蛍石のクリームソーダ

 閑静な住宅街。今は夜9時を過ぎたところ。住人たちはとっくに帰宅して、家族団らんを楽しんでいるのだろう。人影はまばらだ。


「なんだかなぁ」


 私、柊木ホタル、は小さく呟いた。見上げた夜空は星どころか月さえ見えない。ひとりぼっちの三十路女に冬の夜風が身にしみる。


 今日は朝からついてなかった。

 朝ごはんを片手に部屋の電気をつけようとしたら、焼きたてのチーズトーストが皿から滑り落ちた。チーズを下にして。しかもフローリングとカーペットの境目、ぎりぎりカーペット側に。

 仕事も小さなミスと嫌味なお客さんが続いた。

 

 災難だと周りに嘆くほどではない。けれど地味に心は削られる。まさに、なんだかなぁ、な1日だった。


 極めつけは少しでも気持ちを上げようと、仕事帰りに立ち寄ったクリスマスマーケットだった。

 

 華やかなイルミネーション、見上げるほど高いツリーのてっぺんには輝く黄金色の大きな星。暖かな灯りをともすランプが吊り下がったテントには、グリューワインやマシュマロを浮かべたホットチョコ、シュニッツェルにカリーブルストなどが並ぶ。

 スパイスの効いた温かなワインを片手に、可愛らしいオーナメントやアイシングされたハートのレープクーヘン、ドライフルーツたっぷりのシュトーレンを見て回る。


 なんて素敵なクリスマス!

 

 でも、そこら中に溢れる恋人や友達連れの中で、私は見事にひとりぼっち。余計に寂しさが募って、昼間に落ち込んだ気持ちはとどめを刺された。


 これじゃ逆効果だと早々に引き上げたものの、帰る先は一人暮らしの暗い部屋。真っ直ぐ帰る気持ちにもなれない。とはいえ、どこか立ち寄る先も思いつかず。誘う相手は尚更思いつかず。のろのろと歩いていたその時だった。


「あれ? こんな所に喫茶店なんてあったっけ?」


 住宅街にひっそりと佇む1軒の喫茶店。年代を感じさせるその店は、新装開店とはとても思えない。けれど、この街に住んで早数年。何度も通っている道なのに全然気が付かなかった。


「喫茶……何て読むんだ、これ?」


 店の前にだされた看板には電気が灯っている。ということは、まだ営業時間中なんだろう。夜の9時過ぎ。深夜とは言えないけれど、住宅街の真ん中で、こんな時間に果たしてお客さんがいるものなんだろうか? と私は首を傾げた。


「まぁ、いいか」


 いくら夜とはいえ喫茶店だ。女性が1人で立ち寄るとしたら、居酒屋よりよっぽど安全だろう。そう思った私は柔らかな胡桃色の扉に手をかけたのだった。


 ◇◇◇


「いらっしゃいませ」


 カウンターが3席だけの小さな喫茶店。そのうち1つ、私からみて右側には黒猫が丸まっている。


 見渡すまでもない狭い店内に店員と思しき人は、カウンターの中に立つ青年だけ。ハーフなのだろうか? 色の白い肌に琥珀色の髪をした青年はなかなかにイケメンだ。店主にしては若過ぎる気がするけれど、最近はそういう店も多い。

 

 そんなことよりも、青年の後ろへ並ぶものに足が止まってしまった。

 

 青年の背後、カウンターの後ろにある食器棚で並んでいたのは、ティーカップでも、グラスでもなく、色とりどりの宝石だったのだ。


「あの、ここって喫茶店……ですよね?」


 扉に手をかけたまま、半身だけ店に入った状態で恐る恐るたずねる。そんな奇妙な体勢をした私に青年が笑顔で応える。


「もちろん。寒いですし、どうぞこちらの席へ」


 その言葉に一瞬考えた後で、大人しく店へ入ると勧められた席へと腰をおろした。

 

