鳥影 2


 二



 滝岡を見あげて猛抗議している永瀬に、滝岡が思わずも少し下がっている。永瀬も背が低くはないが、滝岡の方が背が高い。その滝岡を押し込むように壁際に追い詰めながら、手に持っている昆布茶のマグカップを握りしめる。

「えーっ、…それで、神尾ちゃん、行かせちゃったの?あの?滝岡ちゃん?おまえ、自分がいってること解ってる?神尾ちゃん無しでいまからこの瞬間から回せって云うの?理解してる?おまえ、わかってる?滝岡ちゃん?」

「…先輩、わかってます、――いえ、すみません。ですが、あの神尾を病院に戻しても」

「――そりゃさ、そうだけどさ、…そうだけど?病理の辰野ちゃんが死ぬよ?臨床だって、…――いまICUと集中管理を廻してるローテに、遺伝子診断室、他にもだから」

滝岡総合病院の外科の医局と他所ではいわれるオフィス。そこで、白衣を着た滝岡と永瀬が向き合って。

休憩に来ていた永瀬が、のんびりとこぶ茶を飲もうとマグカップをスプーンで掻き回していたときに入ってきた滝岡が、秘書の西野にいった発言。

「しばらく神尾を感染研の仕事に戻すから、それでスケジュールを組んでくれ」

西野が何か答える前に。

「…神尾ちゃん、感染研戻っちゃうの?いま?」

目を剥いて、永瀬が思わず確かめて。

そしていま、永瀬が猛抗議しているのだが。


困って追い詰められながら、それでも滝岡が何とか神尾の状態を説明していたのだが。


 集中管理室等の慎重な管理を常に必要とする患者を専門にする医師である永瀬が、神尾の不在を嘆くのに滝岡が思わずも眉を寄せる。

「…―――感染研からの出向の神尾に、それだけ仕事を廻してしまっているのもまずい状態ですが」

そう呟くようにいう滝岡に、滝岡程ではないが、一応背は高い方だが姿勢が悪い為にそれほど高く見えない永瀬が頤を突き出してうなって迫る。

「まずいって!いまさら何いってんの!神尾ちゃんが出向なのは理解してるけど、いま、ここ!に患者さんが!―――少なくとも病理の分析、感染系は全部神尾ちゃんに任せてたでしょ?それに、おれのとこだって!集中管理に神尾ちゃんいないと困るって!」

顔色の悪い無精ひげが蒼く浮き出ている永瀬が迫るのに、滝岡がひとつ口を結ぶ。

「ですが、神尾が来る前は、神尾なしでやっていたんです。いまでも回すことはできるでしょう?」

「勿論できるよ?できるけど!滝岡も知ってるだろ?神尾ちゃんの診断はいっつも的確なんだから!患者さんの為によりベストをっていうのなら、神尾ちゃん居た方がいーのはわかってるだろ!」

「…わかってます、――すみません」

「あやまるなよー」

項垂れる滝岡に、永瀬がうつむいて肩を落とす。

「…神尾ちゃーん。マジな話、神尾ちゃんがいなきゃ廻らないとはいわないけどさ、神尾ちゃんがいるのといないのとじゃ、診断の確度と速さがダンチの違いよ?神尾ちゃん一号がいるのといないのとじゃ、…神尾ちゃんの弟子も、そりゃちゃんと育ててはくれてるけどさ」

情けない顔でくちを結んでつぶやくようにいう永瀬に滝岡が肩を落とす。

「すみません、…しかし、あの状態の神尾を病院へ来させても、―――何より、あいつは元々感染研の人間で、感染症が専門の人間です。確かに患者さんの為にはいてほしい人材ですが、―――いまは」

永瀬が滝岡を見直す。

「鳥インフルエンザだって?」

「――はい。その防疫が必要だとしたら、あいつはそちらに必要な人材です」

穏やかに、しかしはっきりと云い切る滝岡に永瀬が天を仰ぐ。

「まーな、…そりゃそーだけどさあ、滝岡ちゃん」

「はい、――」

じと、と永瀬が滝岡を半ば背を向けてみて。昆布茶を手にマグカップにスプーンをくるくる回しながらじっとりと永瀬がいう。

「でもさー、神尾ちゃんがうちに欠かせない人材になっちゃってるのは理解してるよね?滝岡院長代理?」

「…――その職責はいつでも喜んで先輩に差し上げます」

「おれに寄越してどーすんの、おれに。おれ、そんな面倒なことしらないもーん」

「…先輩、――西野?」

しっかりと目が据わっている西野に、滝岡が思わず下がる。

「…西野?」

「神尾さん、どの位で戻られるんですか?御予定は?いつまでなんです?」

完全に目が据わっている西野の迫力に下がろうとして滝岡が後ろにいた永瀬につかえる。

 永瀬が楽しそうに意地悪く見あげてみせるのに。

「…先輩、…西野、神尾のスケジュール変更は、―…難しいか?―――…難しいんだな」

「…――――」

無言で見返す西野に、滝岡が言葉を無くして見つめ返す。

 身長は滝岡よりは低いが高い方で、だが童顔で割と普段は優しげにみえる西野だが。

 にっこり、と西野が滝岡に向かって微笑む。

「滝岡先生」

「…――西野」

言葉を継ぐ前に、無言で西野が踵を返し、背を向けて手にしていたタブレットとデスクに置かれたPCを操作しはじめるのに滝岡が息を呑む。

「あーあ、しーらないっと。滝岡総合病院一の実力者の西野ちゃん怒らせちゃったー!」

楽しげにからかうようにいう永瀬に、滝岡が詰まる。

「…怒らせては、…西野、怒ったのか?」

ちなみに、滝岡総合病院全てを管理するコンピュータ・システムとプログラムを作成した西野を怒らせたら、申請書類一つ作成できないといわれている。

 その西野が、表情を消して無言になり、忙しく動き始めているのに。

 ちら、と永瀬が昆布茶を飲み終わって、ぽん、と滝岡の肩に手をおく。

「…――滝岡ちゃん」

「はい」

「がんばれよ」

「―――ありがとうございます、…」

明るくかるーく永瀬がうんうん、と頷きながらいって去って行くのに、背を向けたまま滝岡がぼんやりと礼をいう。

 哀愁が漂う滝岡の背に、永瀬がひらり、と手を振って。

滝岡総合病院外科オフィス。外科医であり、滝岡総合病院院長代理でもある滝岡正義は、西野と二人取り残されてしみじみと佇んでいた。――――


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