鳥影 9

 二十一



「すまんな、おまえ、そういえば移動中に決まった話は本当に聞いていないんだな?」

おかしそうにいう滝岡に、神尾が眉を寄せて見返す。

「人が悪いですよ?…すみません、本当に寝てました。…」

「いや、…人の顔をみるなり、寝なくてもいいと思うんだが」

楽しそうに笑いながらいう滝岡に複雑な顔をして神尾が横を見る。

 ――元々、不眠症で滝岡さんを枕代わりにしたら眠れるようになって、…。確かにこの秋田へ来てから、やはり眠れなかったですが、…。もう滝岡さんの顔をみると条件反射的に眠れるようになっているんでしょうか、…。

ちょっとそれはどうなんでしょう、と思わずも無言になりながら神尾が、何ていえばいいのか解りませんね、と困っていると。

 そんなことには少しも構わず、滝岡があっさりという。

「寝不足が解消できたならよかったじゃないか。それより、ここへ呼ばれた用なんだが」

「はい」

顔を向ける神尾に、歩きながら滝岡が。

「おまえ達が鳥インフルの調査をしているという話だが、こちらは、―――」

「それは」

滝岡の話を聞いて神尾が驚きと共に顔を引き締める。

「解りました、それで急いでこちらへ来られたんですね」

「ああ、…。患者さんの方を移送する訳にはいかなかったからな。おまえがいることも解っていたから、悪いが事前相談なしに協力して貰おうと思って巻き込んだ。すまん」

早足で歩きながらいう滝岡に、神尾も自然と足を速めながらいう。

「いえ、巻き込んでくださって結構です。それで、患者さんは?」

「こちらだ、…――――」

早足で構内の廊下を曲がり、滝岡が云うと足を留める。神尾もまた、その隣で部屋に掲げられたサインに無言になる。


 関係者以外立ち入り禁止――そして。

 鮮やかな黄色と黒のサインは国際的にも共通の危険を示す禁止マークだ。

 バイオ・ハザード。

 生物学的危険を示すマーク。

 それが、数枚の扉を隔てた陰圧室を前に、立ち入り禁止のテープと共にその場所を隔てていた。



 二十二



 炭疽病。

 炭疽菌により発症する人獣共通感染症。

 病型は三種類。未治療の場合の致死率はそれぞれ、

皮膚炭疽、十~二十%。

腸炭疽、二十五~五十%。

肺炭疽九十%以上とされる。

テロ等に使用される危険性があるとされていて、二〇〇一年に米国で郵便物によるテロ事件が発生している。



 院内の廊下を急ぎ足で歩きながら、滝岡が云う。

「とりあえず、確定診断前だから予防処置として、陰圧室で患者さんを管理しているそうだ」

滝岡が早足で歩きながら、バイオハザードで隔離された一角から移動していく隣で神尾が訊ねる。

「炭疽病との話ですが、腸炭疽ですか?珍しいですね」

「その通りだ。日本での発生は、もう随分無いと聞いているが」

「はい、炭疽病のヒト発生は、一九九四年以来日本ではありません。動物でも牛が二〇〇〇年に二頭発生したのが最後です。今回、患者さんは日本で発症したんですか?それとも、」

「それなんだが、どうも中央アジアを旅行していて、帰国後に発症したらしい。食中毒を思わせる症状で受診後、腹水等があって、現在手術が必要な状況だ」

「それで来られたんですか」

滝岡が軽くうなずく。

視線を前に置いて。

「ここか、…――問い合わせが光にあってな。おまえが、以前俺達と食中毒で診た件があったろう?」

「…――あれですか?」

「そうだ、あれの件があって、問い合わせがうちに来た。…失礼します」

滝岡が神尾の問いに答えながら、秋田大学病院医局の扉を開く。



 二十三



「滝岡総合病院から参りました、滝岡です」

「――こちらへ、お待ちしてました」

外科医の制服らしい薄青の衣服を着た男が滝岡を迎え入れて、急いで中へと連れて行く。左手に持っているのはカルテだろうか。

「患者は民俗学の研究で中央アジアに旅行してまして、帰国後に大学に戻ってから具合が悪くなり、当病院を受診しました」

既に、楕円形の白いテーブルを囲むようにして幾人ものスタッフが待ち受けている室内を神尾が見渡す。

 その神尾を、先導した薄青の衣服を着た男が見て云う。

「神尾先生ですね?感染経路を特定してほしいんです。症状からみると腸炭疽なんですが、一体どうして、―――」

「落ち着いてください、遠藤先生」

早口で話し始める遠藤に、滝岡が穏やかに話し掛ける。

 それに驚いたように遠藤が見返して、あ、とくちをあける。

「…すみません、申し遅れました、遠藤といいます。――」

絶句している遠藤に神尾がにっこりと微笑んで。

「初めまして。遠藤先生、もしかして、滝岡総合病院の遠藤先生と?」

「あ、…はい、親戚です」

「そうですか。遠藤先生にはいつもお世話になっています。それで、僕に感染経路を特定してほしいんですね?」

「…はい、ええと、あの、」

慌てている遠藤医師に滝岡が穏やかに神尾に云う。

「遠藤先生がうちに勤務していることからも話があってな。そして、患者さんはいま聞いた通り、中央アジアを旅行後に発症したんだが」

「――はい、中央アジアは炭疽病の常在地ですね。現地の自然土壌の中に炭疽菌が存在しますから、常に感染の危険はありますが、…。腸炭疽では普通感染した動物の肉などを飲食したことで感染が起こりますが、――」

