第2話 痛み

 ところで、僕が庶民であるからして、そんな僕の身内である柑慈こうじ兄さんもやはり庶民である。なのに、そんな兄がどうして上流階級たる紗霧さぎりお嬢さまとお近づきどころか、婚約なんて僥倖に恵まれたのか――それは、身分の差なんて霞むほどに兄さんが優秀過ぎるから。



 柑慈兄さんが未来のお義父とうさま――紗霧お嬢さまのお父さまの目に留まったのは、高校生などを対象に毎年開催される数学能力を競う国際大会――数学オリンピックの会場でのことだ。



 彼女のお父さまはビジネスの――ひいては人生の成功において、数学の能力に頗る重きを置いているとのこと。なので、穎脱えいだつした数学の才を備える若人集うこの大会に数年前から毎年足を運んでいたらしい。そして、その数年の中でも一際異彩を放っていたのが――僕の自慢の兄こと、柑慈兄さんというわけだ。


 そんな類稀なる逸材を逃すまいと、さっそくお父さまは柑慈こうじ兄さんへと接触。そして、数学の才能だけでなく為人ひととなりにおいても申し分のないことに感嘆を受けたお父さまは、ご息女――紗霧さぎりお嬢さまとの婚約を兄さんに願い出たとのこと。……それにしても、未だに存在するんだね。そんな許嫁みたいな風習。それと、この話だと僥倖だったのは、むしろ兄さんよりお父さまの方だったのかも。



 だけど、驚愕はそこに留まらない。天は二物を与えず、なんて慣用句があるけど……あれは存外正しいのかしれない。と言うのも、柑慈兄さんはその天賦の才能――もちろん、兄さん自身の努力を否定するものではないけど――ともかく、その才能と引き換えに、というわけでもないけど……生まれた時から重い病を患っていた。まだ高校生の当時でさえ、あと十年は生きられないとされていた重い病を。



 そして、そんな大病を治す手術を受けるためには、僕らのような一般家庭ではまず捻出できうるはずもない莫大な金額が必要だった。きっと、僕なんかが一生涯汗水垂らして働いたところで雀の涙程度にしかならないほどの、莫大な金額が。



 随分と回りくどくなってしまったけど、婚約の件以上の驚愕というのはまさにこの件で――お父さまは、兄さんが婚約を承諾してくれるのなら、その途方もない費用を全て負担すると申し出て下さったのだ。お父さまにとってその金額がどれほどの負担ものなのか、それは庶民たる僕には想像も及ばないけれど――それでも、つい最近知り合ったばかりの相手においそれと使用する額ではないだろう。つまり、それほどまでに兄さんに対し投資価値を置いているということ。



 ――ともあれ、これで兄さんの病気も無事快復。それまでは思い描くことすら叶わなかった今後数十年の兄の未来を繋いでくれたお父さまには、いくら感謝しても足りる気など全くしなくて。



 ――ただ、それでも懸念が全くないかと言えばそんなこともなくて。



「……ところで、お嬢さまは本当に良かったのですか? ああ、もちろん兄さんを否定してるわけではないですよ! ただ……婚約のお話は貴女でなくお父様がお決めになったことで……」

「……ふふっ、そんなに焦らなくても誤解なんてしないわ。貴方が柑慈こうじさんをどれほど大切に思っているか――そんなの、今更疑いの余地もないわけだし」

「……それなら、良いのですが」



 一人で勝手に狼狽える僕に対し、可笑しそうな微笑みを浮かべ告げるお嬢さま。そう、いくらお父さまに感謝を抱いているといっても、当の婚約相手であるお嬢さまの心中を考慮しないわけにはいかない。兄さん自身、お父さまに深謝を伝えつつも、お嬢さまが抵抗を示すようなら婚約この話は承諾できないと伝えていたようだし。



「――以前にも言ったと思うけれど、確かに話を持ち掛けたのはお父さまだけど、きちんと私の意向を尊重してくれたわ。決して、私の意に反して婚約させようなんてしなかった。だから、婚約これはちゃんと私の意志で承諾したの。貴方も……いえ、貴方の方がよくよくご存知のように、柑慈こうじさんはとっても知的で優しい人。すごく好感を持てる人だし、断る理由なんてなかったわ」

「……それなら、本当に良かったです」



 そう、柔和な微笑を浮かべ話す紗霧さぎりお嬢さま。間違いなく本心なのだろう。そんな彼女をじっと見つめながら、ズキリと胸を刺すような痛みを自覚しないわけにはいかなかった。



 








 



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