰を緩める。おそらく彼は、家族を――具体的には父親を――結婚式には呼びたくないのだろう。ふと気になって、尋ねてみた。
「……あの、五十嵐くん。私と結婚したこと、お父さんに話した?」
「伝えたよ。結婚相手が見つかったから、見合いの話はナシにしてくれって」
そういえばもともとそういう話だったっけ、と真帆は思い出す。大手家電量販店のお嬢さんが相手とのことだったけれど、反故にして本当に大丈夫だったのだろうか。彼は何も教えてくれないので、よくわからない。
「私、お父さんにきちんとご挨拶しないと……」
「いいよ、そんなの。俺が誰と結婚しようが、あいつには関係ないことだ」
穂高は表情を歪ませ、吐き捨てるように言った。やはり彼は、父親が絡むと途端に余裕がなくなる。
「あ、でも兄貴と義姉さんは大汐に会いたいって言ってた。そのうち会ってもらうことになるかも」
「それはもちろん。私で良ければ」
「まあ、それはいつでもいいよ。……あと、もうひとつ」
穂高はそこで言葉を切ると、じっと真剣な顔で真帆を見つめてきた。鋭い眼光に射抜かれて、ややたじろぐ。
「大汐、子どもは欲しいか」
返事ができなかった。
唖然と口を開いたままでいると、穂高は「大事なことだろ」と続ける。
たしかに、大事なことだ。真帆は彼とルームシェアをするのではなく、これから結婚生活を送っていくのである。
しかし、頭ではわかっているけれど、心の方はちっともついていかない。自分が彼の子どもを産んで育てるなんて、まだ想像もできないのだ。妻になる覚悟は決めたけれど、母親になる覚悟はまだできていない。
「……ごめん。い、今はまだ、考えられない。唐突すぎて」
正直に答えると、穂高は相変わらず真面目くさった顔で、真帆の目をまっすぐに見ている。
「わかった。じゃあ子どもについてはおいおい考えよう」
「うん……」
「メシ、食いにいくか」
そう言って、穂高は何食わぬ顔で立ち上がった。スタスタと玄関に歩いていく穂高を、真帆は慌てて追いかける。
そのあと真帆と穂高は二人でラーメンを食べて、部屋に戻ると順番にお風呂に入った。真帆はソファに座ってテレビを見るふりをしていたけれど、ちっとも頭の中に入ってこなかった。
(よく考えると、私たち結婚してるんだから、つまり、その、そういうことがあってもおかしくないんだよね……)
胸の前でクッションをぎゅっと抱きしめる。彼氏と別れておよそ一年。別れる前も、そういうことはほとんどしていなかったから、よく考えるとなかなかご無沙汰だ。
毛の処理とかちゃんとしたっけ、どんな下着つけてたかな、などと考えていると、座椅子に座っていた穂高が立ち上がった。真帆はびくっと肩を揺らす。
「じゃあ、俺もうそろそろ寝るから」
「えっ、あっ、はい」
「明日、買い物行くんだろ。午前中には出よう。じゃあおやすみ」
穂高はそう言って、スタスタと寝室へと消えて行った。なんだかホッとしたような気持ちで、真帆はクッションに顔を押しつける。
(もし私が、今すぐ子どもが欲しい、って言っていたら。私は彼と、今夜身体を重ねていたんだろうか)
もしそうだとしても、穂高にとってそれは子作りの手段でしかない。穂高が真帆と結婚したのは、父親への反抗のためだけなのだから。
ほんの一瞬よぎった、胸に冷たい風が吹き抜けるような感情に、真帆は気付かないふりをする。余計なことを考えるのはやめよう。なにせ、交際期間ゼロの結婚生活はまだ始まったばかりなのだ。
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