06.名前をおしえて

 守衛の好奇の視線を背中に感じながら、真帆と穂高はそそくさと逃げるようにその場を立ち去った。

 先ほどまで雨が降っていたのか地面が濡れていたけれど、今は雨の気配はなかった。折り畳み傘の出番はなさそうだ。木曜の夜ということもあり、駅へと向かう歩道橋ですれ違う会社員たちは、みんな一様に疲れた顔をしていた。


「もう、五十嵐くん。あんなところで待たれたら困るよ」


 真帆が言うと、穂高は不服そうに唇を尖らせる。


「仕方ないだろ、連絡先わからなかったんだから。大汐、アプリ消しただろ」

「あ」


 穂高に言われて、真帆はようやく思い当たる。

 そういえばゆうべは入籍することに一生懸命になりすぎて、連絡先の交換すらしなかった。例のアプリだけが、真帆と穂高を繋ぐ唯一の連絡手段だったのだ。


「ごめん。うっかりしてた」

「まあ、ちゃんと会えたからいいけど」

「……そういえば私、勤務先言ったっけ」


 昨日もんじゃ焼きを食べながら、仕事の話は多少した気がするが、会社名までは言った記憶がない。首を傾げていると、穂高は真帆の手首にあるスマートウォッチを指差した。


「スマートウォッチのメーカーで働いてるって言ってたから。身につけるのはたぶん自社製品だろ」

「……あの短い時間で私がつけてる時計のメーカーまで確認してたの? それにしても、確証もないのによく待てたね」


 本当にいるかどうかもわからないのに二時間も待つなんて、並の忍耐力ではできない。守衛にストーカー扱いされるのも無理はないだろう。つくづく、彼の行動力は半端ではない。


「昨日の待ち合わせ場所から考えても、たぶん近くで働いてるんだろうなと思ってたよ。もし会えなかったら、また別の手を考えるつもりだった」


 真帆は呆れて溜息をついたが、穂高は悪びれた様子もない。アプリを消した真帆にも非があるので、何も言えなかった。

 穂高は涼しい顔で「腹減ったな」と呟く。

 

「どっかで飯食わないか。これからの話もしたいし、いろいろ決めることもあるだろ」

「これからの話って? 何か決めることある?」

「……あのなあ。俺と結婚した自覚あるのか?」


 今度はこちらが呆れた目を向けられる番だった。真帆はむっと頰を膨らませる。

 結婚した自覚なら、ちゃんとある。もしなかったら、勤務先の前で待ち伏せしている男のことを「夫です」だなんて言って庇うはずがない。


「駅前でいいか。そんなに遅くならないうちに解散するから」


 穂高はそう言うと、さっさと足速に歩いていく。二日連続で外食になってしまった。どちらにせよ自炊をする気力はなかったから、ちょうどよかったかもしれない。




 入る店を精査する元気はなく、穂高と真帆はイタリアンのファミレスチェーンに入った。安さが取り柄でドリンクバーもあるファミレスには、学生時代によくお世話になった。

 案内されるがままに席に着いた二人は、とりあえず連絡先を伝え合うことにした。電話番号を交換するより先に結婚する男女なんて、現代社会においてなかなかいないだろう。

 それから、ぽつぽつと互いの近況について話し始めた。勤めている会社、住んでいる場所。本来ならば結婚前に把握しておくような、あれこれについて。

 穂高はとある大手電子部品メーカーで、法人向けのルート営業をしているのだという。彼の勤め先は、最初に穂高と待ち合わせをした駅のそばだ。


「五十嵐くんが営業やってるの、ちょっと意外だな」


 真帆はポツリと、素直な感想を呟いた。真帆の知る穂高はあまり人当たりの良いタイプではないし、口が上手い方でもないし、嘘がつけない男だ。もちろん中学時代の記憶だから、彼も成長しているのだろうけど。

