第2話
十一才の夏。
瑞紀は車窓に広がる和歌山の海を眺めていた。南北に、そして東へ果てしなく続くような明るい水色の海は瑞紀の住む神戸の四角い海とは違うもののように見える。
隣では従兄の隆哉が眠っている。酒の臭いがする。ゆうべ瑞紀の父、進二と二人で呑んでいたのだ。大阪の大学院に通う隆哉は毎年夏に瑞紀を連れて和歌山の実家へ帰省した。その際、神戸の斎藤家に一泊し進二と酒を酌み交わすのが恒例になっていた。
その晩、瑞紀の母の真紀子は言葉少なだった。進二たちは経営する洋食屋の二階のパーティールームの片隅で、男二人だけとは思えないほど賑やかに呑んでいた。真紀子は夫らのテーブルと調理場の間をつまみを持って行き来するほかは、レジの前で静かに店内の客に目配りしているようだった。
進二と真紀子の間にある緊張感に隆哉は気づかなかったのだろうか。
ぐうぐういびきをかきながら肩にもたれかかってきた隆哉を瑞紀は押し返した。
「隆にい起きいや 。そろそろ着くんちゃうの」
隆哉が薄目を開ける。ちょうど車内放送で次の停車駅の名が告げられた。
「まだまだ先やあ。ギリギリまで寝かしてくれえ」
瑞紀に背を向けるようにして、隆哉はまた目を閉じた。瑞紀は小さくため息をつく。酒好きで豪胆なところのあるこの従兄は、放埒な瑞紀の父と気の合うところがあるようだった。血の繋がりはないのに兄弟のような二人だと瑞紀は思う。
列車が駅に着き、客が数人、瑞紀たちの車両に乗り込んできた。通路を歩いてきた男が、瑞紀たちの側で立ち止まる。
「おやあ」
男は呟くと、眠っている隆哉の顔を少し覗き込み、そのまま向かい側の席に座った。
「隆哉ぁ、隆哉ぁ」
男に呼ばれて、従兄が目を開ける。瑞紀は横目でそっと二人を見ていた。
「おおマサおじちゃん」
目を見開くと、隆哉は大きな声で応えた。
男は瑞紀の父よりも年かさに見えたが、大人の年齢を見た目で判断するのは自分には難しい、と瑞紀は思う。しばらく近況などを話した後、「マサおじちゃん」は瑞紀の方に視線を移して言った。
「隆哉、この子お前が連れてんねやろ。居眠りなんかしとったらあかんやないか」
「ああ。真紀子おばちゃんとこの瑞紀やで。毎年、夏休みにうちに来とるやろ」
「はあー、瑞紀かあ?なんや、お前、大きなったら少しは男っぽくなるかと思うたら、ますます女の子みたいになってしもて」
急に親しげに話しかけられても瑞紀にはどうしてもマサおじちゃんが何者なのかが思い出せない。隆哉とマサおじちゃんの会話から察すると、どうやら隆哉の実家のある町に住む遠縁の人間らしい。
「相変わらず生っ白いなあ。部屋の中でゲームばっかりしとんやないか?今何年生や?」
「六年生です」
「もうそんなかあ」
マサおじちゃんは瑞紀の赤ん坊の頃のことや、四、五才の頃に一緒に海に行ったことなどを話した。
瑞紀にしてみれば、ほとんど初対面の中年男に自分の小さい頃のことを昨日のことのように語られても、どう反応していいのかわからない。大人と子どもの時の流れの速さの違いを感じる時、瑞紀は何故だか淋しいような、心細いような気持ちになる。同じ場所にいるのに違う世界で生きているような心地がする。
アナウンスが次の停車駅の名を告げ、隆哉は棚の上の荷物を下ろし始めた。
「隆哉、うちの車に乗りや。迎えが来とるはずやから」
「おお、助かるわあ」
瑞紀も大きなデイパックを背負うと立ち上がった。
