1話 私の存在価値


(ああ、またお母様が怒っていらっしゃるわ…)


 目の前で眉を吊り上げ、何かを甲高い音で発しているらしい母親を見て北白河 桜きたしらかわ さくらは頭を下げて部屋を退出した。

 何を言っているのかは、桜には分からなかった。

 陽の傾きから察するに、夕餉の支度をしろ、ということなのだろうと思う。

 桜は北白河家の使用人達に混ざって、夕餉の支度に取り掛かる。

 使用人達が少し困ったように眉を下げて、同じく黙々と作業を開始する。

 黙々、なのかどうかは、本当のところは桜には分からなかった。

 静かに夕餉の支度をしているのかもしれないし、本当は楽しくお喋りに興じながら作っているのかもしれない。

 桜には、それを知る術はない。



 桜は、耳が聴こえなかった。



 川のせせらぎや小鳥のさえずり、家族の優しい声を聴いて育った桜の聴力は、もうほとんど聴こえなくなっていた。

 たまに断片的に声なのか音なのか分からないものが聴こえることはあるけれど、それが意味をなすことはなかった。


(こうしてお母様やお父様、弥生やよいにご飯を作れることが、今の私にとってはとても幸福なこと。呪いを受けてしまった私にできることは、もうこれくらいしかないのだから…)


 桜は感情を押し殺し、野菜を洗い始める。

 泣きつかれてしまった桜の心は、もう涙を流すことすら忘れてしまっていた。




 和と洋が入り乱れ始めたこの倭国日本わこくにほんでは、古来よりあやかしに苦しめられてきた。

 もちろん全てのあやかしが悪さをするというわけではないが、膨大な力を持ってしまったあやかしが人里に降り、街を脅かす事態が度々起きていた。

 そのあやかしを退治し、国や人々の安寧と秩序を守るのが、『陰陽師おんみょうじ』と呼ばれる、特殊な力を持つ人々であった。


 陰陽師とは、大きく二つに分けられる。


 ひとつは、あやかしを退治することに特化した力を持つ陰陽師。

 ひとつは、星見や夢見で未来を見ることのできる先読みに特化した陰陽師。


 北白河家は、前者である、あやかし退治に特化した陰陽師の家系である。


 北白河家の主である桜の父、北白河 道元どうげんは、その中でも数少ない強力な祓いの術を持つ陰陽師であった。

 幾度となく、都に災害をもたらすあやかし共を葬ってきた。

 その信用は街の人々だけではなく、国からも頼りにされ、ついぞや国お抱えの陰陽師となったのであった。


 そんな有名な陰陽師の家庭で生まれ育った桜と、その桜の双子の妹である弥生。

 当然二人は将来陰陽師になるべく、幼少の頃からそのすべが叩き込まれていた。


 とりわけ桜には、陰陽師の才能があった。

 あやかしの気配に聡く、感も鋭い。

 他の陰陽師の家系の同い年の子供に比べても、その力は群を抜いて秀でていた。

 道元の祓いの仕事に付き添った際、妹の弥生に襲いかかろうとしたあやかしを見事懲らしめてみせたことから、道元はそれまで以上に力を入れて桜に陰陽師の術を叩き込んだ。


 意識を指先と祓いの札へと集中し、祝詞のりとを唱える。

 言葉に強い力を乗せ、邪鬼を滅する。


 桜がいれば、北白河家は更に栄えると、道元は高らかに笑った。


 毎日血の滲むような修行の日々。

 幼い桜と弥生にとっては大変な毎日であったが、その姉妹の努力を陰で支えたのが、母、北白河 文江ふみえであった。

 文江は二人をとにかく可愛がり、献身的に道元を支えた。

 朝昼晩、休むことなく家族を支え、母として妻としての役割をきっちりとこなしていた。


 修行漬けの日々ではあったが、桜はそんな日々が嫌いではなかった。

 父には力を認められ、妹と切磋琢磨し、家に帰れば優しい母と使用人達が温かく迎えてくれる。自分が必要とされ、期待されていることが、心地よくもあった。


 そんな充実した日々が、これからもずっと続くと信じていた。

 あの日がやって来るまでは。






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2024年12月22日 07:00

音のない世界に生きる私が、あやかしの妻になりました 四条 葵 @aoi-shijou0505

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