05.突然ですが、昨日結婚しました。

 アラームが鳴って目が覚めたとき、ゆうべの出来事はもしかすると夢だったのでは、と真帆は思った。


 まずは目を覚まそうと、キッチンに立ってコップ一杯の水を飲む。ミネラルウォーターなんて気の利いたものはないから、ただの水道水だ。一口目は軽く口を濯いで吐き出し、二口目はごくりと飲み込む。少しカルキ臭のする冷たい水は、喉を通って腹の底へと落ちていく。

 真帆は順を追って、昨日の出来事を反芻してみた。

 まずマッチングアプリに登録して、そしたら男の人から連絡がきて、会ってみたらそれは中学時代の同級生だった。一緒にもんじゃ焼きを食べて、プロポーズをされて、そのまま区役所に走って婚姻届を提出した。

 改めて考えてみると、なかなかすごい。普通の人が半年ぐらいかけてこなす行程を、およそ一日で消化してしまった。昨日までは恋人すらいなかったのに、一夜にして人妻になってしまうなんて。

 そういえば、結婚相手が見つかったのだから、もうマッチングアプリは不要だ。真帆はアプリを立ち上げて退会手続きしたあと、スマホからアンインストールした。


 カーテンを開けると、昨日とはうってかわってどんよりとした曇り空だった。テレビの向こうのお天気キャスターが、「今日は念のため折り畳み傘が必要」と言っている。

 もっしゃもっしゃと惰性でシリアルを口に運びながら、そういえば今日から苗字が変わったんだな、と思い至った。大汐真帆改め、五十嵐真帆。なかなかかっこいい名前だな、と自画自賛する。

 よく考えると、ガス代や電気代の請求も、銀行口座も、クレジットカードの名義も、携帯電話の契約も、旧姓のままだ。全部改姓の手続をしなければならないのかと思うと、かなりげんなりした。

 そもそも、まずは結婚の報告を会社にするべきだ。とりあえず直属の上司に知らせておけばいいだろう。庶務の中川なかがわさんに、どういう手続が必要か確認しなければ。風花にはランチの時間に話すことにしよう。

 真帆は呑気にそんなことを考えながら、身支度を整えるべく洗面台へと向かった。




 自宅マンションから、地下鉄を乗り継いでおよそ四十分。吐き出されるようにして満員電車から降りたあと、真帆は人波に流されながら駅の改札を抜けた。エスカレーターに乗って地上に出ると、湿った空気が肌にまとわりつく。雨が降る前の、埃っぽい匂いがする。

 駅前には居酒屋などの飲食店がひしめきあっているが、駅から続く歩道橋を歩いていけば、巨大なビルが建ち並ぶビジネス街だ。

 真帆が勤務しているのは、主にスマートウォッチを製作・販売している、大手電機メーカーの子会社である。親会社であるメーカーの本社ビルの影に隠れるかのように、ひっそりと佇む十階建のビルこそが、真帆の勤務先だ。


「おはようございます」


 社屋の入り口には、真帆と同世代ぐらいの若い守衛が立っている。ぺこりと頭を下げて社員証を見せると、笑顔で「おはようございます!」と通してくれた。

 真帆の部署は四階だ。タイミングよくエレベーターが到着したので、小走りで駆け込んだ。いつもは健康のために階段を使用するのだが、昨日の全力疾走のせいで足が痛い。パンプスで出勤する気にもなれず、スニーカーを履いてきたぐらいだ。

 エレベーターを降りればワンフロアすべてが真帆の所属――お客様サービス部お客様対応課だ。

 回りくどい名前を冠しているが、わかりやすく言えば顧客向けのサポートデスクである。商品であるスマートウォッチやそれと連動するアプリ操作の問い合わせに対し、電話やメール、チャットで対応する。