 見たところお客さんは私1人だ。折角笑顔で迎えてくれたのに、ここで引き返すのは忍びない。店の扉はすぐ後ろだ。何かあったらさっさと店をでればいい。


 右隣に座る黒猫がチラリと私をみる。金色の目が一瞬のぞいたけれど、すぐに興味を失ったらしくまた丸くなってしまった。


「はい、どうぞ」


 差し出されたメニューを受け取る。一緒に置かれたお冷やの氷が、カウンターに置かれたアンティークランプの灯りを受けて煌めく。


 メニューに目を落とせば、飲み物とスイーツ、軽食がいくつか並ぶ。こんな時間にやっているのだからアルコールもあるかと思ったのだけれど、どうやらないらしい。


 さて、何にしよう? と思ったところで、メニューの1つに目が留まる。

 

『蛍石のクリームソーダ』


 クリームソーダと言えば夏の飲み物。年の瀬も迫った師走に頼むなんて無粋もいいところだ。そう思ったものの、自分の名前と同じそれになんとなく縁を感じてしまった。


「あの、これを1つ」


 気が付くと私の指はメニューに書かれた『蛍石のクリームソーダ』を示していた。


「はい、かしこまりました」


 爽やかな笑顔とともに返事を1つすると、青年はカウンターにチューリップ型の細長いグラスを置いた。

 そして私に背を向けて食器棚から宝石を1つ取り出すと、丁寧にふきんで拭いてからグラスに落す。一辺が1センチメートルくらいの正八面体の石が、カラン、とグラスにあたって音を立てた……と、思ったのだけれど。


「えっ?」

「はい。蛍石のクリームソーダです」


 青年の言葉のとおり、カウンターにはクリームソーダがあった。


 私は思わず目をこすってみるけれど、そこにあるのは確かにクリームソーダだ。そして、それは今まで私がみたどれよりも綺麗だった。

 

 チューリップ型のグラスに注がれたソーダ水は、下は紫、上は翠色。境目は紫と翠色が混ざることなく縞模様を描き、その中を銀色の泡がシュワシュワと立ち昇っている。

 のせられたアイスクリームの上には、それこそ宝石のように輝く真っ赤なドレンチェリー。薄い銀色のフレークがまぶされていて、店の灯りをきらきらと反射している。


「アイスクリームには雲母のトッピングを使っています。溶けやすいのでお気を付けください」


 当たり前のように言う青年の言葉に、どこかふわふわとした気持ちのまま、私は銀色の柄の長いスプーンを手にとってアイスクリームを口に運んだ。


「おいしい」


 濃いミルクの風味とバニラの香り。そこに爽やかなミントの香りが微かに加わる。どうやらミントの香りはトッピングの雲母からするらしい。キラキラとした見た目に反して、雲母は口に残ることなくアイスクリームと一緒にふわりと溶けてなくなる。


 そして、紫と翠色の縞模様を崩さないように、そっとソーダを一口飲めば、懐かしい夏の日差しが瞼の裏に蘇った。


 ◇◇◇


 ジー、ジジジー、ジー……。


「ん~、うるさい」


 耳障りな蝉の声に私はうめき声をあげる。


「おい、柊木。補習中に居眠りとはいい度胸してんな」

「えぇ? ん? はっ! 寝てません!」


 ガバリと起き上がった私は慌ててヨダレを拭う。


「1対1の補習で、バレねぇとどうして思えるんだ」


 呆れたように言うと先生が私の頭を叩く。

 今の時代だったら体罰になるのだろうか。そもそも、教室で男性教師と女子高生が2人きりというシチュエーションが、アウトなのかもしれない。


 それは忘れていた懐かしい光景。

 夢でもみているのだろうか? さっきまで奇妙な喫茶店で、嘘みたいに綺麗なクリームソーダを飲んでいたはずなのに。


「柊木、もうちっとやる気出せや。元の頭は悪くねぇんだからさ」


 そうだ。これは高校3年生の夏休みだ。理系を選んだくせして化学が致命的に苦手だった私は、1人補講を受けていた。

 蝉の声がうるさい夏の日。当時は今ほど暑くなかったのだろうか。エアコンのない理科室では、先生の私物の扇風機が回っていた。


「センセ、なんか面白い話してよ。眠くなんないやつ。それか、購買でアイス買って」

「どっちも、なんでだよ! こちとらタダ働きなんだぞ」


 そうそう、あの日の私はそう先生にねだったんだ。でも、その後どうしたんだっけ?


