04.入籍RTA(リアルタイムアタック)
真帆が頷いたのを確認するやいなや、穂高はスマホを取り出した。何やら文字を打ち込んだあと、画面を見つめながらうーんと唸る。
「大汐、本籍地はどこだ?」
問われるがまま、真帆は答えた。穂高はぱっと表情を輝かせる。
「よかった、俺と同じだ。本籍のある役所で婚姻届を出す場合は、戸籍を取り寄せる必要がないらしい。時間外でも、届出は受け付けてくれるみたいだ」
「ちょ、ちょっと待って……五十嵐くん」
「なんだ?」
「結婚するって、まさか今日?」
「今日しかない」
きっぱりと答えた穂高に、真帆は軽い眩暈を感じた。「今すぐに」と言われて思わず頷いてしまったけれど、まさかこんな展開になるとは……。
その場でふらりとよろめいた真帆の両肩を支えて、穂高はまくしたてる。
「今日は一粒万倍日といって、何か新しいことを始めるのに非常に縁起の良い日なんだ。しかも大安、天赦日とも重なっている。こんなことは滅多にない。入籍するなら今日がいい」
「ええ……そうなの?」
「俺、こういう縁起を担ぎたいタイプなんだ。もし何かあったときに〝あのとき入籍しておけば〟って後悔するのは嫌だろ」
「それは、そうかもしれないけど」
(それにしたって、あまりにも性急すぎる)
戸惑う真帆の腕を引いて、穂高は「まずは婚姻届だ」と歩き出す。引きずられるかのように、真帆も後についていった。
「婚姻届、コンビニのネットプリントで出力できるらしい。便利な時代だな」
「うん、そうだね……」
「今から婚姻届書いて電車で区役所まで行ったら、日付が変わるまでには着くはずだ。大汐、本人確認書類持ってるか?」
「運転免許証なら」
大学時代に取得して以来、一度も路上を走ったことはない、完全なるペーパードライバーだが。穂高は満足げに頷くと、駅構内にあるコンビニへとズカズカ踏み込んでいく。
コピー機の前で立ち止まり、スマホを見ながら手早く操作していく。ほどなくして、ガーッという音とともに、婚姻届が吐き出されてきた。文明の利器ってすごい。でも、あまりにも事務的。
「苗字はどうする。俺は改姓しても構わないが」
「……ううん、私が改姓するよ」
「ほんとにいいのか?」
穂高の問いに、真帆は頷く。突然苗字を変えたところで、反対する家族は真帆にはいない。それに、五十嵐家の御曹司の苗字を変えさせる勇気は、真帆にはなかった。
「ちょうどいい。あそこで書くか」
穂高はレジでコーヒーを購入したあと、店内にあるイートインスペースに座った。背広のポケットから高価そうなボールペンを取り出して、ゆっくりと婚姻届に署名をする。
五十嵐穂高、と枠いっぱいに書かれた字を見て、真帆は思わず吹き出した。むっと不機嫌そうに唇を尖らせた穂高は、「何が面白いんだよ」と言う。
「ごめん……五十嵐くんの字、相変わらずだなあと思って」
穂高は中学の頃から、あまり字が上手くなかった。ぐしゃぐしゃとミミズの這ったような彼の文字を初めて見た真帆は、「完全無欠のアンドロイドにも欠点があるんだ」と思ったものだ。
「……こういう公的文書では、自署を求められるのが厄介だよな。できる限り全部パソコンで済ませたいのに……」
「大丈夫、ギリギリ読めるよ」
「やっぱり、ギリギリなのか……」
「上手じゃないけど、丁寧に書こうとしてるのはわかる」
「ならいいか」
深い溜息をついた穂高は、汚い字で「夫となる人」の項目を埋めていく。新しい本籍地は、相談の末、穂高の現住所を記入した。
(結婚って大変だ。二人で決めなきゃいけないことが、たくさんある)
一通り書き終わると、穂高は真帆に向かってボールペンと婚姻届を差し出した。
「はい」
受け取った真帆は、「妻となる人」の欄に、「大汐真帆」と署名する。隣に押印欄があったので、手を止めた。
「私、今日は印鑑持ってないよ」
「今は押さなくても大丈夫らしい」
「そうなんだ、押印レスの時代だね」
住所、本籍。父母の氏名、という項目があったので、ずいぶんと久しぶりに父と母の名前を書いた。死亡していても記入の必要があるらしい。穂高の方も、母の欄がきちんと埋められている。
さらさらと書き進めていくうちに、真帆はひとつ大きな問題に気がついた。穂高の肩を叩いて、該当の項目を指差す。
「ねえ五十嵐くん。この〝証人欄〟って、どうするつもりなの」
「あっ」
真帆の指摘に、穂高はチッと舌打ちをした。どうやら完全に頭から抜け落ちていたらしい。婚姻届には、証人として成人二名の署名が必要だ。こればかりは、今この場でどうすることもできない。
「私は家族いないけど、もし五十嵐くんのご家族とかに頼むなら、やっぱり日を改めた方が……」
「いや、大丈夫だ。当てならある」
穂高は真帆を制すると、誰かに電話をかけ始めた。スマホの向こうから「はい」という低い声が漏れ聞こえてくると、やけに気安い口調で話し出す。
「……あ、兄貴? 俺だけど。……うん、まあまあ元気でやってるよ。でさ、頼みがあって……俺今から入籍するんだけど、兄貴と義姉さん、証人になってくれない?」