 社員は真帆を含めた七人、残りはすべて委託会社のオペレーターである。問い合わせの一次対応はほぼ、オペレーターがこなすことになる。女性の一般職員は真帆ともう一人、五年上の先輩がいるのだが、育休中のため現在は実質真帆だけだ。

 始業時間は八時五十分だが、真帆はいつも八時過ぎには出社することにしている。自席に鞄を置いて、スニーカーから社内履きであるナースサンダルに履き替えた。

 直属の上司である會澤あいざわ課長は、自席でコーヒーを飲んでいる。チャンスだと思った真帆は、声をかけた。


「おはようございます」

「ああ、おはよう」

「ご報告があるのですが、今少しお時間よろしいでしょうか」

「なんだなんだ、かしこまって」


 課長は顔を上げると、シルバーフレームの眼鏡の縁をくいっと持ち上げた。

 會澤課長は去年の四月に、真帆の部署に異動してきた。年齢はおそらく四十代半ば。中肉中背で眼鏡をかけており、平凡な顔立ちをしている。おそらく似たような背格好のサラリーマンが、全国にごまんといるだろう。いつも穏やかで声を荒げることはほとんどない。悪人ではないのだが、のらりくらりと仕事から逃れるのがうまく、面倒ごとを押しつけられることもしばしばだ。

 真帆は、どこか本心が見えない會澤のことが苦手だった。顔面に貼りついたような愛想笑いは、穂高よりもよほどアンドロイド然としていると思う。


「あの、実は結婚をしまして」

「へ?」


 真帆の報告に、會澤は眼鏡の向こうの目を見開いた。意味が通じなかったのか、しきりに首を捻っている。真帆はもう一度、「結婚しました」と繰り返した。


「け、結婚? あ、これからする予定?」

「いえ、もう入籍しました。昨日……」

「ええっ! そんな、事後報告は困るよ。そういうことは早めに言ってくれないと」

「申し訳ありません。急なことだったので……」


 真帆は深々と頭を下げた。會澤は戸惑いを隠しきれない様子で、眼鏡の縁を弄っている。


「四月に面談したとき、身上面は変わりないって言ってたじゃない。結婚の予定もないって」

「そのときは本当になかったんです」

「うーん、困るなあ」


 課長の戸惑いももっともだ。もし結婚の予定があるならば、なるべく早めに職場に伝えるのが、社会人としてのマナーなのかもしれない。とはいえ真帆の場合、昨日突然決まったことなので仕方がない。


「すみません……」


 真帆がぺこぺこと頭を下げていると、會澤はうーんと難しい顔で腕組みをした。


「今後、仕事はどうするの? 続けるの?」

「えっ。あ、はい。続けます」


 會澤の問いに、真帆は驚きつつも頷いた。

 結婚して仕事を辞めることなんて、考えてもいなかった。たしかに結婚相手によっては、そういう選択をしなければならない場合もあるだろう。穂高ときちんと話し合ったわけではないけれど、「辞めろ」とは言われないと思う。おそらく。

 真帆の返事に、會澤はあからさまにほっとしたように頰を緩める。

 

「ああ、それならよかった。正木まさきさんに続いて大汐さんにまで抜けられると、やっぱりね」


 正木というのは、育休中の真帆の先輩である。先月出産したばかりなので、まだしばらくは復帰できないだろう。かなり仕事のできる人だったので、彼女の穴を埋めるのに真帆は未だに苦心している。


「ああ、もう大汐さんじゃないのか。新姓は?」

「五十嵐です」


 当然のように女性が姓を変えるものだと思われているのだな、と複雑な気持ちになりつつも、真帆は答えた。


「はいはい、五十嵐さんね。しばらく慣れなさそうだなあ。まあ、今後は早めに報告するように。こちらもいろいろ対応することがあるから。妊娠したとか、そういうこともね」

「はい……承知しました」


 妊娠、という言葉に、真帆は内心どきりとした。昨夜ようやく手を握ったばかりだというのに、ずいぶんとハードルの高いことを言う。しかし穂高と結婚するというのはつまり、そういうことなのだ。

