鳥影  ――光サイド――

滝岡総合病院の愉快な仲間達

       鳥影

 ――光サイド



 一


「炭疽菌」

え?と思わず光が誰かと話している声で目がさめた神原が、ベッドに身を起こして少し離れた椅子に座りタブレットを前に会話している神代光の姿をみて瞬く。

「中央アジアを旅行した後に発症だな?炭疽菌を調べろ。そうだ、他との鑑別は、莢膜を染色しろ。通常で見にくければ墨汁を使え。後、PCR併用、同定には時間が掛かる。そうだ、だからまず、莢膜が確認できたら、抗菌剤の予防的投与を行え。いまマニュアルを送付したが、セフェム系には感受性がないので注意しろ。第一選択はシクロプロキサシン。そうだ、ペニシリン系の単剤投与は避けろ。複剤併用で大量投与を行う。検体の汚染がないようにしろ。防疫のマニュアルを送る。炭疽菌疑いで防疫処置を頼む。部屋、荷物の隔離、付添人がいるなら、その防疫処置も行え。単体隔離、衣服の消毒、細かい点はマニュアルにした。見てくれ」

 ――炭疽菌、と聞こえますが。

 神原が光の会話から聞き取った内容に訝しむ。

 ――炭疽菌は、確かテロに使用されたことで注目された病原菌ですが、…。

 この様子だと、炭疽病が発生しましたか?

無言で神代光の様子を観察して。

「ああ、うん、――わかった」

真剣な様子に、どうやらこちらの病院ではなくて、他の地域の病院か何処かからの問い合わせのようですね、と神原が思いながら会話を聞く。

 そして、神原が起きて聞いていることに気付いた光に、質問する。

「どうしたんですか?神代先生」

薄暗い照明の中、夜明けの近い夜の街並が遠く照明を消していくのが硝子の向こう、カーテンを僅かに開けた間から見えている。ベッドサイドに置かれていた椅子を動かし、窓の外が見える位置にしてタブレットを見ていた光に神原が近付く。

 ちら、と一瞥した画面には腹部のCT画面。

光が画像を移動させて拡大しながら、次々と画面を見ていく。神原が見るのに、光がタブレットを操作する。

――腸穿孔を起こしていますか?

神原も画像を見ながら、そう思うのに。

「――わかった、この症例は一度経験がある。正義を行かせる」

「――ま、…さん、ですか?」

「そうだ。おれのいとこだ。この症例に向いている。あいつを行かせる。秋田には感染研の神尾さんがいる。正義と神尾さんは知り合いだ。正義に神尾さんをピックアップさせて、そちらに向かわせる。感染研の神尾さんに、感染経路の同定をしてもらう」

「…――ありがとうございます!」

「いまから向かわせる。手術の準備をしてくれ」

「はい!」

神原が見ているのに気付いて光が応答をスピーカーにして会話が聞こえるようにしたのを聞いて。

 神原が少し首を傾げて考える。

 ――確か、神尾先生がいるのは秋田だと思いましたが。…ここから、いまから滝岡先生を秋田へ?

 腸穿孔では緊急手術が必要だと思いますが、間に合いますか?

 いま見た限りだと急ぐようですが、と疑問に思って神原が見ていると。

「連絡はいまの経路で寄こしてくれ。切るぞ」

「はい、わかりました」

通信が一度切れて、神代光が見つめている神原を見あげる。

「寝てていいぞ」

「いえ、…まあ、もう朝ですからね。滝岡先生を向かわせるんですか?滝岡先生に執刀を?神尾先生がいる処は、確か秋田だったと思いましたが」

「ああ、そうだ。いまから手配する。起きなくていいんだぞ?本当に」

不思議そうにみていう光に、神原が微笑む。

「もう五時ですよ?寝直すより、起きた方が身体も楽です。着替えてきますね」

「わかった」

うなずくと、次に光が滝岡に連絡を取るのをつい見つめて。

「正義か?起きろ。いまから、屋上へ行け。秋田で執刀してもらう。神尾さんをピックアップして、秋田大へ向かえ。ヘリの後、輸送機に乗ってもらう」

 ――滝岡先生を空輸するつもりですか、…。

光の指示を聞いてある意味納得して、それからしみじみと滝岡に同情して神原が踵を返す。

 洗面台に顔を洗いに向かいながら、しみじみと。

 ――滝岡先生、当直で寝ている処を起こされて、さらにヘリと航空機で輸送されて秋田でこれから手術ですか、…。

矢継ぎ早に指示をあたえていく光の声を背後に聞きながら。

 ――大変だなあ、…滝岡先生。

のんびりと伸びをして神原が思う。

滝岡が当直になった為に、滝岡家に泊まり込むのはやめて、一度、神代のマンションに戻ってきた神原と光だが。

 ――さて、顔を洗って着替えましょう。

寝間着代わりの絹のバスローブは豪華な室内に映える。尤も、豪華なセットのようなキングサイズのダブルが置かれた寝室も絹のバスローブも実は、光が借金対策に買ったマンションが売られていたときに展示されていたセットを面倒だからとそのまま全部購入した為についてきたものなのだが。

 おかしな事情から、神代光と同居することになり、無造作に広いベッドだからこれでいいでしょう、とベッド買うの面倒ですし、と神原がいうのに、光がまあいいか?と眉を寄せながらも同意した結果、こうして一つベッドに寝ている神原と光だが。

