境界線の向こう側

篝みづほ

境界線の向こう側



夜明け前の暗いリビングで、俺は冷めかけたコーヒーをすすりながら、スマホの画面をぼんやりと眺めていた。光る盾を手に微笑む男――大学時代の友人、久保の投稿だ。


「文学賞を受賞しました。長い道のりでしたが、ようやくここまで来られました。」


長い道のりか。久保にとってはそうだったんだろう。俺にとっては、短く、呆気ない終わりだったけどな。


俺もあの頃、作家を目指していた。深夜のファミレスで、手にしたノートにアイディアを殴り書きしながら、仲間と未来を語り合った。あれから20年。いま俺が殴り書きしているのは、クレーム対応の報告書だ。


「作家、か……」


自嘲混じりに呟いてみたものの、胸の奥がちくりと痛む。


夢なんて、大人になれば大抵は諦めるものだ。現実の方がずっと重たい。俺もその一人だった。出版社からの採用通知を待つ日々は、すぐに不採用通知を積み上げる日々に変わった。


それでもあの頃の俺はまだ若くて、情熱だけは持ち続けていた。けれど、結婚して、娘が生まれて、現実に飲み込まれるのに時間はかからなかった。営業職の仕事は退屈じゃないけど、俺の中で燻っているものを埋めることはなかった。


カレンダーを見れば、今日は月曜日だ。営業会議がある。そろそろ動かなければ。立ち上がると、冷たくなったコーヒーを飲み干して、薄暗いキッチンを抜けた。


シャワー室の鏡に映った自分を見るたびに、俺は目をそらしたくなる。40代半ば、うっすら混じった白髪、年相応の疲れた目元。気づかないふりをしているけど、鏡の向こうの俺が、「このままでいいのか?」と問いかけてくる気がしてならない。


でも、答えるのが怖い。


「いいんだよ。普通に生きてるだけで十分だ。」


そう言い聞かせながら、シャワーの湯を頭から浴びた。


着替えを済ませてリビングに戻ると、娘の美優が昨晩書いていた絵日記が目に留まった。「明日も楽しかったことを書くね」と丸文字で書かれている。それを見た俺は思わず苦笑する。


俺は楽しかったことを、いつから忘れてしまったんだろう。


鞄を肩にかけ、玄関のドアを開ける。外はまだ薄暗く、冷たい風が頬をかすめた。その一瞬、俺の心の奥底で何かが揺れた気がした。





会社のビルに着く頃には、周囲はすっかり朝の喧騒に包まれていた。駅から続く人の流れに紛れてオフィスのエレベーターに乗り込み、手早くネクタイを締め直す。


「おはようございます。」


受付で軽く頭を下げ、足早に自分の席へ向かう。デスクの上には昨日片付けきれなかった書類の山。名刺の束が乱雑に置かれているのを見て、思わずため息が漏れる。


「川原さーん、昨日の報告書、部長に回しました?」


後輩の三浦が隣の席から顔を覗かせた。若手らしい覇気のある声と姿勢が、やけに眩しい。


「ああ、出しといたよ。」


そう答えながら、まだ出していないことに気づく。机の上を探りながら、「あとで出します」と言い直した。


「了解です。川原さん、最近ちょっと疲れてないっすか?」


三浦の言葉に、俺は曖昧に笑うしかなかった。


会議室では、定例の営業会議が始まっていた。次々と飛び交う売上報告と進捗状況。上司の山本が声を張り上げ、「もっと攻めの営業を!」と訴えているが、俺の意識は別のところにあった。