改札を出るとマサおじちゃんは向こうに見える白いミニバンに向かって手を振った。運転席に座っている中年の女性が手を上げる。
「電車の中で隆哉に会うてなあ。生沢さんとこに回ってってくれやあ」
「すいません、遠回りになるけど」
「まあ隆哉くん、ちょっと見いひん間におっちゃんになったなあ」
「久しぶりに会うて、いきなりおっちゃんはないわあ。まだ二十四やで。」
瑞紀はデイパックを背中から下ろし前に抱え直して車に乗った。
「失礼します」
「可愛いね。どこの子?」
「真紀子の息子の瑞紀や。よう似とるやろ」
「あら真紀ちゃんの?どうりで可愛いわ」
そんなに母に似ているだろうか。瑞紀はルームミラーに映る自分の顔を何とはなしに見てしまう。確かに男らしいとは言い難い顔だ。髪が伸びすぎているからかも知れない。最後に床屋に行ったのは三月の終わりの頃だ。それまでは二カ月も散髪をしないでいると母の真紀子に口うるさく言われた。その度に瑞紀は千円札を二枚握らされ、渋々床屋へ出かけた。しかし、この四月から真紀子はぼんやりしていることが多くなり、瑞紀の散髪のことなど忘れてしまっているようだ。床屋嫌いの瑞紀はこれ幸いと髪を伸ばしっぱなしにしている。
窓の外に目を移す。
この町はいつ来ても変わらない。瑞紀がそう言うとマサおじちゃんは、刺激の少ないこの町を嫌って若い人が都会へ出て行ってしまう、と嘆いた。
駅から五分ほどでもう生沢の家が見えてくる。畑に囲まれた古い農家だ。車を降りて周りを見回すと、変わらないと思った風景の中におもちゃのような新しい住宅が三軒並んで建っているのが小さく見えた。以前は田んぼだったところだ。
隆哉の母の照が出てきた。車のエンジン音で気がついたのだろう。
「おかえりー。疲れたやろ。正男さんたちに出会うたの」
「電車の中でな。皆元気か?」
隆哉が言う。
「こんにちは、お世話になります」と瑞紀が言うと、伯母は「よう来たね」と変わらない笑顔で応えた。
おーい、と遠くから声がする。声が聞こえる方を見ると自転車が真っ直ぐに走ってくる。ものすごいスピードだ。そんなはずはないのだが、車より速いのでは、という気がして瑞紀の顔はひきつった。
「花火じゃあ!」と言いながら、少年の乗った自転車は瑞紀のすぐ脇に急停車した。鳥肌の立つようなブレーキの音に瑞紀は耳を塞ぎそうになる。
「久しぶりやなあ、元気か?」
従兄の颯真が白い歯を見せて笑った。
上がってお茶でも、と言う照の誘いをやんわりと断って、マサおじちゃんたちは帰って行った。
颯真は自転車の前カゴから手持ち花火の入った袋を取り、瑞紀の肩に手を置いて歩き出す。
「夜になったらやろうや。すげえぞ。背中のリュックの中、全部打ち上げ。飛ばしまくるで!」
「相変わらず派手なん好きやな」
そう言うと瑞紀は頭半分背の高い、同い年の従兄の顔を見上げた。去年よりも精悍さが増したようだ。
「兄ちゃん、おかえりー」
玄関から今年五才になる瞬が飛び出してきた。ただいま、と言って隆哉が抱え上げる。きゃっきゃと笑う瞬を見て、瑞紀は少し驚く。去年はまだ赤ん坊に毛が生えたくらいにしか思われなかった瞬が陽に灼けて逞しくなり、ずいぶん少年らしくなっていた。
「瑞紀兄ちゃん、今日花火すんねんで。颯真にい、どんなん買うて来たん?」
「ようけ打ち上げあんで。見てみい、これ」
「うわあ、いややあ。ぼく出来へんもん。こわい」
「手持ちもあるがな」