「仕方ねぇな」


 先生は面倒臭そうにそう言うと席を立って、理科準備室へと姿を消す。戻ってきた先生の手には、淡い緑色を帯びた石ころと懐中電灯。


「柊木、お前の名前ってなんだっけ?」

「えっ? 生徒の名前忘れるって、教師としてどうなのよ。ホタルだよ。ホタル」


 私の返事にうなずきながら、先生は机に黒いハンカチを引くとその上に石ころを置く。


「おい、カーテン閉めろ」

「えっ?」


 予想外の言葉にギョッとする私に先生が、何考えてんだよ、と嫌そうな顔をする。

 

「これ、蛍石って言うんだよ。面白いもん見せてやるから、早くしろ」


 その言葉にカーテンを閉めると、先生が石ころに懐中電灯で光をあてる。と、石ころが青く光り出した。


「噓! なんで?」


 驚く私にカーテンを開けながら答える。


「蛍石は紫外線を吸収するんだよ。そんでエネルギーをためて、そこから通常の状態へ戻る時に光を放出するんだ」

「へぇ~。ぱっとみちょっと綺麗な石ころなのに凄いんだね」


 感心する私に先生が、石ころじゃなくて蛍石な、と訂正しながら続ける。


「柊木もさ、今はエネルギーをためる時期なんだよ。あとできっと光るから、だから今はもちっと本気出して勉強頑張れ」

「先生」

「ほれ、休憩は終わり。勉強すんぞ」


 ◇◇◇


「なんで忘れていたんだろう……って、あっ」


 気が付くと私はまた喫茶店のカウンターに座っていた。目の前のグラスには蛍石のクリームソーダがある。のせられたアイスクリームも全く溶けていないし、グラスを伝う泡は、クリームソーダの気が抜けていないことを示していた。


「どうなさいました?」


 青年が私にたずねてくる。


「あの、私の名前、ホタルって言うんです」

「おや、それはすごい偶然ですね」


 私の唐突な言葉に驚く様子もなく青年が答える。その姿になぜか私は目の前に置かれた蛍石のクリームソーダが偶然ではないような気がした。そのまま、私は言葉を続ける。


「高校生の時に大切なことを教えてもらったんです。って言っても、ずっと忘れていたんですけれど」


 青年は何も言わず、私の言葉の先を促すように目だけでうなずく。


「蛍石って光るんですよ……私も光れますかね?」


 我ながら支離滅裂だ。いくらお客さんの言葉だとしても青年は困るだろう。


「全ての蛍石が光るわけではありません。ですが、きちんと吸収すれば光ると思いますよ」


 でも青年はそんな私の予想に反して、当たり前のように応じた。その返事に、あぁ、やっぱり蛍石のクリームソーダは偶然ではなかったのか、と確信する。

 そこからはもう何も言わずにクリームソーダを楽しむことにした。

 

 これを飲んだら家に帰ろう。

 今の私はエネルギーをためているんだ。ついてない今日だって、冴えない日々だって、きっとエネルギーになる。たっぷりため込んで、いつか綺麗に光ってみせる。あの夏の日の蛍石みたいに。


 最後の一口が終わり席を立とうとしたところで、そういえば、と私はふと思い出した疑問を口にする。


「あの、お店の名前、なんて読むんですか? 不勉強で申し訳ないんですけれど」


 私の失礼な質問に嫌な顔もせずに青年が、あぁ、とうなずく。


「喫茶朔月堂さくげつどうと言います。朔月は新月の別名なんですよ。お客様、よろしければ店を出た後に夜空を見上げてみてください。今日は新月。月が見えないはずです」

「あぁ、そう言えば確かに。曇りなのかと思ってました」


 そう言った私に青年が首を横に振る。


「新月の夜は地球から見て月と太陽が重なるので、月が見えないんです。今日から月の満ち欠けが始まります。だから新月は始まりの月とも呼ばれるんですよ」

「始まりの月」

「はい、お客様にも良い月が巡りますように」


 にっこりと微笑む青年に頭を下げて、今度こそ私は喫茶朔月堂を後にしたのだった。


 胡桃色の扉を閉めて、夜空を見上げる。

 見えない新月に私は、もうちっと頑張るか、と呟いた。


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