久保の盾がちらつく。あいつは今ごろどんな話をしてるんだろう?文学賞の授賞式に行って、きっと記者から質問を受けて、それに堂々と答えているんだろう。


「川原、お前の案件はどうなってる?」


突然声をかけられ、思わず肩をすくめた。山本の鋭い視線がこちらに向いている。


「あ、はい。順調です。」


中身のない言葉を返しながら、次に何か聞かれたらどうしようと冷や汗が流れる。山本は俺に目を留めたまましばらく黙っていたが、やがて他の社員に話を振った。


昼休みになり、俺はカフェへ向かった。いつもの角の席に座り、注文したコーヒーを待ちながらスマホを取り出す。


「文学賞」なんて検索してみたものの、出てくるのはどれも遠い世界の話ばかりだ。受賞者たちのインタビュー記事を読んでは、ますます自分との差を感じるだけだった。


ふと目に飛び込んできた広告に、俺は思わず目を止めた。


「アイディアを入力するだけで、あなたも小説家になれる!」


そんな馬鹿な、と鼻で笑いながらも、リンクをクリックしていた。画面に表示されたのは、最新型AIライティングツール「ミューズ」の紹介ページだった。


「あなたの物語を形にするパートナー――ミューズ」


その下に並ぶ「無料トライアルはこちら」のボタンを、俺はしばらく見つめていた。


「……試してみるだけならタダだよな。」


自分に言い訳をしながら、ボタンをタップした。


仕事を終えて帰宅し、家族が寝静まったリビング。スーツを脱ぎ捨て、コーヒーを片手にパソコンの前に座る。


「ミューズ、か……。」


画面にはシンプルな入力フォームが映っている。説明書きを読みながら、学生時代に書きかけた冒険もののアイディアを入力してみた。


「幼い頃に別れた兄弟が再会し、共に異世界を旅する冒険物語……。」


「生成開始」


画面に表示された進捗バーを見つめながら、胸が高鳴るのを感じる。


数分後、生成された文章が画面に現れた瞬間、俺は目を見開いた。


「すごい……まるで俺が本当に書いたみたいだ……。」


その夜、俺は久しぶりにワクワクした気持ちで夜更かしをした。







「最近、パパずっとパソコンばっかり見てるね。」


夕食の最中、美優がぽつりとそう言った。俺は箸を止めたが、顔を上げることはしなかった。


「パパ、お仕事頑張ってるのよね?」


真奈美がフォローするように笑いながら言ったが、その視線はどこか探るようだった。


「……まあな。」


短く答えて、箸を置く。頭の中には次に書くべきプロットがぐるぐると渦巻いていた。


「このシーン、もう少しキャラクターに葛藤を持たせた方がいいよな……」そんなことを考えていると、美優が小さく「ふーん」と呟いたのが聞こえた。




その夜、真奈美が静かに声をかけてきた。


「最近、ちょっと変じゃない?」


ソファに座ってスマホを見ていた俺は、顔を上げる。彼女はいつも通りの柔らかい表情だったが、その目には微かな不安が滲んでいた。


「何が?」


「なんだか、家族のことちゃんと見てない気がして。」


「見てるよ。でも、今はちょっと大事な時なんだ。」


自分でも冷たく聞こえる返事をしているのがわかる。それでも、俺には他にどう言えばいいのかわからなかった。


真奈美は眉を寄せて俺を見つめたが、結局それ以上は何も言わずに寝室へ戻っていった。


締切が近づくにつれて、俺は会社でも創作のことで頭がいっぱいになっていた。デスクに広げた資料を眺めているフリをしながら、脳内ではキャラクター同士の対話を何度も練り直す。


