鳥影 11


 二十七



 当直室で着替えながら、滝岡が神尾に問い掛ける。

「つまり、太鼓の材料が問題だったわけか?」

「はい。二〇〇〇年代に数例、アメリカとイギリス等で発生しているのですが、獣皮により制作された太鼓が感染源となり、制作過程等でエアロゾルが発生して、肺炭疽等が発症した例があるんです」

手術後に術中に来ていた術着は除染の為に破棄して、シャワー後に着た簡易服を、スーツに着替えながら訊く滝岡の問いに、神尾がにっこりと応える。

「元々、炭疽病は自然感染では皮膚炭疽が一番知られていました。炭疽病に感染した動物から、動物の毛皮等を処理する職業に就く人々の職業病として知られていた側面があります」

「皮膚炭疽、…――経皮感染か。そうか、元々、動物の皮から感染する経路があるんだな」

感心していう滝岡に神尾がうなずく。

「そうなんです。彼女は民俗学の研究で民族楽器の太鼓を収集する為に今回の旅行に行ったようですが、その際に現地で太鼓の演奏を見学し現地で使用されていた太鼓を持ち帰っていたんです」

「…太鼓か、――テロ等だと粉末状の炭疽菌を吸入して肺炭疽にさせることを標的としたイメージがあるが、エアロゾルということは、これも同じように炭疽菌を吸入した結果ということなのか?」

不思議そうにみる滝岡に神尾がうなずいて見返す。

「はい。二〇〇九年の例では、動物の皮を使用した太鼓を使うイベントがあり、そのイベントに参加していた女性が発症しています。この例では、汚染されていた太鼓を叩くことで皮に付着していた炭疽菌の胞子がエアロゾル化したものを吸入して、消化器炭疽、――腸炭疽を発症したと考えられています。

「太鼓か、…」

「はい。他にも獣皮を用いた太鼓を製作する職人が発症した例など、数例がありますが、腸炭疽を発症する例は珍しいようですね」

「今回は、その例と似ていたという訳か」

「お陰で助かりました。常在地での感染では、獣皮、肉等への接触はやはり危険を伴うということです。しかし、獣皮からの感染は主に皮膚炭疽になることが多いですから、喫食のない彼女の場合は何が原因かと思いましたが、早く同定出来てよかったです」

微笑む神尾に、滝岡が大きく伸びをしてうなずく。

両手を組んで軽くストレッチをして。

首を軽く捻って、組んだ両手を足に着けて。

「お疲れさまです」

「ん?…ああ、いや、―――何とか、切除して落ち着いたからな。後で、その二〇〇九年の症例を教えてくれ。経過が知りたい」

手術で穿孔していた腸を切除して、いまは安定している状態の患者を思い返しながらいう滝岡に。

「はい。その患者なら、腸切除後に容体は安定したという報告があります。もう少し調べてみますね」

「すまん。ありがとう、神尾」

「いえ」

微笑んで神尾がいう。複雑で繊細な手術を終えた滝岡が着替え終わって息を吐くのを見守って。

 ――大変ですね。

それを大変だとは思わないんでしょうけれど、と。

微笑んでみている神尾に、訝しんで滝岡が振り向く。

「どうした?何かついてるか?」

「…いえ、大変でしたでしょう。感染の危険が大きい上に、炭疽病による二次感染を防ぎながら穿孔した腸を切除されるのは」

「―――いや、大変なのは患者さんだ。…感染に関しては、抗菌剤の防御的投与もされている中での手術だからな。そう大したことじゃない。通常の感染で穴が開いたときと一緒だ。腸は元々感染しやすいが、それをどうにかするのもな」

穏やかに微笑んで、淡々という滝岡が実際にしていることを考えると。

 ――光さんが天才といわれていますけど、実際にはこの人もかなり、…。

絶対に認めないでしょうけど、と思いながら

「光さんが、滝岡さんにこちらへ執刀に行くようにいわれたんですか?」

「…――ああ、問い合わせがあって、炭疽菌による腸炭疽で腸穿孔した場合の執刀に関して、アドバイスを求められた光が、おれが向いてると、だから行かせると返答したらしいんだ」

実際には、こちらの方達でも大丈夫だと思うんだがな、と困った風に滝岡が云うのに。

「でも、光さんの判断だから従われた訳ですか?」

少し面白そうに訊く神尾に滝岡が眉を寄せる。ネクタイを締め直して。

「おまえな、…?まあ、光がいうからには根拠があるからな。いつも割と突拍子もないことをいうんだが、…今回の症例にはおれが向いてると思ったんだろう。最近も、あの子の食中毒のときも、おれが担当したからな。」

食中毒から腸重積を起こし一部を切除する必要のあった子供の患者のことを思い返しながら滝岡がくちにする。

「そうでしたね」

「ああ」

穏やかに滝岡がいって、神尾を見直していう。

「ありがとう」

「何がです?」

「いや、忙しいのに、炭疽菌の感染源を同定してくれて。助かった」

穏やかに微笑む滝岡に困って神尾が視線を逸らす。

「あのですね、…?」

「何か食わないか?飯くいにいこう。腹が減った」

鞄を手に取り、滝岡が神尾に顔を寄せて云うのに。

「僕は食べられませんよ?」

「おまえは、おれの顔をみて寝るが、どうもおれの方は反射的に食い物を連想するみたいだな」

「…滝岡さん!」

からかうようにいって笑う滝岡に神尾が怒ってみせて。

 それから。

「じゃあ、何か食べにいきますか?何か作れないのは残念ですけど」

「それはおれも残念だがな。」

神尾が微笑んでいうのに、滝岡が実に残念そうな顔になって。それに神尾が笑うから。

「おい!…まあいいが、…ともかく、秋田というのは、何が食べられるんだ?」

「名物ですか?よく知りませんが、…そうですね」

「まあ、感染の危険が少ないものにしてくれ」

「…――滝岡さん」

「何だ?」

歩きながら見返す滝岡に。

「…はい、わかりました」

少し笑って神尾が前を向いて。

それに。

「おまえな、…?」

「はい、なんですか?」

「いや、…あのな?」

「はい」

楽しげに応える神尾と、むっ、と少し困りながら神尾の顔を覗き込んで眉を大きく寄せる滝岡と。

 何はともあれ、いまは一刻の休憩を。



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