第1章 ユダヤ人メジャーの興隆と変遷

第1節

ユダヤ人メジャー創業者たち

 今日、映画館やDVDなどで映画を視聴していると映画の冒頭や終わりでよく、映画のメジャーのロゴを見かける。例えばパラマウント、20世紀フォックス、ユニヴァーサル、メトロ・ゴールドウィン・メイヤー(以下MGM)、ワーナー・ブラザーズ、コロムビアなどである。現在でも業界において多大な影響力を持つ会社ばかりだが、これら6大メジャーとその前身の創業、設立は、紛れもなくユダヤ人の手によるものなのである。以下では、上記にユナイテッドアーチスツ(以下UA)とRKO(Radio-Keith-Orpheum)ピクチャーズ(以下RKO)を加えた8つの映画の主要メジャーの勃興を確認したい。

 

 まず、ユニヴァーサル社のカール・レムリは1867年に南ドイツのユダヤ人家庭に生まれる。1884年にアメリカへ移住し、衣料品会社に勤め、退職後にニッケルオデオンの興行に着手する。映画館のオーナーたちが一通り客に見せたフィルムを交換し合っていたことに目を付け、フィルムの交換・レンタル業を始める。交換を続けるといつかは作品が足りなくなるので、彼はエジソンの会社から『大列車強盗』を作ったエドウィン・ポーターを引き抜き、自ら製作を始め、ユニヴァーサル映画を作った。

 フォックス社のウィリアム・フォックスは1879年にハンガリーのユダヤ人家庭に生まれる。生まれて間も無く親と渡米し、幼年時代はニューヨークの貧民街で育ち、13歳で裁縫師として働いていた。20歳で被服工場のオーナーを勤めた。ボードヴィルと活動写真を混ぜて安い料金で見せる劇場を開き成功し、1903年には5セント映画館を始めた。映画に的を絞ってからはフィルム賃貸業に乗り出す。エジソンをはじめとするパテンツ・カンパニーを独占禁止法違反で訴え、1915年に勝訴。1917年に違法と宣言された。20世紀フォックスは、ワーナーの幹部だったダリル・ザナックが独立して1933年にトゥエンティ・センチュリーを結成し、1935年に恐慌で打撃を受けたフォックス社を吸収して20世紀フォックスとなった。ザナックはユダヤ人ではなかった。

 ワーナー・ブラザーズはその名の通りワーナー4兄弟による映画会社であるが、長男ハリーは1881年、ポーランドからのユダヤ系移民の子として生まれ、敬虔なユダヤ教徒だった。元は自動車のセールスをしていたが、アルバート、サム、ジャックの3人の弟とともに、1904年にはペンシルベニアのニューカッスルに99席の映画館を開いた。ワーナー・ブラザーズは長編として初のトーキー映画である『ジャズ・シンガー』で大成功を収める。主人公はユダヤ人俳優によるユダヤ人だった。

 MGMの創業には多くのユダヤ系映画人が関係している。その中心はマーカス・ロウ、サミュエル・ゴールドウィン、ルイス・B・メイヤーの三人である。マーカス・ロウはニューヨークのロアー・イーストサイド生まれのユダヤ人である。その地域は貧困層の居住区で、彼の家もテーブルクロスを新聞紙で代用する程貧乏だった。しかし彼は貧困をアドバンテージと捉えていた。なぜなら、周囲も皆貧しいというのは、誰でも手が出せる安価な娯楽の映画を成功させるのに最適な環境だったからである。彼は衣服産業、毛皮工場の労働者などを経てボードヴィルの興行師となるが、フォックスやワーナー兄弟の成功を聞いて、ニューヨークに入場料5セントの映画専門館をつくる。彼はロシア系ユダヤ人のジョセフとニコラスのスケンク兄弟と出会った後、3人はロウを社長に立てて大規模劇場チェーンのロウズ社を設立した。サミュエル・ゴールドウィンはポーランドのワルシャワ生まれのユダヤ人で、イギリスで育ち、12歳で渡米後、まずは手袋のセールスマンになったがある時ニッケルオデオンに入り映画の魅力に引き付けられる。彼は後にパラマウント社のジェシー・ラスキーの妹と結婚した縁から映画製作に乗り出し、ゴールドウィン・ピクチャーズを設立する。ルイス・B・メイヤーは3歳のときリトアニアからアメリカに移住した東欧系ユダヤ人で、廃品回収業者を経験した後、マサチューセッツ州のヘイヴァリルに映画館を開き、後にニューイングランドの大手配給業者となった。これらの流れを踏んで、マーカス・ロウのロウズ社を母体としてゴールドウィン・ピクチャーズを合併し、1924年にはルイス・B・メイヤーを製作事業の中心として迎え、MGMができた。マーカス、ゴールドウィン、メイヤーの頭文字からMGMとなっている。ニコラス・スケンクが経営、ロウが興行、メイヤーが製作の中心を勤めた。