「ここであの主人公が意外な行動を取れば、もっと盛り上がるんじゃないか……」


そんな調子だから、後輩の三浦に声をかけられた時も、すぐに言葉が出てこなかった。


「川原さん、最近疲れてないっすか?」


「いや、大丈夫。」


曖昧に笑って流したが、そんな自分にどこか罪悪感を覚えた。仕事に集中しているフリをすることすら、最近ではうまくできない。


パソコンの画面に向かう時間は日に日に長くなり、AIが生成する文章の完成度に驚くたびに、心の奥で複雑な感情が渦巻くようになった。


「すごい……俺が思いついた設定がこんなに見事に形になるなんて。」


そう感動する一方で、同時に押し寄せるのは不安だった。


「これは俺の力じゃないんじゃないか?」


そう思ってしまう自分を振り払うように、俺はひたすら書き進めた。AIの提案に修正を加え、ストーリーを磨き上げる。




締切の夜、俺は完成した小説のファイルを文学賞のウェブフォームにアップロードした。


送信ボタンを押す瞬間、胸の中に緊張と興奮が入り混じる。


「送信完了しました。」


画面にそう表示されたのを確認すると、俺は深いため息をついた。そして、しばらくの間、椅子にもたれかかりながらぼんやりと画面を見つめていた。


「これでいい……これで俺の夢は叶うかもしれない。」


その時、俺の中に長い間感じたことのなかった光が差し込んだ気がした。ほんのかすかな光だったけれど、それは確かに希望のようなものだった。








昼休み、デスクに戻る途中でスマホが震えた。画面を見ると、一通の通知が届いていた。


「第22回 新人文学賞受賞者決定:川原俊彦さん」


最初は何のことかわからなかった。けれど、その文字を何度も読み返すうちに、手が震えているのに気づいた。心臓が高鳴る音が耳まで響く。


「俺が……?」


気づけばスマホを握りしめたまま立ち尽くしていた。体が勝手に動いて、気づけば会社の屋上に駆け上がっていた。冷たい風が頬をかすめる中、一人、小さなガッツポーズを作り、天を仰いだ。


「やった……俺が本当に……!」


誰もいない空間で声に出すと、その響きが現実味を帯びて胸に迫る。本当に俺が文学賞を取った。学生時代に一度は諦めた夢が、今になって叶ったのだ。


その夜、家族で小さなパーティーを開いた。スーパーで買ったホールケーキとスパークリングワイン。それから、美優が手書きで作ってくれたお祝いカードがテーブルに置かれている。


「パパ、すごい!本物の作家さんじゃん!」


美優が目を輝かせながら、ケーキに立てたロウソクを一本一本点けていく。


真奈美も笑顔で拍手をしながら言った。


「やったじゃない。夢が叶ったわね。」


俺は少し照れくさそうに笑いながらスパークリングワインを注いだ。真奈美がグラスを掲げ、軽くぶつけ合うと、美優もジュースの入ったグラスを勢いよく突き出してきた。


「乾杯!」


温かな笑い声がリビングを包む中で、俺はようやく肩の力を抜くことができた気がした。


けれど、グラスの中のワインを飲み干した瞬間、胸の奥に小さな棘のようなものを感じた。


「これが本当に俺の力なのか?」


AIがいなければ、この物語は完成しなかった。そう考えると、嬉しさと共に、どこか不安が心に影を落とす。


美優が手作りカードを差し出してくれた。「パパへ。これからもお話いっぱい書いてね。」


その言葉に少しだけ胸が締め付けられるような気がした。






受賞の翌週、俺は地元の新聞社からインタビューを受けることになった。地方紙とはいえ、こうして取材を受けるなんて初めての経験だ。記者は熱心で、いくつもの質問をぶつけてきた。


「受賞おめでとうございます。この作品を書くにあたって、最も苦労した部分はどこですか?」


「ありがとうございます。そうですね……主人公の感情の描写にはかなり時間をかけました。」


「執筆期間はどれくらいでしたか?」


「半年ほどですね。構想はずっと温めていたので。」


順調に進んでいる、そう思っていた。だが次の問いが俺の胸を鋭く刺した。


「最近ではAIを使った創作も話題になっていますが、川原さんの作品にもそういった技術が使われているのでしょうか?」


一瞬、心臓が止まった気がした。間があったら不自然だと思い、とっさに笑顔を作る。


「いえ、この作品は僕が長年温めてきたアイディアを形にしたものです。」


言葉を発しながら、自分でそれが空虚に響いているのを感じた。記者の目がほんの一瞬鋭く光ったように見えたのは気のせいではないだろう。


それから数日後、SNSで拡散されている一つの記事を見て、俺は体が固まった。


「文学賞受賞作、AI生成の可能性?」


記事を書いたのは、名前の知れた文学評論家だった。その内容は、俺の作品の文体や構成にAI特有の特徴が見られると指摘するものだった。


「これ、本当に人間が書いたの?」


「AI使って書いたなら、それってズルくない?」


SNSで飛び交うそんな言葉が、次々と俺の目に飛び込んでくる。胸の中が冷たいものに浸食されていく感覚がした。


「なぜだ……どうしてそこまで分かる?」


記事は瞬く間に拡散され、ニュースサイトにも取り上げられるようになった。俺の名前がSNSやニュースの見出しに踊るたび、逃げ出したい気持ちが強くなる。


スキャンダルが広がる中、出版社から連絡が入った。電話口の編集者は申し訳なさそうな声で言う。


「川原さん、記者会見を開いて真相を説明してください。これ以上の噂を放置するわけにはいきません。」


記者会見――その言葉に俺の頭は真っ白になった。真相を説明する?何を?どう説明すればいい?






