鳥影 12  fin

 二十八



「おまえさん達、仕事はやいな」

ホテルのロビー。呆れて云うのは吉岡だが。

「そうですか?」

首を傾げる神尾に、隣に立つ滝岡を見返して。

「いや、だろー?感染経路なんてそう簡単に、しかも今回は炭疽菌だったっていうじゃないか?よくしかし、二〇〇九年の症例なんて覚えてたな?」

吉岡がいうのに、神尾がさらに首を傾げる。

「いえ、…?でも炭疽菌ですからね。芽胞の状態でなら、四十年は地中で生きると云われている菌ですから、日本で発症があってもおかしくはないですが、十数年動物での発症もおきていませんからね。逆にこの一年でも数例中央アジア等での発症は報告がありますから、――――」

「いや、ちょっとまて。おまえさん、もしかしなくてもOIEやCDCとかからの症例報告全部覚えてるとかいうなよ?ヒト発生例とかだけでも?」

顔を引きつらせていう吉岡に、神尾が不思議そうに見返す。

「別に全例記憶はしていませんよ?主なものだけです。それに、覚えていなくてもいまはデータベースを検索すればすぐに出て来ますよ」

にっこり、という神尾を疑わしげに吉岡が眉を寄せて見つめる。

「…いや、おまえな、…?」

「それは、記憶していた方が探すにもはやいですけど。でも、大体ですから、詳細はデータベースで確認しますよ?」

「…――滝岡先生、…あんたの処はよくこれを引き受けてるよな、…?」

眉を大きく寄せたままいう吉岡に滝岡が首を傾げる。

「そうですか、…?ですが、助かっています。確かにデータベースを当たればいいんですが、AIを使うにしても適切な検索条件を設定できるかどうかは大きいですからね。神尾がいてくれて、本当に助かっています」

穏やかにいう滝岡に、うーん、と吉岡が唸る。

「どうしたんですか?」

「…――いやー、…うん、いや。それで、滝岡先生はこれから横浜帰って、神尾はこれから金沢か?新幹線で」

「はい。加賀市内の鳥類観察館の近くにある片野鴨池でヒシクイが一羽、陽性疑いとのことですので。金沢まで新幹線で行って、後は在来線で行こうと思います」

「よかったよ、歩くんじゃなくて、…いや、そちらの方は別働隊が既に依頼されてるから、俺達は一度北大に戻るんだが、―――できれば、状況を教えてくれ」

吉岡の言葉に神尾がうなずく。

「はい、勿論。そちらの結果も後で教えてください」

「解ってる。おまえさんが見てきてくれるなら安心だ。確かに今年は、例年発見されない場所でも報告があるからな、…」

「ええ、…加賀市の件が確かなら、石川県では初の報告になります。」

「茨城で陽性で、いま鳥取で確定検査中だったか、――何にしても、頼んだぞ、神尾」

「はい」

じゃあな、と片手をあげて肩にクーラーボックスを担いだ吉岡が車へと去るのを見送って。

「では、行きますか?」

「そうだな」

神尾の言葉に滝岡が同意して。



 二十九



 金沢駅で一度降り、時間あわせに外に出て。

 賑やかな観光地へではなく駅の反対側、日本海側になる方へと。

 滝岡と神尾が、白い石を敷いた広場に薄青の寒い色をした空を仰いで立つ。蓮か何かだろう人工の池に水草があり上空に舞う大きな鳥影が地に射すのを。

 振り仰いで、神尾がくちにする。

「鳥影は、来客を指すのでしたか」

「来客?…ああ、鳥影射すと客が来る、と云う奴か」

「一応、ご存じなんですね?」

「受験関連ならな。文学はよく解らんが。…それが、どうした?」

寒い風が渡っていく、午後の一刻。

 薄く白く刷毛に掃かれたような雲は、薄水色の空を彩り、高く舞う鳥影を鮮やかにみせている。

 遠く舞う鳥は。

「鳥インフルエンザの調査、許可頂いて、本当にありがとうございます」

「…何をいってる。まだ、これから何だろう?」

穏やかに静かに滝岡が受け止めるようにしていうのを、空を仰ぎながらみないようにして。

「…ええ、――でも、気をつけてくださいね」

「…―――」

無言で促す滝岡に空を舞う鳥を仰ぎ、行方を追うように。

「関東でも、東京の神田と千葉の印旛沼で陽性が出ました。高病原性鳥インフルエンザと確定すると思います」

「…わかった、気をつける」

染み入るように耳に届く滝岡の声に、神尾がつい微苦笑を零してうつむいて。

「…――どうした?」

困ったようにみていう滝岡に。

「いえ、…。理解のある上司ですね、滝岡さんは」

「上司というかな?まあ、おまえは好きにやれ。それで、何事もないならそれが一番良い。…違うか?」

「―――滝岡さん、…」

驚いて反射的に見ていう神尾に、滝岡が笑う。

「そう驚いた顔をするなよ。違うか?おまえのしていることは、北大の吉岡さん達もだが、…他にも多くの人達が力を割いてくれているのは、そういうことだろう?防疫というのは、そういうものだ。…本来は、地道な調査を続けて、毎年、同じように異常がないかどうかを観察して、異なる何かがあったときに備える。…違うか?」