玄関の土間に入ると、祖母のタキと従姉の奈苗が上がり口に腰掛けていた。すぐ脇にある台所から千春が顔を出す。この娘も従姉だ。
「よう来たねえ。入り入り」
「お疲れ。麦茶でええ?」
「ええよ。冷たいのんなら何でも」
生沢の家の人々は皆、声が大きい。家族が多いと声が大きくなるものなのだろうか。一人っ子の瑞紀はここに来る度にこの家族の雰囲気にしばらくは圧倒されているのだが、嫌ではなかった。
靴を脱ぎながら瑞紀は奈苗の腹をまじまじと見た。
「でかいなあ。いつ生まれんの」
「あと一週間で予定日やわ。瑞紀が居る間に生まれるかも知れへんね」
奈苗は大阪に嫁いでおり、出産のために里帰りしていた。お腹の子は男の子だときいている。
千春が麦茶を用意してくれている間に、瑞紀は仏間へと足を運んだ。線香に火を灯し、手を合わせる。壁には瑞紀が一年生の時に病死した祖父と、まだ若い時にビルの建設作業中に事故で亡くなったという伯父の写真が架けてある。母の真紀子は末っ子だ。生沢家のすぐ近くに、母の姉の峰子が嫁していた。
茶の間に戻って麦茶をもらって飲んでいると、千春が向かい側に座った。
「瑞紀はまだまだ可愛い顔してんな。颯真なんか、どんどん男臭くなってなあ。昔は可愛かったんに」
おおげさにため息をつく千春の隣に、奈苗がよいしょ、という感じで腰を下ろした。
「目鼻立ちは似てると思うけどなあ。なんでこうも印象が違うんかな」
確かに瑞紀と颯真はくっきりとした二重の目元がよく似ている。もっと幼い頃、二人はよく見間違えられた。しかし小六になった颯真は眉が太くなり、肌は陽に灼け、髪は真っ黒だ。全体に色素の薄い瑞紀にはない逞しさが感じられる。それに颯真は長身だ。瑞紀も同級生の中では小さい方ではない。しかしがっちりとした颯真と並ぶと細身の瑞紀は少女めいて見えた。
表で瞬のはしゃぐ声が聞こえる。伯父の泰司が帰ってきたらしい。瑞紀が土間に下りて出迎えると泰司は大きな声で言った。
「瑞紀!大きなったなあ。よう来たよう来た」
頭を抱えられて髪をくしゃくしゃにされながら、瑞紀は子どもの時間の始まりを感じていた。
夕食の後、瑞紀は母にメールを打った。着いたらすぐに連絡するという約束だったのだが忘れていた。
『ぶじつきました みんな元気です』
メールして一、二分後にタキの電話が鳴った。
「もしもし、ああ、真紀子。元気?うん、ええよ……ええって、そんなん気にせんといて。うん……そう。真紀子も暇作って早めにおいでえや……瑞紀やろ、ちょっと待ってな」
メールだけで済ませようと思っていた瑞紀だが、仕方なく電話を受け取った。
「うん……ごめん、忘れてた……うん、大丈夫やから……わかってる……おやすみ」
タキに電話を返すと、颯真が傍に来て言った。
「えらい素っ気ないな。お前お母ちゃんと話す時ってそんなやったっけ」
「えっ……そうかな、わからへん」
「そんな年頃やわ。照れてんねんな」
奈苗が言う。
「そうそ。ガキの颯真とは違うわよ。ホホホ」
そう言って笑う千春に向かって颯真は蹴る真似をした。
照れているわけではなかった。
電話の向こう側に神戸の家の気配が感じられた。調理場の水音と食器類のぶつかり合う音がしていた。忙しい時間帯だ。真紀子は大きな声で早口で話していた。素っ気なかったのは真紀子も同じだ。今日は父は店に来ていないのだろう。素っ気なくはあったが活気のある様子だった。
「行くで」
呼ばれて、颯真を見上げる。
「どこに?」
