First Contact 鳥影
TSUKASA・T
鳥影 1
鳥影
―――鳥影射すと来客至る。
―――北海道の病院でインフルエンザの院内感染による死者が四名発生しました。病院内での感染者は、三十二名に上っており、病院では感染の原因を調査中、―――――。
鳥影
一
横浜にある古い煉瓦造りの洋館。その一角で、朝食の席に就いた滝岡正義は、眉を寄せて実に微妙な表情をしていた。
外は晴れというには微妙な曇り空だが、それは二階から降りてテーブルに着こうとして動きを止めた滝岡の表情とは関係がない。長身の滝岡が、朝の軽い運動を済ませて着替え、いつもの通り、同居人である神尾が作ってくれている朝食を楽しみに食事の席に着こうとしたのだが。
薄青にラベンダーの刺繍がされたテーブルクロスが掛かっている古いテーブルに並べられた皿に滝岡がしみじみと視線を向ける。
「…―――神尾、…どうした、…何があった?」
複雑な表情をしてみるのは、滝岡が向かうテーブルの上に置かれた一皿だ。
見事な絵画でもあるような、…。
―――多分、これはデザートというものだな。
極真剣に真面目に眉を寄せてみて考えるのが、食に関する滝岡の限界だが。滝岡がみる限り、その一皿はドレスコードの必要なレストラン等で出される類のデザートにみえる。
四角いプレートに載るのは、滝岡には理解できていないが、高級チョコレートを滑らかに溶かし上にかけた美しい表面をもつ小さな円筒形のムース。その中にはフランボワーズのリキュールを使い、ラズベリーとフランボワーズのムースを二層にして間にアーモンドムースを挟んでいる。黒く艶光る美しいチョコレートムースの周囲には黒いチョコレートと赤いフランボワーズソースで芸術的に模様が描かれていて、処々に生のフランボワーズとラズベリーにブルーベリーが美しく飾られている。
「…――――神尾」
真剣にその高級レストランのデザートとして出てきておかしくない逸品を見つめながら、滝岡が返事の無い神尾を振り仰いでみる。
――完全におかしい。
滝岡がそう思うのは、ぼーっと何処かを見るようにしながら、先程から全然拭き終わらない白い周囲が波打っている陶器の型――としか滝岡には理解できないが、単に白いココット型である――を布巾で磨くようにしながら返事のない神尾である。
テーブルの向うに立って、何事か宙を見ながら考えているような神尾に、真剣に滝岡が声を掛ける。
「どうした?…神尾、大丈夫か。何か悩みがあるんだな?どうした?」
「―――はい、…」
――駄目だ、動いてないな。
滝岡が確信するのは、神尾の現在の状況だ。
黒髪をいつも適当に短くして、容姿に気を配る処はまったくみられないが。よく整った人形のようだといわれる容貌が、いまその黒瞳がぼんやりと何処をみているのか解らない状態であることでまるで本当に人形のように見える。
手をココットを拭くように動かしながらも、その思考を追って外の現象に対してお留守になっているのが確実な状態なのが一目で解る神尾に、滝岡が軽く肩を落とす。
――それに、このデザートが。
「神尾、悩みがあるならいってくれ。どうした?」
それでも何とか立ち直って、滝岡がテーブルを回り神尾の隣に立って肩に手を置いた。真摯な表情でいうのは、複雑な料理や何かを作ることでストレス解消になるんですよ、という神尾とのこれまでを顧みてのことになるのだが。
ひょんなことで同居するようになってから、料理が趣味だという神尾が食事を作ることが多いのだが。とても美味しい料理がいつも出てくることに、大変ありがたいと思っている滝岡だが。
だが、そのこれまでの中でも。
これまで一度も、朝食の席にこうした凝ってとても複雑そうにみえるデザートだけが出た事はなかった。
――よく解らないが、この凝り方はまずい気がする。そもそも、こいつが朝食だというのにデザートだけを出してくる辺りがかなりおかしい。
真剣に滝岡がくちを結び、この異常事態に対処すべく肩に置いた手に力が籠もる。
「神尾、――聞えているか?何か問題があるんだな?どうした?何があった?」
