鳥影 6
九
潟には水鳥が自然豊かな中に何事も無いかのように羽根をやすめている。あるいは空を飛び、対岸にあるなだらかな樹々の繁る山麗に飛び立っていく。
「美しい光景ですね」
園内の潟に近く眺めることのできる桟橋を渡りながら足を留めて神尾が夕景に近く暮れ始めている空の写る潟を眺めながら言葉にする。
「確かになあ、きれいなもんだ。トキに異常がないのはありがたいな」
「そうですね、…。吉岡さん、検体はやはり、すべての鳥類とあとはこれらの檻にいる動物達にというのはどうでしょう」
神尾が案内図と飼育動物リストをみせていうのに、吉岡が溜息を吐く。
「簡単にいうな。…――それと弱っている様子が見えた動物にだな、…」
「同じ舎にいた鳥類はダメでしょうね」
淡々と視線を水面に映してくちにする神尾に、吉岡が頷く。
「全鳥類になるかもしれん」
「…―――それは」
神尾が哀しむような、問い掛けるような視線を向けるのに顔を向けず、欄干に手をついて潟と山陰をみながら吉岡が云う。
「仕方ない。…見て回ったが、施設が全部近い。野鳥が近付かないようにするにしても、すでに感染が出ている以上はな」
難しくくちを結んで堅い口調でいう吉岡の背をみながら、神尾が思わしげに小さく息を吐く。
「仕方ありませんか」
「…強毒性だと解れば、仕方がない。しばらくしたら、結果が出る」
堅く痛みを堪えるような吉岡の背に、神尾が視線をリストに移してから、空をみる。
――鳥が、…。
黒く影となり空を飛ぶ鳥は、あれは渡り鳥だろうか。遠くへと姿を消す鳥の影を追うようにみながら、神尾は言葉も無く佇んでいた。
十
「殺処分を行おうと考えています」
「結論はまだですよ?」
管理事務所に戻り、先の大森が調査から戻ったかれらを迎えていうのに、思わずも神尾が訊ねる。
驚いて訊ねる神尾に、大森の後ろから出て来た初老の人物が応える。
「園長の箕田です。県や市とも話してきましたが、陽性であった以上、強毒性の鑑定が確定する前に、園内の飼育鳥類を殺処分する方向でいくことになりました」
「…そうですか、…。」
絶句する神尾に、園長が神尾と同じく衝撃を受けている朝川と但野をみて、無言でいる吉岡に視線を移す。
「吉岡さん、御世話になります。結果は勿論、教えてください。しかし、結果がわからなくても園には責任があります。…ここは野鳥も近い。こちらの鳥達が原因となって、渡り鳥だけでなく他の野鳥に感染する危険もあります。養鶏場などへ与える影響を考えれば、これから約一週間、強毒性かどうかの結果がわかるまで待つことはできません」
「大森さん、…」
園長の言葉を黙って俯いて聞いている大森に、神尾が声を掛ける。それにはっとしたように視線を上げて、くちびるを咬み涙を浮かべかけていたことを誤魔化すように大森が幾度か頷く。
「いえ、大丈夫、…仕方ないことです。感染が園に留まるのなら、…―――」
言葉が途切れて、ぐっとくちを咬んで泣くのを堪える大森に園長の箕田が肩に手を置く。
「すまんな。農政とも話をして、決まった方針だ。危険度の高い鳥類と発症した舎の鳥類と隣接した舎の鳥類はすべて、仕方がない。すまんな、大森くん」
穏やかにかなしみを堪えるようにいう園長に、大森が不意に拳でぐっと乱暴に顔をこするようにして踵を返す。
「…――すみませんっ、…」
早足で逃げるように部屋の後方にある扉を出て行く大森を、園長の箕田が痛ましげに見送る。
「すみませんな、…。しばらくしたら落ち着くでしょうから」
鳥類飼育担当である大森が消えた扉を見守るようにしながら、穏やかに柔らかな声で小柄で痩せた箕田がいうのに、吉岡が首を振る。
「構いません。…結果が出る前にというのは、…なおつらいでしょう」
どこか吉岡もまた涙を堪えるようにしていうのに、箕田が気が付いたようにして振り向く。
あらためて吉岡をみて。
「解っていただけると助かります。心を尽くして育ててきた鳥達ですから、―――」
溜息に紛れるように園長が言葉を途切れさせ、朝川と但野が大森が消えた扉を言葉もなく見つめる。
十一
「明日は、動物達からの検体の採取ですね」
「それにしても、殺処分か、…」
朝川がホテルに帰る車の中で落ち込んだ声でいうのに、但野が暗い声で応える。
「結果出る前に処分するのか、…」
ぼそりと続ける但野に朝川が大きく息を吐いて天井を睨む。動物園の職員が送ってくれることとなって乗った大型バンの後部座席に落ち込んでいる研究員達に神尾が声を掛ける。
「仕方がありません。簡易検査で陽性と出ている以上、検査結果が出るのをまっていては、一週間という時間のロスが出ますからね」
穏やかに淡々という神尾に、大きく息を吐いて助手席に座っている吉岡が口を挟む。