その日の夕食の席でも、俺はほとんど何も口にしなかった。箸を持つ手が止まったまま、美優の視線を感じる。


「パパ、大丈夫?」


小さな声で美優が聞いてくる。俺は慌てて笑顔を作るが、きっと不自然だっただろう。


「うん、大丈夫だよ。」


美優はそれ以上何も聞かず、静かにご飯を食べ続けた。


その夜、リビングで新聞記事を読んでいた真奈美がふと顔を上げた。


「俊彦、何があったの?新聞にも書かれてるけど、何か隠してるの?」


その言葉に、俺は喉が詰まるような感覚を覚えた。


「……いや、大丈夫だ。俺がなんとかする。」


視線を逸らしながら答えると、真奈美は心配そうな顔で俺を見つめたが、それ以上は何も言わなかった。



頭の中では言い訳がぐるぐると回り続ける。だが、それを口に出したところで誰も納得しないだろう。結局、俺は自分が作った状況に一人で押しつぶされそうになっていた。






記者会見の会場に入った瞬間、空気の重さに押しつぶされそうになった。記者たちの視線が一斉にこちらを向く。目には好奇心や疑念、期待と攻撃的な光が入り混じっている。数十本のカメラが俺を追い、フラッシュの閃光が立て続けにまぶたを焼いた。


壇上にある一本のマイク。冷や汗を手のひらで拭いながら、それを握りしめた。


司会者が開会を告げると、記者たちが一斉に手を挙げた。誰もが今か今かと質問の順番を待ち構えている。


「川原さん、一部では、あなたの作品がAIによって書かれたと言われています。それについてどうお考えですか?」


最初の質問が飛んできた瞬間、喉が詰まったような感覚に襲われた。分かっていた。いずれこの問いが投げかけられることは。だが、その言葉がこうして自分に向けられた瞬間、身体が硬直してしまうのを止められなかった。


記者たちの視線が突き刺さる。俺は深呼吸し、ゆっくりとマイクに口を近づけた。


「……事実です。」


フラッシュが一斉にたかれた。耳をつんざくようなカメラのシャッター音と、記者たちのざわめきが会場を埋め尽くす。


「僕は執筆にAIの力を借りました。」


その言葉を口にした瞬間、胸の中で何かが崩れるような音がした。


「では、受賞に値する作品だとお考えですか?」


別の記者がすかさず追撃してきた。質問が矢のように突き刺さる。


一瞬だけ目を閉じる。心の中で言葉を探した。


「この物語は、俺が何年も温めてきたアイディアから生まれたものだ。」そう自分に言い聞かせながら、もう一度マイクを握る。


「僕は、AIを道具として使いました。」


言葉を紡ぎながら、会場中がこちらを見つめているのが分かった。誰も瞬きすらしていないように感じる。


「でも、その道具をどう使うか、どんな命を吹き込むかは、僕自身が決めました。この物語には、僕の経験や思いが詰まっています。それを読者がどう受け取ったのか――それがすべてだと思います。」


俺の声は、静まり返った会場に響いていた。


「あなたは創作を冒涜しているのでは?」


「AIが書いたものを『自分の作品』と呼ぶことに違和感はないですか?」


次々と続く厳しい質問に、汗が背中を伝うのを感じる。けれど、不思議と声は震えなかった。俺が迷っていたら、この作品を読んでくれた誰かの心を裏切ることになる――そう思ったからだ。


「この作品が誰かの心を動かしたのなら、僕がこの物語に込めた思いは届いたのだと思います。」


自分でも驚くほど静かで、はっきりとした声だった。


記者会見の映像は数時間後にはSNSやニュースサイトに拡散された。「AI小説家、真相を語る」「創作の新時代か、単なる欺瞞か」――見出しが次々と目に飛び込む。


賛否両論の声が渦巻く中、一つのコメントが俺の心に残った。


「AIでも何でもいい。この作品に泣かされたのは事実だから。」


たった一行の言葉。けれど、それだけで俺の心に一筋の光が射し込む気がした。この物語は、確かに誰かに届いている。それだけは間違いない――そう信じられた。






数週間後、俺は娘の美優の授業参観に出席していた。平日の昼間ということもあり、教室には思ったより保護者の姿が少ない。小さな机と椅子が並ぶ中、美優は緊張した様子で友達と小声で話をしている。俺に気づくと、少しだけ照れたように手を振った。