温かく受け止めるような微笑と穏やかなその声に。

 何故か、力が抜けるようにして神尾は息を吐いて苦笑していた。

「…はい、その通りです。異常がないか、目をこらしながら、――観察し、調べて」

「何事も無いなら、それが一番だ」

「…―――はい」

滝岡もまた薄青の空を仰ぐ。


 鳥影が射す、――――。

 地上に天空を鳥が舞うとき、地には兆す影が射し染める。

 それが、凶兆であるのか、あるいは、――――。

 常に、わざわいが訪れることがあるのかを。

 防疫というのは、そういうものだ、という滝岡の声が耳に残る。

 災いが訪れることのないように、常に目を凝らす。

 鳥影が射し、その予兆が来客を告げる前に。

 この地に住む人々の命を守る為に。


 無駄とも思える地道な作業を続け、記録をして明日に備える。地に射す鳥影が、本当に災厄を運ぶときに備えて。

「おれはこれから戻る。おまえも、気をつけろよ」

神尾の頭にかるくぽん、と手を置いて滝岡がいたずらに笑んでいうのに。

「…滝岡さん、…はい、そちらも、気をつけてください」

「勿論だ。」

 いうと、神尾の肩を抱き寄せて軽く二度、大きく叩く滝岡に。

「あの、滝岡さん?」

「しっかりしろ。調査が途中でも、いつでも戻って来い。それから、必要ならいつでも呼べ。」

ふわりと笑んで、神尾の髪をくしゃくしゃにして。

「…滝岡さん、―――」

どこか、どうしてか泣きそうな神尾に笑みを返して。

「だから、しっかりしろ。…おれは、呼ばれればいつでもおまえを助けにいく。おまえは、おまえにしかできないことをするんだ」

「…―――はい、ありがとうございます、…――」

そして、神尾が顔を滝岡の肩に伏せて。

 しばし、動かずにいるのに。

滝岡が困った顔をして、神尾の肩に手を置く。

「大丈夫だ。もし、何か異常があれば、おまえなら見つけられる。…そして、何事もないなら、それでもそれは無駄じゃないんだ。安心して行ってこい」

「…―――…滝岡さん、」

ぽつり、と神尾がくちにする。それに、耳を凝らして。

 殆どつぶやくように、聞こえないような小さな声で神尾がいうのを。

「…――人は、死ぬんです。殺さなくても、…」

「神尾、…」

その言葉に驚きを持って見つめ直す。

 海外に、戦地に赴いて医療活動を行うことも多かった神尾の、紛争と戦乱の中に。

 落としていく命を、救えない命を。

 目を閉じた神尾の声が、搾り出されるように低く、ちいさく届くのを。

滝岡は声もなく見つめて、唯その肩に置く手に力を籠めていた。

「…人は、必ず死にます、…――」

 滝岡さん、とつぶやくようにいう声が何を呑むのかを。

 ――わかりはしないが、と思いながら。

 唯、…―――。

 記憶が。

「…そうだな、確かに、人は必ず死ぬものだ。…どれほど救おうとしても、最期には、かならず」

穏やかに強く呑む痛みを。それでも、かるく笑んで、滝岡が神尾の肩をかるく叩く。

「…滝岡さん、」

ようやく顔を上げた神尾に、微笑んで。

「違うか?だからこそ、防疫をし、救おうとするんだ。医者は、人を本当に救う力は無い。治癒するのは、人のもつ自然の力だ。その生命が、どこまで生きる力を持つのかと、そういうことだ。だからこそ、―――」

静かに、確信をもって滝岡が継ぐ。

「小さな力でしかないが、その生命が生き抜く為に助力をする。それが、俺達の仕事なんだ。違うか?」

 神尾、と。

微笑んで見つめる滝岡に。

「…――――、」

大きく息を吐いていた。何か、何か大きな何か、知らずに負っていた荷物が、重荷が肩から下りたような。

 思わずも滝岡を眩しいように見つめて、神尾は苦笑を零していた。

「困った人ですね」

「何の話だ」

かるく眉を上げて、おどけていってみせる滝岡に微笑む。

 青空には、随分と夕暮れの気配が近付いてきている。

 薄青の空は寒く、鳥影さえ、いまは遠くみることがない。

 薄紅を帯び始めた空に、滝岡が神尾の肩をかるく叩いて。

「ほら、いくぞ」

「…――はい」

 二人して駅に戻っていく。

 空を舞う鳥が運ぶその影は、果たして何を示すものか。

 明日は解りはしないけれど。

 それでも、その刻に。

 この一歩が無駄であろうと、明日に備える為に。

 そうして、―――――。



 世界が、明日を無事に迎えられる、それだけの為にと。

 唯、出来ることを、力を尽くす。

 僅かな力でも。――――


 ――人は、確かに必ず死ぬんです。

 駅へと歩き出す前に、一度空を振り仰ぎ思う。

 ――人は、必ず死にます。

 滝岡さん、と。

 人は必ず死ぬと。それを防ぐことはできないのだと。

 だからこそ、守る為に。

 少しでも、その生命が生きることを助ける為に。

 滝岡と共に歩きながら、神尾は静かに瞳を伏せていた。

 そうして、顔を上げる。

 ――確かに、死を防ぐことはできませんね。

 けれど、だから。



 鳥影が射す。

 それが連れてくる明日を、人は知ることが出来ない。

 だからこそ、その明日を少しでも確かなものにする為に、力を尽くす、―――――。



 金沢駅で滝岡が新幹線のホームへと改札を行くのを見送り、神尾は福井方面行き在来線快速へと乗る為に足を進めていた。












                                鳥影

                                    了






 この物語はフィクションです。実在する個人及び団体との関係はありません。作品中に出てくる病名等は架空のものを含みます。又、医療関連の情報等は実際と異なる場合、架空の病名等を用いている場合等がありますので御了承下さい。


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