「こちらの人達が一番つらいんだ。それでも、此処から感染を広げちゃいけない、その目的の為に、やってくれるんだ。―――おれたちは明日、だからその気持ちに応えられるように、しっかり検体を取って、漏れがないようにしなくちゃならん。感染拡大を防ぐ為には、しっかりしなくちゃならんぞ」
「はい、吉岡さん」
「…――はい」
吉岡の言葉に朝川達がうなずく。それを、穏やかに静かに神尾が若いかれらの様子を見つめて。
車は、冬のはやく暮れた夜の中を影のように街中へと走っていく。
十二
ロビーを歩いていた神尾は、暗い夜空をホテルの硝子扉越しに眺めるように立つ吉岡に気付いて足を止めていた。
「吉岡さん」
「神尾」
無言でロビーのソファに移動する吉岡の向かいに神尾が座る。しばし、無言でうなだれて手許を見るようにしている吉岡に何もいわずに神尾が付き合っていると。
手をくるりと返して、掌と甲をくらべるようにしながら、吉岡が困ったように云う。
「煙草やめちまったら手持無沙汰でな。…困ったもんだ」
ぼそりといってから、無言でしばらく己の手を眺めて、ふいに吉岡が顔を上げる。
「…おまえさん、範囲が広いかもしれないといってたな、いつものシーズンより」
突然真顔で見詰めてくる吉岡に、神尾が向き直り、答えかけて一度考えるように沈黙して視線を伏せて。
「根拠はありません。唯の勘です。唯、よくお解りのことと思いますが、感染が発見されるにしても、いつもより少し季節的に早くても早すぎる訳ではありませんが、――ですが大陸で」
「いつにない大流行だな、…―――しかも、」
「この夏は大陸で鳥類に大規模な感染があったと思われます。当然、こちらへ来る個体にも、感染している可能性が高いものが多くなります」
神尾が言葉を切る。
「それと、不確定ですが、大陸では一月から五月にかけて、数名の死者が出ています」
「全部中国だな。だがどれもまだ鳥と濃厚な接触をしていて、という例で、ヒトーヒト感染する変異は出てないな」
「はい、その通りです。最初の報告から三年目でいまの処一六例、内一三例までは追跡がほぼできていて、おっしゃる通り鳥との濃厚な接触がありました」
ヒトーヒト感染、つまりは、鳥から人への濃厚な接触により感染するのではなく、人から人へ感染するようになること――鳥から人に感染した場合に致死率が高い鳥インフルエンザの恐れられている変異――がまだ起きてはいないことを確認しながら。
神尾の言葉を噛み締めるように吉岡が沈黙する。
「つまり、で…神尾。おまえさんが感染がいつもより広範囲に広がりそうだと思う根拠は何だ?やはり唯の勘か?」
「…――はっきりとした数値的根拠はありませんからね、…。唯、…―――」
少し視線を伏せて云い澱んで、神尾が軽く溜息を吐く。
「ある人に、…いわれました。勘を大事にしろと。…」
「勘をか」
顔をあげてじっと見てくる吉岡に、視線を伏せたまま微苦笑を零して。
「いえ、何をいまさらといわれるでしょうが、…。僕もどうしようとは思ったんですが、…。こちらへ来るのに、背中を押してくれた方がいまして」
「そいつあ、…おまえさんの背中押したら、暴走し放題だろうに」
驚きあきれた風でいう吉岡に、神尾が苦笑して視線をあげていう。
「ひどいですね?まあ、自覚はありますけど」
「…自覚あんのがおまえさんのひどい処だよなあ、…で?」
促す吉岡に苦笑して、軽く息を吐く。
「その人は、僕のいまの出向先の人なんですが。…随分と変わった人で。…その人が、いってくれたんです。…医者ならば、己の勘は大事にするべきだと」
神尾の言葉に吉岡が沈黙して繰り返す。
「…医者なら、か」
ひとつ深くうなずいて、神尾が視線を伏せる。
「医者なら、です。…自然に対して人は解っていないことの方が多いのだから、何か言葉にならないそんな勘があるなら、無視するなと。…勘に従えといってくれたんです。…妙な人ですよ」
微苦笑を零していう神尾に、あきれて吉岡がソファの背に大きく凭れかかる。
「おまえさんがねえ、…。そういうってことは、随分と変人なんだろうな?」
驚いて大きく目をひらいていってみせる吉岡に神尾が笑む。
「ひどいですね、僕がいっても、…――確かに、おかしな人ですけど」
「同意するなよ」
顔をしかめていう吉岡が、大きく伸びをして立ち上がるのを神尾が見あげる。
「わかった、とにかく明日は頼む。じゃあな」
「…―――ええ、よろしくお願いします」
首をひねりながら歩いていく吉岡の背を見送って。
――さて、と、…。
神尾が、夜のロビーで硝子越しに夜に染まる空を見つめる。
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