教室の後ろで見守りながら、小さく手を振り返す。娘の成長を感じつつも、どこか不思議な気持ちだった。いつも自分を見上げてきた小さな子が、こんなに堂々と人前に立とうとしているのだから。


「次、美優さん。」


先生が名前を呼ぶと、美優は椅子から立ち上がり、手に持った作文をぎゅっと握りしめた。その姿に、俺は自然と背筋が伸びた。教室全体が静まり返る中、美優の声が響き渡る。


「私の作文のタイトルは、『パパのお仕事』です。」


その一言に、胸が高鳴った。思わず体が固まり、耳を澄ませる。


「私のパパは、作家さんです。パパは私が読みたい話をすぐに書いてくれて、寝る前に読んでくれます。冒険のお話や、映画みたいなすごいお話がたくさんあります。」


後ろの席から他の保護者たちの視線を感じたが、そんなことはどうでもよかった。美優の声が俺の胸に直接響いてくる。


「パパのお話には、勇気を出したり、友達を助けたり、すごいところがいっぱいあります。私は、パパの考えるお話が大好きです!」


作文を読み終えた美優が一礼すると、教室中に拍手が広がった。その中で、俺は一人でじっと立ち尽くしていた。


「……俺の話が、好きか。」


胸の奥がじんわりと温かくなる感覚を覚えた。授業参観に来てよかった。最近、仕事と執筆に夢中で、美優が俺をどう思っているのか、何を感じているのかなんて考える余裕がなかった。


美優が席に戻る途中でふと振り返り、照れくさそうに笑いながら手を振ってきた。俺も自然と微笑み、小さく手を振り返す。


教室を出る頃、胸の中で確かな決意が生まれていた。


「俺は、家族のために、そして読者のために書くんだ。」


美優の言葉が、俺の心をしっかりと支えてくれているようだった。




授業参観の翌日、俺は久しぶりに散歩に出た。柔らかな陽射しの中、街路樹が風に揺れる音がどこか心地よい。青空の下を歩きながら、頭の中では相変わらず新聞の記事やSNSの議論が渦を巻いていた。


「AIは創作を変えるのか?それとも破壊するのか?」


どこかの評論家が言ったその言葉が、俺の中でいつまでも消えずに響いている。


その日、俺はとある文学フォーラムに招かれていた。テーマは「シンギュラリティと創作の境界線」。壇上では、AIと人間の関係を巡って様々な意見が飛び交っている。


自分の番が来た時、俺は深く息を吸ってからマイクを握った。何を語るべきか、頭の中で何度も反芻していた言葉を、丁寧に紡ぎ出す。


「AIを使って小説を書くことで、私は一度諦めた夢を取り戻すことができました。」


言葉に出すと、その事実が改めて自分の中に深く刻み込まれるような気がした。俺は続ける。


「でも、そこには疑問も生まれました。AIが創作に関与することで、人間のオリジナリティは失われてしまうのでしょうか?それとも、むしろ新しい可能性を広げるものなのでしょうか?」


客席の方に視線を向けると、何人かが真剣な顔で頷いているのが見えた。その中で、一人の男性が立ち上がった。


哲学者の菊池修平――AIと人間の関係について深い議論を重ねてきた人物だ。落ち着いた声で、彼は語りかけてきた。


「シンギュラリティが訪れれば、もはや人間とAIの区別はなくなるでしょう。すべての創作が瞬時に、そして完璧に生成される時代が来る。そんな未来では、今我々が議論しているような『オリジナリティ』や『誰が作ったか』といった問いは、無意味になるかもしれません。」