言葉を切って訊ねるように見る神尾に滝岡がうなずく。

「そうらしいな。だが、この患者は現地でそうした飲食を行っていないそうなんだ」

「飲食していない、――ですか?肉だけでなく、例えばミルク等でも感染の危険はありますが、それもないんですか?」

「ああ、そうだ、…―――」

滝岡が別のスタッフから手渡された現在の患者のバイタルデータを示すタブレットを見ながら応える。

 それをみて、神尾が楕円テーブルの周囲に立つスタッフに視線を向けて。

「どなたか、患者さんに関してご説明いただける方はいますか?資料などは」

滝岡がこれから手術に入る患者のデータを読み取るのに、隣でにっこりと周囲を微笑んでみて神尾が云う。

 それに、遠藤医師が慌てて資料を手渡す。

「すみません、これが資料です。僕は、滝岡先生に説明をしなくてはならないので、…――崎沢さん、」

「水鳥と同じ研究室の崎沢です」

一人、医療スタッフとは異なる、おそらく入院患者が支給される病衣を着た女性がどこか不安気に頭を下げるのに、神尾が柔らかく微笑む。

「大丈夫ですよ。神尾です。よろしくお願いします。まず、どうして患者さん、水鳥さんですか?が、現地で感染可能性のあるものを飲食していないと思われるんでしょうか?」

穏やかにゆっくりと目を見て訊ねる神尾に、ほっとしたように崎沢の肩から力が抜けて、大きく息を吐く。

 どこかそれでも泣きそうになりながら、崎沢が神尾の前に移動してくちにしていた。

「水鳥は、菜食主義者なんです。変った子なんですけど、食事はけして動物性のものはくちにしなくて」

「―――そうですか」

神尾が真剣に黒瞳を据えるようにして、崎沢を見直す。

「では、幾つか質問に答えてもらえますか?後、その資料を僕にももらえますか?」

遠藤が滝岡に患者の現在の状況について深刻な表情で伝えている。その周りにいるスタッフに、どうやら遠藤医師に渡されたのと別の資料が配られているのをみて頼む神尾に、一人が資料を手渡す。

「ありがとうございます」

既に滝岡が手術の手順を確認しはじめているのを横に、神尾が崎沢を誘って、手近にあった椅子に座らせて向かい合う。



 二十四



 神尾が資料に軽く目を通し、改めて崎沢に向き直る。

「ご心配ですね」

「はい、…あの、」

「大丈夫です。それでは、僕の質問に答えてもらえますか?まず、ご旅行はいつからいつまで?」

「はい、先月七日から二十七日まで、帰国してから、もう一週間くらいになります」

「――…それで、具合が悪くなられたのはいつからですか?」

「三日前です。急に調子が悪くなって、…旅行した後だから、食中毒とか何か悪いものでももらってきたんじゃ、といってたんですけど、唯、その、…」

「はい」

穏やかにみる神尾に、一度口籠もっていた崎沢が一気に話し出す。

「…その、あの子、現地で水一つ飲んでないんです。その、変ってると思われるでしょうけど、菜食主義とか色々あって、…――水も全部持っていって、ケースで。食事は携帯食とか、全部持ち込んでて」

「それは、…随分大きな荷物だったでしょう」

思わず驚いて神尾が黒瞳を丸くして首を傾げると。

 その仕草にか。

「はい、…あの、はい。おかしな子なんです、けど、だから、…食中毒とかそういうのにだけは、」

思わずも泣き笑うようにして、崎沢がいうのに神尾が穏やかにいう。

「そうですね。それなのに、水鳥さんがお腹を壊して、不安だったでしょう。」

「…はい、あの、それにその、…炭疽病とかっていわれて、―――そんな怖い病気にどうして水鳥が、」

脅えている崎沢に、神尾が少し同情するようにみて、ひとつうなずく。

「こわいですよね」

「―――…はい、」

泣きそうになる崎沢に神尾がうなずく。

「当然です。こわくて。大丈夫です。僕は感染症専門医ですから、何故、水鳥さんがこの病気になったのか、必ず明らかにします。――あなたは、一緒に旅行されたんですね?崎沢さん」

「…はい、あの、…はい、そうなんです、――わたし、あの、…」

言葉にならずに泣き出してしまった崎沢を前に、神尾が穏やかに微笑んで。

「大丈夫、まず、炭疽病は人から人には移りません。感染の原因がはっきりすれば、あなたにも危険があるかどうかもはっきりします。僕がはっきりさせますから」

穏やかに淡々と、けれど温かく確信をもっていう神尾に。

「…――――はい、その、…先生、はい、…――」

涙に崩れて、それでも何とか笑おうとする崎沢に神尾がうなずく。



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