 穂高は気を悪くした様子もなく、「俺もそう思う」と頷いた。


「本当は、技術系の職種に行かされると思ってたんだよ。大学も理系だったし。でも配属されたのは営業部だった」

「どうして?」

「わからん。顔かな」


 さらりと答えた穂高に、真帆は吹き出した。そういえばこの人は、昔から自分の容姿に自覚的で、かつまったく興味がないのだった。


「営業向いてないのかなとも思うけど、まあなんとかやってるよ。やりがいあるし、それなりに楽しいこともある」


 ごくごくとお冷やを飲んだ穂高を見て、成長したんだなあと真帆はぼんやり思う。かつての彼は、自分のやりたくないことは絶対やらない、頑なな男の子だった。


(やっぱり私、今の五十嵐くんのことほとんど知らないな)


 真帆は頬杖をついて、正面に座る男の顔をまじまじと見つめる。

 真帆が知っている五十嵐穂高という男は、中学時代のほんの一部分だけだ。他のクラスメイトの知らないところで、短い時間を共に過ごして、ほんの少しだけお互いに立ち入った話をした。ただそれだけの関係だ。

 あの頃の穂高はいつも眉間に皺を寄せて、他人を寄せつけない空気を纏っていた。そこにいない誰かに憎しみをぶつけるかのように、虚空を睨みつけていた。

 真帆は今でも、彼と初めて会話をしたときのことをよく覚えている。あれは中学三年生の四月、クラス替えをしてすぐのことだった。





「はい」


 身体をねじってこちらを振り向いた彼は、仏頂面のままプリントを突き出してきた。まるで怒っているかのような顔と声に、真帆はやや萎縮する。


「……ありがとう」


 彼は真帆の顔を一瞥もせず、すぐに正面を向いてしまった。なんて無愛想な男なんだ、と内心憤る。

 五十嵐穂高。顔立ちだけは抜群に整っていて、「うちの学校ではぶっちぎりかっこいいよねえ」と、前にハルカちゃんが話していた。成績優秀で運動神経抜群でクールで、アンドロイド、などと揶揄されているらしい。

 穂高とは、三年生になったときに初めてクラスが同じになった。父親が大手家電メーカー「イガラシ」の社長ということで注目を集めていたけれど、真帆は興味がなかった。廊下ですれ違う彼はいつも世界を呪うかのような怖い顔をしていて、正直あんまりお近づきになりたくないな、と思っていた。

 名簿順に座ると、「おおしお」真帆は「いがらし」穂高の後ろの席になった。友人たちからは羨ましがられたけれど、真帆はおっかない彼に怯えていた。ウエダさんとかエトウさんがいればよかったのに、とこっそり溜息をつく。

 真帆はプリントに目線を落とす。配られたのは、数学の小テストだ。勉強は嫌いではないけれど、どちらかといえば数学は苦手な方である。三年生になって授業についていけなくなることのないように、しっかり予習しておかないと。

 テスト終了の五分前にはすべて解き終えて、見直しまで終わらせた。前の席の穂高はとっくの昔に終わらせたらしく、早々に机に突っ伏している。


「はい、じゃあ今から回答配ります。前後の人と交換して、答え合わせをしてください」


 数学教師の言葉に、真帆はぎくりと身体を強張らせた。再び振り向いた穂高は、無言で真帆の机の上にテスト用紙を置く。真帆もプリントを渡すと、穂高はこちらを向いたまま、真帆の机で採点を始めた。間近で見ると、女の子みたいに睫毛が長い。

 距離の近さにどぎまぎしつつも、真帆は彼のテスト用紙に目をやって――ぎょっとする。


「五十嵐くん、字……」

「あ?」

「……なんでもない」


 字、下手だね。そんな台詞を飲み込んで、真帆はぶんぶんとかぶりを振る。しかし穂高は真帆の言わんとしていることに気付いたのか、ふてくされたように唇を尖らせる。


「わかってるよ。読めりゃいいだろ」

「うん。読めるよ、ギリギリ」

「ギリギリなのか……」


 ギリギリだ。なにせ乱雑なので、0なのか6なのか、2なのか3なのか判別しづらい。真帆はなんとか解読しつつ、解答にマルをつけていく。さすが、全問正解だ。点数欄に10と書き込んで、ついでにハナマルも書き足しておいた。