その言葉を聞いて、俺は一瞬言葉を失った。完璧な創作が誰にでも可能になる時代。それは夢のようでもあり、同時に恐ろしい未来でもある。


「……それなら、人間が物語を紡ぐ意味は何なのでしょう?」


そう問うと、菊池さんは静かに微笑んだ。


「意味なんてないのかもしれませんよ。」


驚きつつも、彼の言葉を待つ。


「けれど、意味がないとしても、それを追い続けるのが人間なのではないでしょうか。」


その一言が、胸の奥に深く染み込むようだった。





フォーラムが終わり、会場を後にする頃には、俺の中に小さな光が灯っていた。創作に意味があるのかどうかなんて、もしかしたら永遠に分からない。けれど、誰かがその物語に心を動かされる。それだけでも、十分に価値があると思える気がした。


「誰かの希望になれるのなら、俺は書き続けよう。」


そう心の中でつぶやきながら、俺は次の一歩を踏み出した。






フォーラムから数日後の夜、俺は書斎の机に向かっていた。薄暗い部屋の中、ノートパソコンの画面が青白い光を放っている。画面にはAIツール「ミューズ」の起動画面が表示されていた。


「……さて、また始めるか。」


声に出してみると、自然と背筋が伸びる。久しぶりに、純粋に「書くこと」を楽しみたいと思えていた。


キーボードを叩き、新しい物語のアイデアを入力する。画面には次々と生成された文章が表示されていく。AIの提案は相変わらず的確で、巧みにプロットを補強してくれる。だが、すべてを受け入れるわけにはいかない。


「ここは違うな。」


手を止め、AIが作り出した文章を削除していく。そして、自分の中に浮かぶ言葉をひとつずつ紡ぎ直す。


「ありがとう、ミューズ。でも、ここは俺の感情で書きたい。」


もちろんAIは何も言わない。ただ静かに新たな提案を画面に表示する。それでも不思議と、その無言のやり取りの中にどこか穏やかな調和を感じていた。


気づけば、主人公が苦悩を乗り越えるクライマックスを書き上げていた。手が止まり、しばらく画面を見つめる。自分が書いた文章。いや、正確にはAIと共に紡いだ文章だ。


「これでいいのか?本当に、これが俺の作品だと言えるのか?」


思わず心の中でそう問いかけてしまう。完成した文章に自信がないわけではない。ただ、自分の書く意味を再び考えさせられていた。


その時、ふと美優の言葉が頭をよぎった。


「私はパパのお話が大好きです。」


その一言が、まるで背中を押してくれるように思えた。美優の笑顔が浮かび、自然と口元がほころぶ。


「俺の話が好きだって言ってくれる人がいる。それだけで十分だ。」


俺は画面に向き直り、キーボードに手を置いた。そして、次の一文を書き始めた。






画面には、俺の新作の冒頭が映し出されている。


「世界が変わるその瞬間、人々は静かに息を呑んだ。その変化が希望をもたらすのか、恐怖を連れてくるのか、誰にも分からない。ただ、目の前に広がる未知の風景が、その問いの答えを示してくれることを信じて――彼らは一歩を踏み出した。」


キーボードを叩き終えた俺は、画面をじっと見つめた。自分の書いた文章がそこにある。でも、その背景にはAIが作り出した数々の提案や、俺自身の手で書き直した無数の言葉たちが詰まっている。


俺はこれでいいのか?自分に問い続けた日々が、胸の中に去来する。それでも、読者が俺の物語に何かを感じてくれたのなら、それだけで十分なんじゃないか――そんな思いが、今は少しだけ自分を支えてくれる気がする。


一息ついてから、静かに呟いた。


「俺は……俺の物語を書き続ける。」


それがどんな形であれ、自分の言葉で紡いだ物語が、誰かの心に届くことを願う。その思いだけは、昔も今も変わらない。


文章を仕上げると、俺は最後に一行を付け加えた。読者に語りかけるように。


「さて、この物語もAIが共に紡ぎました。」


間を空けるように一息入れた後、次の一行を綴った。


「あなたが読んだこの文章はどれだけ人間の手によるものだったでしょう?――けれど、それが何だというのでしょう。大切なのは、この物語があなたの心に何かを残したかどうかです。」


文章を保存して、パソコンの画面を閉じる。部屋の中が暗くなると、窓の外の光が一層明るく見えた。


俺の背中越しに、新しい朝の光が差し込んでくる。その光を見ながら、俺は小さく微笑み、机から立ち上がった。


また、新しい物語が始まる――そんな予感を胸に抱きながら。

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