 ――緊急時の対応とかが、楽でいいですね。

同居して同じベッドに寝ていることになった結果、楽ですね、と神原が思うのは。

 同じ滝岡第一に勤める為に、緊急連絡が同じ病院から来ることと。

 それに。

「――そうだ、ヘリを迎えにやらせる。ヘリで厚木に着いたら、航空機で移送してくれる。秋田に着いたら神尾さんをピックアップして先にいった通り秋田大へ向かえ。そうだ、うん。よし、もう屋上か?」

 滝岡総合病院に当直していた滝岡に、屋上にあるヘリポートに着いたか?と確認しながら。

さくさくときっぱり決めつけて光が滝岡に指示しているのを聞きながら。

 ――便利なんですよね。病院に行くにも、急ぎなら神代先生が手配してくれますし。

元々、このマンションは神代光が滝岡総合病院に近いことを条件に購入したもので、徒歩十五分程の実に良い立地にあるのだが。さらに緊急であれば、マンションに待機している車を使って、数分で滝岡第一まで光を移送する手配が確立している。

 ――僕はそれに便乗ですが。

と、微笑んで思いながら、着替えた神原が寝室に戻る。

 まだ部屋に備え付けられていたバスローブを着たままで、窓の外の景色を何か確認しているように睨んでみて、タブレットに視線を戻す神代光に神原が気付く。

 ――そうか、窓を開けて外を見ていたのは、天候を確認する為ですか。

どうやら、光が滝岡をヘリと航空機で移送させる為に、天候をみて確認していたと気付いて神原が微笑んでその様子をみる。

 ――大変ですね。

「よし!正義を頼む。そうだ、秋田に着いたら、神尾さんのホテルまで送ってやってくれ。頼む、うん。そうだ、よろしく!」

今度は滝岡ではなく、滝岡の移送を頼む相手と会話していたのだろう。

 通話を切ると、光が神原を見あげる。

「どうした?」

「いえ、秋田で炭疽菌が出たんですか?」

「そうだ。いや、まだ確定じゃないが、疑いが出た。確定はあちらの病院に依頼した処だ。感染経路の同定は神尾さんに任せる。正義には執刀させる。あの症状なら、正義が執刀すれば救命できる可能性が上がる。どうした?」

「…いえ」

次々と切り取るようにはっきりと明瞭な口調で説明を終わらせる神代光が見あげてきくのに、神原が微笑む。

「では、神代先生も着替えたらいかがですか?それで、水分をとりましょう」

「ああ、…そうだな」

忘れていた、と。まだバスローブ姿の自分を見下ろして。

急に立ち上がるとタブレットを神原に手渡して。

「着替える!これに連絡があったらすぐ呼んでくれ」

神原が微笑んでタブレットを受け取り、背を向けて顔を洗いにいく光を見送って。

「さて、と」

 朝が来ましたね、と光が寝ている神原を気遣って、片方だけ少し開けていたカーテンを大きく開く。

 ――まったく。

困った人ですね、と。全然、人を気遣うようにはみえない神代が、緊急通話が来たとき、神原を起こさないようにして移動、天候を確認する為に開けたカーテンも、神原の側に届かないようにしていたことに。

 ――…まったく、困った人です。

そう思いながら微苦笑を零して、それから。

 ――せめて、飲み物くらい用意しますか?

光が顔を洗う前に。

牛乳をグラスに注ぐくらいですけどね、と。光と同じく料理の腕は壊滅的なのを自覚している神原が、冷蔵庫から一杯のミルクを取り出しに。

「神原!午後に正義が手術予定の患者さんのデータを入れる。おまえの予定はどうだ?」

着替えてきた光が大きな声でいいながら歩いてくるのに、ミルクの入ったグラスを手渡して。

「うん、ありがとう。…?」

受け取って礼をいい、光が不思議そうに神原をみるのに。

「…いえ」

神原が微笑しながら光をみて。

 ――滝岡先生は当直明けで今日は手術予定がありませんが、明日予定されている手術に戻って来られなかった場合に備えて、手術予定の患者さんのデータを入れられる訳ですか。

そして、滝岡が戻れなければフォローとして神代光が執刀するのだろう。

 ――まったく、本当に困った人ですね。

暖かく思いながら。何か胸を暖かく満たすものがあるのに神原が微笑んで。

「気味悪いぞ」

「いいますね?朝ごはんにしましょう。小野さんが置いていってくれてありますよ?」

「うん。いつもありがとう、だな。よし、食おう!」

手配が終わり、その方面は連絡があるまで一時置くことを決めたのだろう。光がきっぱりいって食卓に向き直るのに。

 神原が冷蔵庫を開けて、作り置きを家政婦の小野さんがしてくれてある朝食を取り出して。

「いただきます!」

両手を合わせていうと、元気に光が朝食を取り始めるのを隣に。

 神原もまた、ゆっくりと朝食を楽しみはじめて。

 さくさくと食事を済ませた光が、連絡をまたタブレットで取り始めるのを横に聞きながら。

 ――僕は心臓しかできませんけど。

心臓血管専門の外科医である神原がのんびりと食後のお茶を飲みながら。

 ――僕が必要なときは、いつでもいってください。

そうして、のんびりとハーブティーを。

「カモミールって、落ち着きますねえ」

実にのんびりと朝を堪能しながら。

 その横で、滝岡総合病院と連絡を取り、改めて滝岡がいない間の指示を与えている神代光と。

 極日常を楽しんでいる、神原良人である。―――



 その頃、既に滝岡総合病院屋上ヘリポートからヘリで移送され、厚木基地に着いた後、空自の輸送機で秋田まで運ばれる滝岡がいるのだった。


 ある日の、極日常な滝岡総合病院の一日の始まりである。




                        了

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