辛抱強く訊く滝岡にまだ視線を向けず、ぼーっと神尾が宙を見つめるようにしながら、ようやく白いココットを拭く手を留める。
その間、約三分。
「――…神尾?」
「…滝岡さん、…はい、――」
まだ視線が宙をみている神尾にひとつ頷いて。
「わかった、問題があるんだな?で、どうしたい」
「―――どう、あ、滝岡さん、おはようございます」
「おはよう、神尾。それは先にいったぞ?いや、それはともかく、何が問題なんだ?」
「―――問題、そう、問題なんです、きいてもらえますか?」
突然生き返ったようにして見返してくる神尾に滝岡が大きく頷く。
「聴こう。何が起きていて、何が問題なんだ?」
「これを見てもらえますか?」
拭いていたココットをテーブルに置いて、影になっていたオーブンの上からタブレットを取り出してみせる。
―――珍しいな、調理をしているときに持ち込むのは。
滝岡が思うのは、料理をする際に神尾が普段はタブレットやPCの類――滝岡が、つい食事の際に持ち込むものだが――をキッチンには持ち込まないということで。
「余程、気になることがあるのか?」
「はい、―――これです、これが、」
いいながら神尾が画面に呼び出すのは、背景が白の世界地図。
白を背景とした世界地図に、神尾が画面を操作していく。
「これは?」
白地に薄い青で描かれた世界地図に濃紺で二重円が波紋を描くように幾つか描かれていく。エジプト、ヨーロッパからロシア、イギリス。そして、それらの円が。
日本列島の上にも、二重の円が。
二重円から細い線が伸び、解説が載る。
コクチョウ―― 一
カモ類――二
水(試料採取)―― 一
「秋田と、――こちらは未確定ですが鳥取です。それと、鹿児島の出水。これはいつものことなんですが、――どうも」
はっきりしない口振りで神尾がいって口籠る様子をみて、タブレットに視線を戻す。
「一体、何が?」
「鳥インフルエンザです、―――どうも、違うんです。いつものシーズンより、広がりがあるような気がして、何て云うか」
ぼんやりとまた画面を見るようにして考え込む神尾に、滝岡が真剣に見返す。
「つまり、何かが気になるんだな?勘か?」
「はい、勘というか、――どうもはっきしないんですが。毎年渡り鳥が日本を訪れるシーズンが始まっているのは確かですが、どうも、その例年とは様子が違うような、―――」
歯切れの悪い神尾の様子に滝岡が地図を見直す。
「まだ、日本には三ヶ所か」
「北大がどうみているか何ですが、…分析結果はまだ全部判明していませんが、今年はH5亜型―――」
思わしくない表情で画面をみてくちを閉じる神尾に。
真直ぐ滝岡が視線を向けて、神尾に云う。
「わかった、行って来い、神尾」
「え?…いいんですか?でも、」
驚いて見返す神尾に、一つはっきりと滝岡が頷く。
「確かにおまえがいないと困る分析も多いが、他にも、――だが、おまえが気になるんだろう?はっきりと言葉にはならなくても」
「…――はい、どうにも気になって、しかし」
ためらっている神尾に、軽く滝岡が笑む。
「いいから行って来い。おまえは、元々感染研からうちへの出向だろう?おまえがいなくて組織が動かんのも問題だ。それよりな、神尾」
「はい」
真剣に見返す神尾に滝岡が視線を和らげる。軽く肩を叩いて。
「医者なら、勘は大事にするものだ。いいか?医者は勘を疎かにしてはいけない。何となく、や、胸騒ぎ、わずかな引っ掛かりでも何でも、何と云う言い方でもいいが。―――勿論数値やデータも大事だ。基礎的な事は当然押さえておかなくてはならない。だがな、神尾」
「はい」
真面目に見返している神尾に軽く肩を竦める。微苦笑を零して。
「けれど、数値を作るのも人間で、検査する機械を作るのも人間なんだ。それらには当然限界がある。自然に起きることのすべてを、人間は拾い切れている訳じゃないんだ。だから、」
「―――滝岡さん」
滝岡が真摯に神尾をみて。