 パラマウント社のアドルフ・ズーカーは1873年にハンガリーに生まれる。ユダヤ教のラビだった父は彼が1歳の時亡くなり、16歳で単身渡米する。渡米後は家具屋の徒弟から始め、20代にして毛皮商で大成功する。1897年の結婚式前夜、彼は偶然見た映画に惹かれ興味を持ち始め、1903年に総合娯楽センターであるペニー・アーケードをチェーン展開する会社を設立。後にニッケルオデオンのチェーンを各地に作って成功させるが、とりわけ彼はブロードウェイを思わせるゴージャスな映画館に変えていった。配給業に転進した後、1912年にはフランス映画『エリザベス女王』を輸入して3万5千ドルの投資で8万ドルの利益を上げ大儲けした。その後、「有名な作品に有名な俳優」というスローガンの下、フェイマス・プレイヤーズ社を設立し、ジェシー・ラスキーと組んでパラマウント・ピクチャーズを創始した。パラマウント共同創業者のジェシー・ラスキーは、カリフォルニア州サンノゼのユダヤ人家庭に生まれている。彼はアラスカのゴールド・ラッシュで成功した後に映画製作を始めている。1927年に社名がパラマウントに改称された。

 コロムビア映画のハリー・コーンはドイツ系ユダヤ人の父と、ロシア系ユダヤ人の母の元に生まれる。兄ジャックのつてでカール・レムリのユニヴァーサル映画に入った。1924年33歳の時に独立し、その後CBSフィルム・セールス・カンパニーという映画製作会社を作り、後にコロムビアと名前を変えた。その後死ぬ67歳まで社長兼製作部長を勤めた。

 

 以上6つのメジャーの始まりはユダヤ人によるものだとわかったが、この他の大きなメジャーとしてユナイテッドアーチスツ(以UA)とRKO(Radio-Keith-Orpheum)ピクチャーズ(以下RKO)の2社がある。

UAはチャップリンを初めとする大スターの俳優人、監督のグリフィスらがより良い映画作りのために創立した映画の製作配給会社だった。彼らはユダヤ人ではなかったが、初代会長のオスカー・プライスと初代社長のハイラム・エイブラムスはユダヤ系だった。また、エイブラムスの後にはユダヤ系ロシア人のジョセフ・スケンクが社長に就いた。彼はその以前に弟のニコラスと、マーカス・ロウと共に劇場チェーンのロウズ社を作っている。

 RKOは1926年にRCA(Radio Corporation of America)の経営者でユダヤ系ロシア人のデビット・サーノフが、劇場チェーンのKAO(Keith Albee Orpheum)と映画配給会社のFBO(Film Booking Office of America)を合併して完成した。RKOの前身であるFBOの設立者ハリー・バーマンもまた、ユダヤ人である。RKOの代表作には、『ファンタジア』『市民ケーン』がある。これらのように、以上2社は創業、設立者こそユダヤ人ではないが、重要な地位にユダヤ人が関わっている。

 ここで注目したいのは、ユダヤ人創業者の多くが衣料品会社、毛皮商、裁縫師などの衣服産業に従事していた経歴を持つことである。衣服産業は移民の大量流入以来、東海岸地域でユダヤ人の寡占していた産業として有名であるが、欧州からの移民以前にもユダヤ人は衣料含む手工業が得意であり、これが移民後にユダヤ人社会の経済基盤となっていたことが、後の彼らの映画への進出にも繋がっていると考えて良いだろう。1888年の時点でニューヨークの241の衣服工場のうち234がユダヤ系の経営で、1913年にはニューヨークの最重要産業になっており、1万6552の工場ほぼ全てがユダヤ系の経営だった。

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