 穂高も採点を終えたらしく、真帆にテスト用紙を返してくれた。10点満点の9点。最後の問題だけ、バツがつけられていた。


「最後、引っ掛け問題だよ。問題文の数字に引っ張られてるけど、ここは関係ないから無視してもいい」

「あ、そっか……なるほど」


 真帆の方は、特に言うことがない。なにせ字は汚いけれど、回答は完璧なのだ。穂高は点数の横についたハナマルを見て、なんとも言えない微妙な表情を浮かべた。しまった、怒らせたかな。

 時間を持て余した二人のあいだに、しんと気まずい沈黙が落ちる。穂高はふいに、テスト用紙に書かれた真帆の名前を指差した。


「字、綺麗だな」

「そうかな? でも昔から、自分の名前は丁寧に書くようにしてる」

「へえ。なんで」

「お母さんがつけてくれた名前だから」


 真帆の母は、真帆が物心つく前に亡くなってしまった。母のことはまったく記憶にないし、思い出なんて何ひとつない。「真帆」という名前は、そんな母が唯一残してくれた大事な宝物なのだ。

 穂高はぱちぱちと瞬きをすると、乱雑に書かれた自分の名前を見て、「それもそうだな」とぽつり呟いた。


「……そういや名前、なんて読むの」


(クラス替えして二週間も経つのに、未だに後ろの席の女の名前を覚えてないんですねえ)


 心の中で悪態をついてみるけれど、当然口に出せるはずもない。真帆は素直に答えた。


「おおしお、だよ」

「下の名前」

「……まほ」


 穂高は確かめるように「大汐、真帆」と繰り返した。反射的に「はい」と返事をすると、トン、と解答用紙に書き込まれたハナマルを人差し指で叩く。ちょっとびっくりするくらい、きれいな手だった。


「名前、覚えとく。これ、ありがとう」


 そう言って、穂高はぷいと前を向いてしまった。

「これ」というのはハナマルのことだろうか。あんな仏頂面をしているくせに、もしかして嬉しかったんだろうか。彼の考えていることはよくわからない。

 真帆は頬杖をつくと、彼の後ろ姿をじっと見つめる。よく見ると、後頭部にぴょんと寝癖がついていた。顔が良すぎるから、全然気が付かなかった。


(なんだ、アンドロイドなんて言われてるけど、普通の男の子だ。字も下手だし)


 学ランの背中からは相変わらず不機嫌なオーラが漂っていたけれど、先程までの嫌な感じはしなかった。





「大汐。なにボーッとしてるんだ」

「え? あ、ああ」


 中学時代に思いを馳せていた真帆は、はっと現実に引き戻された。二十六歳の五十嵐穂高は、やや不機嫌そうにこちらを見ている。その表情は、あのときよりは多少柔らかくなっていた。


「で、どうする?」

「ごめん、全然聞いてなかったからもう一度お願い」

「住む場所だよ。俺の部屋ワンルームだし、一緒に暮らすのはキツいだろ」

「えっ」


 穂高の言葉に、真帆はぽかんと口を開けた。穂高はくるくるとパスタを巻きつけながら、小さく首を傾げる。


「もしかして別居希望か?」

「う、ううん。そういうわけじゃないけど……」


 それでも、彼と一緒に住むということを想定していなかった。しかし結婚しているのだし、お互いの勤務地も近いし、別居する理由は特にない。


「今週末、暇?」

「空いてるよ」


 予定を確認するまでもなく、即答した。真帆はアクティブな方ではないし、友達もそれほど多くないので、週末はいつも家事をしたりのんびり読書をしたりして過ごしている。


「じゃあ、部屋探しに行こう。見つかったら今住んでるとこ引き払うことになるけど、大丈夫だよな」

「うん、たぶん」

「よし」


 考えが追いつかないままに、どんどんと事が進められていく。思えば穂高と再会してから、真帆は流れに身を任せてばかりだ。それでも、少しも不安を感じないのはどうしてだろう。


「あとひとつ、確認したいんだが」

「なあに?」

「寝室は同じでいいのか」


 真顔でしれっと爆弾を投げた穂高に、真帆はかちんと固まってしまった。

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