鳥影 10

 二十五



 滝岡が着替える為に一度案内された当直室に荷物を置き、コートと上着等をロッカーにおいて着替えるのに着いてきて神尾が問う。

「確認したいんですが、まず、何故炭疽病だと疑われたんでしょう?既に炭疽病という前提で治療は開始しているんですね?」

「そのようだ。抗菌薬投与は確定していないが既に行っている。既に腸に穴が開いていて、その対処法と併せて光に問い合わせがあってな」

「光さんに、それで?」

手術着に着替えて、滝岡がロッカーを閉め鞄から、ハードケースを取り出していう。

「光がおまえの残していったマニュアルを参考にして指示したらしくてな」

そうして少し微笑む滝岡に驚いて神尾が見あげる。

「…僕の、マニュアル、ですか?」

「そうだ、記憶にないか?おまえに作ってもらったろう」

「ええと、あの、あれですか?でも、…」

 院内感染等に対する防疫マニュアルのようなものを、確かに作った気はしますが、…と。

 輸入感染症やその他に備えて、参考になる資料を作ってほしい、といわれて滝岡に叩き台にしてください、といって確かにそのようなマニュアルの基は渡した記憶があるのだが。

 ――それを、…?

と、戸惑っている神尾を面白そうに滝岡が見て、ケースを手に当直室を出る。それに着いていきながら。

「付き添いの彼女、崎沢さんか?が着ていた服を全て一度消毒に出して、かわいそうだが病衣に着替えてもらったそうだ。必要はないかもしれんが、彼女もいまは個室にいてもらっている」

「…―――ええと、その、はい」

何か、そういうのを作った気がします、と天井を眺めてみている神尾に滝岡が笑んで。

「それから、炭疽病を疑ったのは光だ。」

穏やかにいう滝岡に驚いて神尾が見返す。

「光さんが?」

「あれでも一応医者だからな?…まあ、最初に意見を聞かれたそうなんだ。ここに患者さんが来たとき、最初に診たのが光が教えたことがある人でな。旅行地などから、光に問い合わせたらしい」

廊下を大股に歩きながらいう滝岡に完全に驚いて神尾が瞬く。

「光さん、…」

「アメリカで一度、同じような症例を診たことがあるらしい。手術したそうだ。」

「――はい、あの、それで、…」

「検出法とか何とか、そういうのはよく解らんが、その辺りはおまえの方が良く解るだろう?」

滝岡が神尾が手にしている資料を見て云うのにうなずく。

「はい、それで、…―――しかし、幸運でしたね。それで必要な抗菌剤投与が。よかった」

ほっとしたようにいう神尾に微笑む。

 炭疽病は急激に進行する例が多く何よりも初期に抗菌剤を大量に投与する必要があるとされている。有効な抗菌剤を判断し初期に大量投与を決断できる材料があるかどうかが、患者を救命できるかどうかに関わってくる。

 何よりも、正確で迅速な診断が重要となる。投与が遅れた、もしくは有効でない抗菌剤を使用した例では死亡例が報告されている。 

「その通りだ。後は、手術だな。これが上手くいけば、救命できる確率があがる。それと、神尾」

「はい」

見返す神尾に、滝岡がしっかりと見つめてくちにする。

「おれはこれから手術に入る。おまえは、その目で見て患者さんの状態を把握してくれ。それと、…――――」

滝岡が言葉を切る。

手術室へ入る前の区画――二重扉の前で。

 静かに神尾を見て。

「神尾、光が云うには、旅行中に感染したにしては、日数があわないそうだ」

滝岡の言葉に神尾が真顔になる。

「ええ、その通りです。…つまり、――――」

「つまり、患者さんが感染したのは、国内でということになる」

「…―――――」

無言で見返す神尾に、滝岡がうなずく。

「頼む、感染源を見つけてくれ。」

「解りました」

無言で滝岡がうなずき、穏やかに笑んで手術室への扉を潜っていく。

 ―――…滝岡さん、…――。

その背を見送りながら。


 ――そう、日数が合わない。

 炭疽病の潜伏期間は一日から七日。

 帰国して既に一週間。

 出国数日前に感染したとすれば合わないことはないが。

 ――症状が出たのが、三日前とすれば。

 経過をみると急激な発症、…。

 これは、と。

「それにしても」

 手にした資料を困ったように見つめる。

 神尾が見るのは、どうやら恐らくいまの話では光の指示で作成された資料なのだろう。

「…ええと、―――」

手許にあるのは、発症した彼女が旅行先から持ち帰ってきたと思われる荷物と、それらが置かれている現状の写真で。

 全ての品物が透明の袋に入れられてシールされていて、万が一感染源だとしても大丈夫なように――つまり、封印されている。

 他の写真では、その荷物が置かれた部屋までがシールされているのが写っていて。

 ――…徹底してますね、…―――。

僕も、ここまでマニュアルで指定はしていなかったと思うんですが、と。

 ――光さんの指示というなら、CDCのマニュアルに従ったのかな、…。

CDC、アメリカの感染症を管理する機関での感染症対策マニュアルにでもありそうな、徹底した防御対策に沿ってどうやら処理されている荷物を見ながら。

 ――でも、有り難いことですよね。

それに、もしこれらのどれかが炭疽菌に汚染されているのなら、オートクレーブや何かで処理しなくてはいけませんから、汚染が広がらないようにこうした処置をしてくださってあるのは有り難いことですけど、と。

 どうやら、民俗学を研究しているという、その研究室に運ばれていた荷物ごと、部屋が封印されているらしいのを資料の写真からみながら。

「…ええと、これは、…――――」

随分と徹底した光の指示で行われたらしい封印された荷物や部屋の写真をみていた神尾が

 ――もしかして、…―――。

資料の中にある一つの荷物に気付いて、神尾がタブレットを取り出して確認を始める。



 二十六



「二〇〇九年、ニューハンプシャー州で太鼓演奏イベントが行われた事はご存じですか?」

「…はい?いえ、いいえ、…知りません、それは?」

戸惑って見返す崎沢に、にっこりと神尾が微笑む。タブレットを膝に置いて、崎沢に呼び出した画像を見せる。

 シールされた一つの品物が映る画面。

「…それは、…水鳥の?」

「はい、水鳥さんが旅行先で購入されて持ち帰られた荷物の中にありました。これに見覚えがありますね?」

「…はい、演奏を水鳥が見に行って気に入ったと、現地の方に無理をいって交渉して貰って帰ってきたんです。わたしは別行動をしていて、調査したい対象が別れたので、単独行動しようって、―――…これが?」

不思議そうにみていう崎沢に、にっこりと神尾が見返して。

「感染源です」

「…え?これ、が?この、…――太鼓が、ですか?」

 画面に映るのは民族楽器である動物の毛などの装飾がついた太鼓。細長い楕円形の筒型の太鼓は、カラフルで見事な紋様に装飾された見事なものだが。

 戸惑う崎沢に、神尾が穏やかに微笑む。

「これが感染源でした。水鳥さんは、この太鼓を叩くことによって発生するエアロゾルを吸い込んで発症したんです」

「…――――」

茫然と見返す崎沢が、言葉をなくして神尾を見ると。

 もう一度、民族楽器の太鼓を映した画面をみなおして

「…――こ、この太鼓から、…?でも、どうして?」

訊ねる崎沢に、神尾が。

「はい。この太鼓に使われている革が、問題だったんです」

驚いてみている崎沢に神尾が丁寧に説明を始める。



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