地に墜ちた天使

 暫くの後、吸血鬼王ラディウスは尖塔の頂上の部屋の扉を叩いていた。返事はなく、扉が開けられることもないが、自分が来たのだと知らせるためだ。

 王が手ずから開けた扉の先には、所々破れた薄青の絹の衣を着て六対の黄金の翼を生やし、それ以外の部分は人の青年に酷似した者―神官ゼフらからは「天使」と呼ばれている種族―がいた。その両腕と両脚はある程度の身動きは取れるものの決して引き千切れないよう魔術で強化された鉄の鎖で寝台に固定されている。彼は入ってきたラディウスの姿を見て不愉快そうな表情を浮かべた。が、吸血鬼王は意に介さず歩み寄った。

「ごきげんよう、戦天使アリイどの。穢れた大地には慣れたか?」

 彼がそう言って左手で黄金の翼を掴むと、羽から青白い閃光が走った。常人であれば直ちに心臓が焼き尽くされる雷である。だが、ラディウスに対しては僅かに指先を焦がしたのみだ。アリイもそれは既に知っているはずだが、無抵抗でいることは彼の矜持が許さないようだ。

「邪悪なる者め、私に触れるな!」

「こんな狭い部屋で、おまけに誰とも話せないのでは退屈だろう。暫くお喋りに付き合ってくれたまえ。それとも天使どのは、別の愉しいことがお好きかな?」

 ラディウスは焦げた人差し指の先に自らの牙を立て、軽く切った。そうしてアリイの脛の半ばまでを覆う衣の裾をずらし、流れ出る血を右脛に垂らした。すぐさま皮膚を貫いて侵食する毒の痛みに、天使は大きく身を震わせた。しかし、その表情には依然として恐怖ではなく怒りがある。

 吸血鬼王は続いてアリイの衣を更に上まで捲った。昨日彼の毒が侵し痛めつけた痕跡が白い腿から凡そ消えているのを確かめるためだった。

「我が毒を浄化したか。大したものだ、流石はダヴァニム人が神の使いと呼ぶだけある。天使なる者は如何にしてこの屈強な肉体を得ているのだ? 神官どもはお前のような存在を永遠に年若く生き続ける者だと言っていたが、どのように命を維持している?」

 ラディウスは喋りながらアリイの顎を掴んだ。人と変わらない感触がそこにあった。彼は一度、この翼ある者の腕の骨も砕いて再生するのを確かめた。前日の毒による尋問、そして地下室での神官ゼフへの拷問と目下の対話の全ては、ダヴァニム人の神と不死の力について知る為であった。

「最初から、私の言葉に偽りはないと言っている。我々が知らないことは教えられない。私は不死者ではない。父神ミカラ様でさえ、肉体は不死身ではなかったのだ。一介の天使である私や、邪悪の王である貴様に、何故永遠の命が得られようか」

 アリイは静かに答えた。当然、吸血鬼王にとって満足のいく答えではない。ラディウスは彼の切れ長の耳を掴み、額に唇からの毒を押し当てた。天使の顔は苦痛に歪んだ。大地の魔王は愉快そうに微笑み、アリイの薄紫色の髪を軽く指で弄んだ。

「では彼らは、何故ミカラとやらを崇めるのだ」

「ミカラ様の教えが真理であり、お言葉に従って善行を積めば幸福があるからだ。人が善行を積めば死後天使となり、天使が罪を犯さず生きれば死後精霊に、精霊が堕落しなければ再び人に生まれるのだ。そうして善き者であり続ければ幸福に生きられる時間も長い。これがミカラ様のお造りになった世界だ」

「期限と条件付きの幸福と万能などは欲していない。お前の主も、自らは世界の終わりまで不滅だと言い張っているのだろう。神がかくの如き絶対者でなければ人間はお前達を崇めまい。ミカラとやらは何故不死身なのだ」

「父神ミカラ様は天上の肉体を去られ、記憶も失った。今は神霊となって大地のすぐ傍に遍く寄り添っておられる。いずれ人としてお生まれになり、寿命が尽きればまた天上にお戻りになる」

