第3話 本題

「――おめでとうございます、紗霧さぎりお嬢さま。柑慈こうじ兄さん。……どうか、お幸せに」

「ありがとう、藍良あいらさん」

「ありがとな、藍良」



 祝福の言葉を告げると、二人とも穏やかな微笑を浮かべ応えてくれる。そう、本日は婚礼の儀――二人にとって……そして、二人のことが大好きな僕にとっても記念すべき日だ。



 ちなみに、儀式は良家のイメージとは違い屋敷内でひっそりと行われた。いくら傑出した才能を備えているとは言え、いわゆる一般庶民たる柑慈兄さんを婿に迎え入れるなど言語道断――なんて、周囲の良家仲間達からたいそう非難を受けたらしい。すると、お父さまはお父さまで、それなら無理に式に来てもらう必要もないと、こうして身内だけで執り行う運びとなったらしい。まあ、僕個人としてはこういう方が好きだし――それに、何より大切なのは式の形体なんかじゃなく、二人が幸せな気持ちで結婚この日を迎えられることなんだと、二人の様子から改めて感慨深く思う。



 ――そんなたいそうめでたい日から、二週間ほど経過したある日のこと。



 ――コンコン。


「――藍良です。ただいま参りました」



 軽く数回ノックをして、扉越しにそう告げる。すると、間もなくして――



「――ええ、待っていたわ。どうぞ」



 そう、聞き慣れた声と共にそっと扉が開く。程なくして視界に映ったのは、あどけなく微笑むパジャマ姿の美少女――紗霧お嬢さま。こんな時間にどんな用があるのだろう――なんて、今更確認するまでもない。



「……ところで、随分と今更ではありますが――本当に僕が家庭教師で良いのでしょうか? 僕より優秀な先生なんて、それこそ星の数ほどいるでしょうし――それ以上に、そもそも柑慈兄さんがいるのに……」

「本当に随分と今更ね、藍良さん。あれからもう何年も経っているというのに。」



 些かの逡巡を覚えつつ問い掛けると、可笑しそうにクスッと笑うお嬢さま。まあ、至極もっともな反応だろう。彼女の言うように、あれから――彼女の家庭教師を務めてから、もう何年経ってるんだという話だ。



 だけど、ずっと頭の片隅に引っ掛かりを覚えていたことだ。先ほど自分で言ったように、僕より優秀な先生なんて星の数ほどいるし――そもそも、数学の天才たる柑慈兄さんが傍にいるのに僕という教師の必要性がほとんど感じられないのだ。なのに、婚約者の弟という理由だけで仕事を頂いているのだとしたら……やはり、多少なりとも申し訳なさを覚えずにはいられなくて。


 ――だけど、そんな僕の懸念に対し、


「――そんな心配は杞憂よ、藍良さん。確かに、お父さまが貴方を雇用したきっかけは、貴方が私の婚約者――今は旦那さまだけど――婚約者たる柑慈さんの身内だからでしょう。だけど、それはあくまできっかけ――その後は、貴方の教師としての適性をお父さま自身が判断した上で、今でも貴方に家庭教師このやくめを任せているの。加えて、私の方からも藍良さんが良いとお父さまに伝えていますし。


 それに、教師としての適性それに関してはきっと柑慈さんよりも貴方の方が優れているわ。そもそも婚約者たる彼を家庭教師にするわけにはいかないけれど――それ以前に、あの人はその卓絶した才能故に、教える側にはあまり向いていないのよ」

「……なるほど」



 そう、柔らかな微笑を浮かべ話す彼女に対し躊躇ためらいを覚えつつ頷く僕。前半の方――僕にそれほどの適性があるのかどうかは正直懐疑的ではあるけど……後半の方――兄さんが教える側に向いていないというのは少し腑に落ちる部分がある。兄さんの教え方が悪い――というわけではなく、そもそも天才たる兄さんは、相手がどうして分からないのかが分からないのだ。随分と前、僕に整数の問題を教えてくれようとしてた時、僕が分からない理由が分からなくて申し訳なさそうにしていたっけ。あの時は、単に僕の理解力が壊滅的なだけだと思っていたけど、どうやらお嬢さまとの間にも似たようなことがあったらしい。そこへいくと、凡人たる僕は人の理解できないところもある程度分かるからそういう意味では教える側に向いているのかも……うん、なんか自分で言っててちょっと虚しい――



「ところで藍良さん――そろそろ、本題に入らないかしら?」

「…………本題、でしょうか?」



 唐突とも思えるお嬢さまの問いに、控えめに尋ね返す僕。すると、


「――あら、とぼけるなんて人が悪いのね藍良さん」


 そう、揶揄からかうような微笑を浮かべて話すお嬢さま。……うん、確かに分かっている。今夜――柑慈兄さんのいない今夜、僕がここに呼ばれた理由なんて……とうに分かっている。そんな僕の心中を察したようで、答え合わせをするように彼女は微笑を湛えたまま言葉を紡ぐ。




「――こうして柑慈さんの妻となり、私も立派な大人になったわ。だから――約束通り、抱いて下さるのよね? 藍良さん」


 






 






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