第4話 可憐な少女は無邪気に笑う。

「……約束、とは何のことでしょう? お嬢さま」

「あら、まだとぼけるつもり?」

「……いえ、そういうわけでは……」



 ……うん、分かってるよ。お嬢さまの言いたいことは。分かってるけど、それでも……





『――ごめんなさい、藍良あいらさん。貴方の気持ちには応えられないわ。だって、私が好きなのは貴方なのだから』



 かつて、あどけない笑顔で告げられたお嬢さまの言葉。どうか、兄さんだけを見てほしい――そう懇願した僕に対する、お嬢さまの言葉。



「――あの日、まだ子どもである私とそういうことはできないと貴方は言った。だったら、私が大人になったら応じて下さるということよね? 婚姻という社会的儀礼を経て、今や立派な大人となった私であれば、応じて下さるということよね?」

「……それは」



 そう、柔らかな微笑みで尋ねるお嬢さま。だけど、煌々と輝くそのは決して僕を逃がさない。


 ……実際、具体的な約束など何一つしていない。だけど、年齢を理由に先延ばしにするくらいしかできなかった。それは、そもそも僕の立場が圧倒的に下であること以上に――



「……その、例えばですが……僕がかんばしい返答をしなかった場合、どうなるのでしょう?」

「……そうね、それは残念だけど、致し方のないことね。押し付けるわけにはいかないもの」

「……でしたら、その――」

「――でも、他ならぬ貴方から拒絶されたとなれば私も平静ではいられないでしょう。明日の夕方頃、職務からお帰りになるであろう柑慈こうじさんに対し、平生どおり振る舞えるとは正直思えません。そうなれば、優しい彼はそんな私を心配して話を聞こうと――」

「――いえいえ、拒絶なんてするわけないではありませんかお嬢さま! ……その、ちょっと尋ねてみたかっただけでして……」

「あら、それなら良いのだけど。それにしても、流石に意地悪が過ぎるわよ藍良さん」

「……はは、申し訳ありません」



 莞爾かんじとした微笑みを浮かべ滔々と話すお嬢様に対し、たどたどしく謝意を伝える僕。……そう、それだけは絶対に駄目だ。兄さんを傷付けることだけは、絶対に――



「……あの、お嬢さま。一つお伺いしても宜しいででしょうか?」

「ええ、もちろんよ藍良さん」

「……ありがとうございます。それでは――ひょっとして、お嬢さまは柑慈兄さんに何か不満がおありだったりしますか?」

「いえ、不満なんてないわ。知っての通り、柑慈さんはとても知的で優しい人よ。それに、いつも私を大切にしてくれる。彼といると、本当に安心するの。樹木の枝葉からそっと差し込む光のような、柔らかな安心感に包まれるの。そして、そんな彼と共に穏やかな日々を過ごすことで――よりいっそう、貴方という存在が輝きを放つの。藍良さん」

「……そう、ですか」



 ――そう、きっとこれが、柑慈兄さんとの婚約を彼女が受け入れた理由。兄さんと共にいることで最高の安心――即ち、最高の退屈を手に入れたんだ。退屈というのは、いつだって安心の中でしか生まれない。そして、そうまでして彼女が欲したのは――



「……そんなに、欲しいのでしょうか? ――最高の刺激が」

「ふふっ」


 

 逡巡を覚えつつ問い掛けると、可愛らしく笑顔を見せる彼女。いつも自分を大切にしてくれる、素敵な旦那様――そんな彼の実弟との、道ならぬ恋愛こい。……確かに、これ以上刺激的な状況こともそうそうないよね。



「――でも、誤解しないでね? 私は本当に――心から、貴方に愛情を抱いているのよ。貴方のことが好きなのよ、藍良さん。」

「……勿体なきお言葉、大変恐縮です」



 まるで僕の心中を見透かしたように、念を押すように告げるお嬢さま。……ほんと、僕なんかには勿体ない。それよりも、どうか――



「……すみません、お嬢さま。もう一つだけ宜しいでしょうか?」

「ええ、もちろんよ。そもそも、わざわざ許可など得なくとも宜しいのに」

「……ありがとうございます。――僕は、お嬢さまの御心みこころのままに従います。これからもずっと。……なので、どうか……柑慈兄さんには……兄さんにだけは……」

「――ええ、分かってるわ。他の誰にもだけど、とりわけ彼にだけは絶対に隠し通すとここに誓う。絶対に、彼のことは傷つけないと約束するわ」

「……ありがとうございます、お嬢さま」



 そう、こちらを真っ直ぐに見つめ告げるお嬢さま。まあ、念のため確認しておきたかっただけで、元よりその辺りはほとんど心配していない。約束通り、彼女は決して兄さんを傷つけることはないだろう。――僕が、彼女を拒絶しない限りは。



 そっと、窓際へと視線を移す。すると、紫のクレマチスが僅かな隙間から白月の光に仄かに照らされ揺れている。それから、再び視線を戻すと――



「――っ!?」



 ――刹那、呼吸が止まる。不意に、彼女の唇が僕の唇を塞いだから。……疑う余地なんてまるでない――そんな確信を抱かせるに十分なほどの愛情がその柔らかな唇から伝わり、灼熱のごとく全身を駆け巡る。頭の先から爪先まで、僕を構成する全てを焼き切るような強烈な愛情おもいに、僕は為すすべもなく身を委ね――



 ……抵抗なんて、するつもりはなかった。彼女の意のままに応じることが、唯一兄さんを傷付けずにすむ可能性に繋がることだと信じてたから。……だけど、ほんとは誰のためだったのだろう? 今となっては分からない。それでも、一つだけはっきりしているのは――




 ――もう、引き返せないということ。




 それからややあって、唇を離しいったん僕を解放するお嬢さま。その後、視線で僕をベッドへといざなう。そして、薄暗い部屋の中――可憐な少女は、無邪気な笑顔でゆっくりと口を開く。




「――それでは、始めましょうか。藍良さん?」




 ――あの頃の、あどけない笑顔のままで。



 






 









 











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窓際のクレマチス 暦海 @koyomi-a

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