「おまえがどうにも言葉にならないことに引っ掛かって仕方無いというのなら、それを尊重しろ。人間だって、自然の一部だ。そして、その一部に起きていることすら、人はすべて理解できている訳ではない。感染研に行きたいんだな?」
「…―――はい、滝岡さん」
「わかった。許可する。元々おまえの出向元だろう。好きなだけ行ってくるんだな。病院でのおまえが抜けた穴は、こちらで手配しておく」
「…―――滝岡さん」
ひとつ口を結んで、神尾が何か云い掛けて黒瞳で凝っと滝岡をみて。
「わかりました、行ってきます」
うなずくと、踵を返して。
「…おい?神尾、――――」
エプロンを殆ど見もせずに外して椅子の背にかけると、タブレットを手にドアを既に出て行く神尾に。
沈黙して背を見送り、滝岡が携帯端末を取り出して。
「小野さん?すまないが、表にいま神尾が出て行った、…車を廻すのが間に合うか?多分、新宿の感染研だと思うが、神尾の望む所まで乗せていってやってくれ、―――すみません、ありがとう」
家政婦の小野さんに運転手に車を回す手配を頼み、間に合うだろうか?と思いながら通話を終えて神尾の出て行った方をみてから。
しみじみと、滝岡は神尾が残した実に芸術的で美しいデザートの皿を見つめていた。テーブルに残されたチョコレートの芸術は、何処に出してもおかしくない実に洗練された一皿だが。
――食い物を粗末にしたら怒られるな、…―――。
いまここには滝岡しかおらず、家政婦の小野さん他も既に朝食を済ませていることを知っている以上。
――これはおれが食うしかないらしい。
「…――食うか」
覚悟を決めたようにテーブルに就いた滝岡が、あまりにも芸術的な盛り付けに、これはどうやって食うんだと眉を寄せている頃。
片手にリュックを持って、片手にタブレットをみたまま玄関を出ようとする神尾に、絶妙の間で声が掛けられた。
小野から話を聞いた運転手が樫の古い扉を出て来た神尾に車のドアを開いて促す。
「神尾様、どうぞこちらへ」
「あー、はい、…」
生返事をしながら、運転手が開いたドアに何も考えずに入って座る。座っても画面をみて操作しながら考え込んでいる神尾が行く先を告げないのにも構わず。
古い石造りのエントランスに控えていた黒塗りの車に殆ど何も考えずに促されるまま乗り込んだ神尾を乗せて。
滑らかに新宿に向けて発進した車の中で、神尾は画面に映し出された情報に没頭したまま周りがまったく見えていない状態でその思考に沈んでいた。
その頃。
「…うまいな」
滝岡は、おそるおそるスプーンを入れたチョコレートムースのなめらかさに、思わず眉を寄せてその美しい断面を見つめていた。
滝岡には理解できないが、美しいフランボワーズの紫を帯びた薄紅に僅かに明るいピンクのフランボワーズのムース、間に挟まれたアーモンドムースとビターチョコレートと生クリーム等が美しい層を見せている。尤も、滝岡に材料の違いは理解できていない。
――何か色が違うな。…とても、うまいんだが、…神尾。
この凝り方は、と思わず一度目を閉じて額を軽く押さえ、息を吐いて意を決したように皿を見つめ直して、食べ始める滝岡がいるのだった。
思えば、滝岡が神尾と出会ってようやく半年程。
―――随分昔のようだな。あれは、…。
滝岡総合病院に神尾が現れたあの日。
つい思わずもその日の事を思い返しながら。
――この、綺麗な模様は食べるものだろうか?
芸術的に盛り付けられた皿に描かれたビターチョコレートのソースを使って描かれた模様に、思わず滝岡が真剣に皿を睨む。
――食べ物は残せない。しかし、これは飾りなんだろうか?
滝岡の真剣な悩みに答えられる人物は、いま新宿へと向かう車の中に。
――それにしても。
ある日、突然滝岡達の前に現れて、何故かいまはこうして同居することになっている神尾だが。
――あのときは、NARSだったか。
いま鳥インフルエンザで飛び出していった神尾だが、出会いのきっかけは二類感染症のNARSウイルスだったな、と。
ふと滝岡は微笑んでいた。
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