 先程からのアリイの返答はラディウスを些か苛立たせた。折角、初めて異民族の崇める超常の者を捕えることができたというのに、相手は人間の神官と同じことしか語らない。

「お前達の主神は何故に左様に回りくどいことをするのだ。本当に創造者ならば己の命と若さを永遠に保てるような世界を造れば良いものを。さて、今日は先に食事をしようか」

 既に少量の苦痛は与えているが、ラディウスにとっては愉しみと呼ぶには足りないものだった。この美しいものが苦しみの果てに屈服し、自らに隷属するに至るまでを彼は楽しみたかった。


 吸血鬼王はアリイの上に覆い被さり、首筋に牙を立てた。天使の表情は強張り、唇を噛んで牙からの毒に耐えようと試みた。この毒には標的の身と心を蕩かす作用がある。彼は昨日もその前も、毒に抗いきれずラディウスに手酷い侮辱を加えられていた。

 無論、彼も効かないと知りつつ抵抗はする。両手両足の鎖を引き千切ろうともがき、また触れられている場所から神威の雷を打ち込んで接触を拒む。だがこの度も身体から血が抜かれるにつれ、アリイの体は言う事を聞かなくなり、呼吸は乱れた。背筋に走る寒気と、それでいて体の奥から自らをも燃やすような熱が彼にとっては不気味で仕方がなかった。

「父神ミカラ様、どうか私の傍にいてください。悪に魂を委ねることの無いよう、お力を貸してください」

 最後の抵抗として神に祈る天使の、震える声はラディウスを征服の喜びに浸らせた。今や服の上から名匠の彫刻のように整った体を撫で回そうと拒絶されることはない。吸血鬼王はアリイの主に対して敬意は沸かないが、趣味が合うとは感じる。またこのように美しい者を、彼の手に落ちるように造ってくれた事には感謝しないわけでもない。

「もう屈したのか。或いは初めからこれが本望かね? ああ、自分から頼めとは言わんよ。神の遣いは随分と気位が高いようだからな」

 ラディウスが口を首筋から離し、耳元で侮辱の言葉を囁くと、アリイは顔を上げて荒い息を吐きながら反発した。

「黙れ……!」

 しかし、その動きは毒を流し込まれるまでと比べれば緩慢であった。ラディウスがもう一噛みすると、アリイは彼にとって異様である感触に飲まれるほかなくなった。天使は罪の意識ゆえにか、金色の目から透明な涙を溢した。

 食事に満足したラディウスは口元を拭い、アリイの頭を撫でた。

「実に素晴らしい味だったよ。それにお前は本当に綺麗だ。美しさを損なわないまま飼ってやりたい程にな。私の為にも早く口を割ってもらいたいものだ」

「わたしは、ちちなるかみの……ミカラさまの、しもべであって、貴様の為に生まれた者ではない」

 忌まわしい愛撫から解放されたとはいえ、毒に冒されたままのアリイの思考は十分に回り切っていないらしい。言葉も直ちには明瞭にならず、また瞳も焦点が合わないままだった。

「そうか? 私に飼われるために空から降りて来てくれたのだと思ったが」

 半分は冗談であったが、さりとて全くの偽りでもなかった。

 ダヴァニム人との戦いのさなか、吸血鬼王ラディウスは自ら血隷の群れを率いて敵を追い詰めていた。その時、侵略者にとっての奇跡が起きた。暗黒の夜空を引き裂く雷光と共に、天から戦天使アリイが降下したのだ。

 如何なる花よりも美しい色と輝きの髪をなびかせ、服の合間から覗く細身だが力強い肉体と、それでいて体重など無いかのように軽やかに地に舞い降りる姿は魔王の目にも敵ながら実に目映く映った。この生ける至高の芸術作品のような者を、手中に収めたい。彼はしばし、侵略者との戦いすら忘れて一心にそう思った。

 アリイの操る雷撃は、血隷を一体も余さず焼き尽くした。ダヴァニム人の神官達は歓喜し、地に伏して自らの神に感謝した。だが、その奇跡も束の間であった。吸血鬼王と戦天使の一騎打ちは前者の勝利に終わり、ラディウスの背後には王に忠実な魔術師達がいた。

「愛でるだけでは靡かないのならば、痛みも与えなければなるまい。鳥を飼うのであれば、危惧すべきは勝手に飛び立たれることだ。その翼を圧し折れば、少しは素直にもなるだろう」

 ラディウスは残酷な笑みと共にアリイの上半身を強引に起こすと、翼の付け根を鷲掴みにした。

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