電話の向こうから、「いきなり何言ってるんだ」「相手は」という慌てた声が聞こえてきたけれど、穂高はそれを面倒そうにあしらう。
「ああ、もう、それは後から説明する。時間がないんだ。とりあえず、今から行くから」
穂高はそう言って電話を切ると、記入済の婚姻届を掴む。きょとんとしている真帆に向かって、「悪い、ちょっと待っててくれ」と言った。
「この近くに、俺の兄夫婦が住んでる。ひとっ走り署名だけもらってくるから」
「私、ついていかなくていいの? ご挨拶した方が……」
「いや、今日はいい。時間がないから。うちの義姉さん、話が長いんだ」
穂高は飲みかけのコーヒーを真帆の前に置くと、「絶対逃げるなよ」と念を押してから走り出す。真帆は「いってらっしゃい」と、おとなしくその背中を見送った。
そういえば穂高には、三歳上の兄がいると聞いたことがある。当時はあまり親しくはないと言っていたが、今のやりとりを聞く限りでは、それほど悪い関係ではなさそうだった。
(私、五十嵐くんのご家族に、きちんと挨拶しなくてもいいのかな。もしかすると、ものすごく非常識なことしようとしてるんじゃ……)
取り残されて一人になった途端に、彼の勢いに流されていた頭が冷えていく。冷静に考えると、もしかしなくても非常識だ。本当にこのまま、彼と結婚してもいいのだろうか。
そのとき真帆の頭に浮かんだのは、中学生の穂高の姿だった。制服姿で、今よりもうんと幼い、ひねくれた子どもの顔で言っていた。
――俺がもし結婚したら、親父みたいにはならない。その人のこと、一生大事にしてやるのに。
たかだか、中学時代の短い時間を共に過ごしただけの関係だ。真帆が知っている穂高は、彼のほんの一部分でしかないのかもしれない。それでも何故だか、彼と家族になるのはとっても素敵なことなんじゃないかな、と思えた。
真帆は覚悟を決めた。穂高が置いていったコーヒーを、ぐいと勢いよく飲み干す。こうなったら、乗りかかった船だ。彼の父親への反抗に、どこまででも付き合ってやろうじゃないか。
三十分ほど待ったところで、息を切らした穂高が戻ってきた。先ほどと変わらず座っている真帆を見て、ほっとしたような表情を浮かべる。いつのまにか、婚姻届はA4サイズの茶封筒に入っていた。どこかで調達してきたのだろうか。
「悪い、待たせた」
「ううん。大丈夫」
「急ぐぞ。五分後に出る電車に乗らないと、役所に着くまでに日付が変わる」
穂高の言葉に、真帆は腕に巻かれたスマートウォッチに視線を落とす。時刻は二十三時五分。真帆の本籍がある区役所までは、電車を乗り継いで三十分はゆうにかかる。
「……わかった。行こう、五十嵐くん」
真帆は力強く頷くと、意を決して立ち上がった。彼から婚姻届を受け取って、しっかりと胸に抱える。そのまま二人は、駅のホームへと向かって全速力で駆け出した。
日付が変わるまでに婚姻届を提出するというミッションをなんとかやり遂げた真帆は、ぐったりと疲弊しながら区役所を出た。
どうやら靴擦れをしてしまったらしく、踵がひりひりと痛い。今朝は綺麗にまとまっていたはずの髪も、きっとボサボサになっている。
婚姻届の受理そのものは、拍子抜けするほどあっさりしていた。不備がなければ、今日――日付が変わったから、もう昨日か――が入籍日になるらしい。本気を出せば一時間半で入籍できるんだなと、真帆は妙な感慨を抱く。
「大汐、遅くまで悪かった。家まで送っていく」
「ううん。タクシー拾って帰るから大丈夫」
自宅マンションまで帰る電車はもうない。タクシー代を出すと言われたが、出してもらう理由がない、と真帆はそれを固辞した。
「五十嵐くんはどうするの?」
「俺は歩いて帰る。たぶん二時間ぐらいで帰れると思う」
「元気だね……」
真帆はもう歩くのすら辛いというのに、この体力の差はなんなんだ。もしかしてマリッジハイというやつなんだろうか、と元気な彼の横顔を盗み見る。
区役所に面した大通りで、穂高がタクシーを捕まえてくれた。後部座席に乗り込むと、運転手に行き先を告げる。窓を開けて、穂高に「おつかれさま」と挨拶をした。
「大汐」
「なあに?」
穂高はこちらに向かって、すっと右手を差し出してきた。ごつごつと骨張った、大きな手だ。
「これからよろしく」
(そうか。私、この人と夫婦になったんだ)
「……こちらこそ、よろしくお願いします」
真帆は窓から手を伸ばして、彼の手をしっかりと握りしめる。触れ合った彼の手は、驚くほど熱を持っていた。こんなに熱の通ったひとなのに、どうしてアンドロイドなんて呼ばれていたんだろう。
手を離すと、タクシーがゆっくりと発進する。スーツ姿の彼はじっと立ちすくんだまま、真帆のことを見送っていた。次の交差点で左折してしまうまで、彼の姿はバックミラーに映っていた。
流れていく夜の街の景色を眺めながら、真帆はこれから始まる生活のことをぼんやり考える。不思議なことに、不安よりもワクワクと心ときめく気持ちの方が、うんと大きかった。
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