 會澤の興味は真帆の結婚相手に移ったのか、やや前のめりで質問を投げかけてくる。


「相手は? どんな人なの? 仕事は?」

「ええと、中学の同級生で……会社員、です」

「そうなんだ。全然そんな素振り見せなかったのに、秘密主義だねえ」


 別に、隠していたわけではないのだけれど。とはいえ事情を説明するのも面倒で、真帆は曖昧に首を傾げて誤魔化す。


「諸々の手続については、庶務の中川さんに確認しておいて。たぶん、会社からお祝い金も出ると思うよ」

「ありがとうございます。あと、来週どこかで有休をいただきたいのですが」

「月曜日以外ならいいよ」


 あっさり承諾されたので、ほっとした。最後にもう一度ぺこりと頭を下げて、真帆はそそくさと自席へと向かう。端末のスイッチを入れると、ふうと息をついた。


(やっぱり結婚するって、大変なことだ。当然だけれど、私一人の問題じゃないんだな)


 なんだか朝から、どっと疲れてしまった。来たばかりなのにもう帰りたい。いや、会社にいて帰りたくない瞬間なんてないのだけれど。

 手続がいろいろと大変そうだな、とは思ったけれど、不思議と「結婚するんじゃなかった」とは思わなかった。昨日の夜、とっくに覚悟は決めたのだ。

 真帆は両頬を叩いて気合いを入れると、端末にログインして黙々と仕事を始めた。




「お先に失礼します」


 業務を終えて真帆がフロアを出たのは、十九時すぎだった。もう定時を一時間以上回っている。

 普段はそれほど残業が多い部署ではないけれど、今日はタイミング悪く長時間の問い合わせに捕まってしまった。昼休みも返上で結婚に伴う事務手続きをしていたので、いつも以上にぐったりしている。

 これでは夕食を作る気力もない。冷凍庫に先週作ったカレーが入っているから、今夜はそれを食べることにしよう。

 エレベーターに乗ると一階まで降りて、エントランスを抜け、出入り口に向かう。途中、女性社員二人組とすれ違った。何やらはしゃいだ様子で、きゃあきゃあと甲高い声をあげている。


「さっきの人、めっちゃかっこよくなかった?」

「見た見た! はー、目の保養」

「勇気出して声かけちゃえばよかったー!」


 ドラマの撮影でもしてるのかな、などと思いながら外に出る。と、なにやら守衛が誰かと揉めている様子が目に入った。


「あの、ここにいられると困るんですよ……誰かのストーカーじゃないかって連絡が入ってて」

「すみません、妻を待ってるんです」

「もう二時間もいらっしゃいますよね? 奥さんには連絡してもらって、別の場所で待っていただけませんか?」

「妻の連絡先、知りません」

「結婚してるのに!? 喧嘩でもしたんですか!?」

「ここで働いてるってことしかわからないんですよ。申し訳ないんですが、待たせてください」

「そんなことってあります!? その妻って、あなたの妄想が作り上げた存在じゃないですよね!?」


 男の顔を見て、真帆はあっと声をあげた。すらりと背の高い、スーツ姿のイケメン――そこにいるのはまさしく、五十嵐穂高だった。


「五十嵐くん!」


 真帆が声をあげると、穂高はこちらを向いて、表情筋を少しも動かさないままに片手をあげた。


「あ、大汐。よかった、やっと会えた」


 真帆は慌てて、守衛と穂高のあいだに割って入る。守衛は真帆の顔に覚えがあったらしく、「あ、お疲れ様です」と頭を下げてくれた。


「ご迷惑かけてすみません。この人……私の夫です」


 真帆の言葉に、守衛は「ほんとに?」と目を丸くする。瞳に好奇心を滲ませながら、興味深そうに真帆と穂高の顔を見比べていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る