「庭や庭!花火や花火!何ぼーっとしとるん」
「瑞紀兄ちゃん全然返事せえへん。三回も呼んだんやで」
瞬が瑞紀の手を引く。促されて庭へ出ると夜のひんやりした空気が体を包んだ。
瞬がタキの傍で手持ちの花火をしている。瑞紀はその隣に立って同じ花火に火を点けた。
「瑞紀兄ちゃん、今日お座敷で寝るやろ。ぼくの隣においでな」
「うん。でも瞬、もうお父ちゃんお母ちゃんと一緒に寝てへんの?」
「瑞紀兄ちゃんがおる間はお座敷で寝る」
両手に花火を持ってぐるぐる回しながら颯真が近づいてくる。
「おれも当分座敷やで。よろしくなぁ瑞紀」
「しゃあないな」
「なんや、瞬に対する態度と違うやないかい」
隆哉が帰省している間、颯真は普段使っている六畳の部屋を追い出されてしまう。隆哉いわく「本来はおれの部屋」なのだそうだ。夏休み、瑞紀がいる間は、隆哉が東の六畳、伯父夫婦が西の六畳で眠る。奈苗と千春は屋根裏部屋だ。瑞紀、颯真、瞬、そして祖母が座敷に枕を並べることになる。
手持ちの花火が終わった。
「よおし、これからが本番や。いくでえ」
颯真がロケット花火に点火した。瞬が耳を塞いで瑞紀に身を寄せる。ぱん、ぱん、という音が鳴り終わらぬうちに、今度は隆哉が並べて置いた噴出花火に次々と火を点けてゆく。ロケット花火と違って、こちらは音が大きいだけではない。赤い光が青くなり、白に変わり、星のような光の玉が舞い散る。瑞紀はその煌めきに見とれた。
瑞紀にすがりついてしくしく泣き出した瞬が父親の泰司に抱え上げられた。瞬が何か言うと、泰司は瞬を抱いたまま家の中へ入って行った。
「なんや瞬、ギブアップかあ」
振り向いた颯真の瞳が光を映して生き生きと輝いている。
瑞紀は最後の花火が終わる時まで同じ場所に立ち尽くしていた。火が消え夜の静けさが戻ると、遠くから波の音がかすかに聞こえた。
家へ上がり座敷へ入ると瞬は窓際に敷かれた布団の中でもう眠っていた。祖母のタキはまだ茶の間だ。
「ということは、おれはここで寝るわけやな」
瑞紀は瞬の隣の布団に腰を下ろす。
「仏壇の前はばあちゃんの指定席やねん。ってことで、おれはここな」
颯真が瑞紀の右隣の布団の上に寝転がった。
「瞬は仏壇が怖いねん。この部屋で寝る時はいっつも窓際や。おれも正直言うと、ど真ん前はあかんな」
そう言うと颯真は仏壇に背を向けてタオルケットにくるまった。
そうだろうな、と瑞紀は思う。亡くなった祖父や伯父に恨まれているはずもないのに何故仏様を恐れるのだろう。
亡き伯父には会ったことがないが祖父には可愛がってもらった記憶がある。瑞紀がこの家を訪れると「よう来た、よう来た」などと言った。他にも何か話していたが、フガフガと聞こえるばかりで意味は掴めなかった。ただ祖父が瑞紀を膝に乗せて菓子をくれたりする様子から瑞紀の存在を喜んでくれていることが伝わってくるのだった。
それでも仏様になってしまうと、怖い。ましてや一度も会ったことのない幼い瞬にとっては祖父も伯父もわけのわからない恐ろしいものとしか思われないのだろう。
「なあ、お前なんかおじいちゃんにめっちゃ可愛がられてたんちゃうの。それやのにやっぱ仏壇怖いんか?」
瑞紀は颯真に尋ねたが返事がない。隣を見ると、颯真は白目をむいて眠っていた。
「はやっ」
瑞紀は小さく呟くと、灯りを消して目を閉じた。
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