サマーワーク
@naokisatomi
第1話
序章
「そろそろ着く頃と違うの?行ってきてよ」
母の真紀子は料理の手を休めて瑞紀を促した。瑞紀は返事をしながら充電器から携帯電話を外し、ポケットに入れる。
「荷物多かったらタクシー使っておいで」
「大した荷物はないやろ。まだ引っ越して来るわけやないんやし」
「ごはん、すぐ食べられるようしとくから、寄り道せんようにね」
「わかってる。行ってきます」
マンションの外へ出ると羽織ったパーカーが暖かな風を孕む。瑞紀は川土手の道を選んで歩いた。寒風に首をすくめ、コートの前を深く合わせて歩いていたのは、ほんの数日前のことだ。今日の日差しは春めいて、川沿いに並ぶ桜の枝には小さな蕾がついている。
駅に着き改札とその周辺に目をやる。
まだ来ていない。
瑞紀は駅の構内にあるコンビニで住宅情報誌を取り、パラパラとめくった。
ざわめきに目を上げる。
改札口から人が大勢吐き出されてくる。
瑞紀はその中からひときわ背の高い、肌の浅黒い青年を見つけ出した。
「颯真」
呼びかけて片手を上げると、颯真は「おう」と言って白い歯をのぞかせた。
傍らには、颯真の母の照が立っている。照の身長は息子の肩の辺りまでしかない。ほっとした様子で微笑む照が小動物のように見えて、瑞紀の顔も思わずほころんだ。
「瑞紀、元気そうやねえ。ごめんなあ無理言うて」
「いや全然。おれ暇やし。ゆっくりしてってな」
「あっ、それ、おれの部屋探してくれてたん?」
颯真は瑞紀が手にしている情報誌に目を留めて言った。
「まあなあ。どのへん住むつもりなん?」
「大学近い方がええけど、家賃とかなあ…大阪の相場や交通網のことがまだようわからんからなあ」
そう言いながら颯真は瑞紀の手元を覗き込む。
颯真は瑞紀より頭半分ほど背が高い。
幼児の頃は同じくらいの背丈だったのに身長差は年を重ねるごとに広がっていった。
「まあ、瑞紀んちに行ってからにするか。ちょっと落ち着きたいわ」
「せやな。腹も減ったしな」
瑞紀は照の手からボストンバッグを取ると先に立って歩き出した。帰宅すると、真紀子が颯真たちを歓待した。
照と真紀子はお互いの近況を尋ねあっている。
荷物を置くついでに瑞紀は颯真を自室へと案内した。
「綺麗にしてんな」
「いつもはもっと散らかってんで」
颯真は部屋の隅に荷物を置くと、ベッドに腰掛けた。
「瑞紀、背ぇ伸びたんちゃう?」
「そうか?颯真との差は縮まった感じせえへんけど」
「おれも伸びてるからな」
そう言って颯真は瑞紀の隣に立ち、見下ろした。
「もう女の子には見えへんな、瑞紀」
「そらそうや」
この同い年の従兄は時々、年長者のように瑞紀に話しかける。
颯真には兄が一人、姉が二人、弟が一人いる。颯真の瑞紀への接し方は颯真が兄姉にされていることの模倣かも知れないと瑞紀は思う。
窓を開けて網戸にすると颯真の髪が風に煽られ額が露わになった。
大人びて見える。
真紀子が食事の支度が出来た旨を伝えてくると颯真は嬉しそうにダイニングへ向かった。
「瑞紀はデザインの学校行くんやてね。家から近いん?」
照が湯豆腐を取りながら尋ねる。
「電車乗り継いで一時間くらいやな」
「大阪は学校も就職先もようけあってええな」
颯真が炊き込みご飯を頬張りながら言う。真紀子はお代わりを勧める。
「颯真くんは工学部でしょう。確か隆哉くんも工学部やったよね。隆哉くん元気?」
「元気みたいやで。でも東京には馴染めへん言うてたなあ。もう五年もおるのに」
「関西に転勤てことないの?」
「そのうちあるんちゃうかな。隆にいも希望しとるしな」
「帰ってきたら嬉しいねえ、照さん」
真紀子に言われて照はふっと笑った。
颯真の兄の隆哉は社会人六年目になる。颯真の上の姉は専業主婦だ。下の姉は地元に就職したらしい。弟はもうすぐ六年生。そして颯真は大学生になる。
あの夏は遠くなり、華奢な少年だった自分は青年に近づきつつあるらしい。自分自身のことではなく、颯真とその兄弟たちの変化を知ったことで、瑞紀はそう感じた。
三年前、和歌山の祖母が亡くなった時に訪れた颯真の家は小学生の頃に遊びに来た家と同じはずなのに、妙に狭く感じられた。記憶の中の家より天井は低く、風呂は小さく、まるで僅かに縮小された模型の家に入り込んだような気がしたことを思い出す。
傍らの従兄に目をやる。颯真は三杯目の炊き込みご飯をぱくついている。
その日の午後は情報誌からめぼしい物件を選び不動産屋に電話で約束を取り付けるところまでやり終えた。実際に部屋を見て回るのは明日以降だ。
瑞紀がベッドの横に布団を敷くと風呂上がりの颯真が部屋に入って来た。
「颯真、ベッドと布団どっちがええ?」
「布団。ベッドの中で女の子の長い髪の毛とか見つけたらショックやからな」
「何言うてんねん」
颯真は少し笑って、さっそく布団に寝転がった。三月とはいえ夜は冷え込む。
「寒うない?毛布もう一枚出す?」
「いや、充分」
颯真は布団の中でうつ伏せになると住宅情報誌を広げ、携帯電話の画面の何かと見比べている。
「明日中に決めたいなあ。ぱっぱっと」
「いろいろ見て回った方がええんちゃう?」
「都会を歩き回んのは疲れるわ。おれ遠すぎへんかったら、ほんまどこでもええねん」
そう言って颯真は大きなあくびをした。
「瞬はどうしてる?兄ちゃん居らんようなるんで寂しがってるんちゃうか?」
「さあ。そんなことは言わへんけどな。あいつも六年生やし。千春ねえもおるし大丈夫やろ」
颯真は情報誌を閉じ、携帯電話を置いて仰向けになった。ベッドに腰掛けた瑞紀と目が合う。
「瑞紀んちに泊まるて言うたら自分も連れて行けってうるさかったわ。小学校はまだ春休みに入ってないから連れて来られへん」
瑞紀は線の細い瞬の姿を思い浮かべた。瞬は瑞紀を兄のように慕っていた。
長身で骨太な颯真と比べると、ほっそりとして優しげな容姿の瞬は、実際、実の兄よりも瑞紀の方に似ていた。
兄にからかわれて泣いてばかりいた瞬が、もうすぐ六年生になる。
小学六年生だった頃の自分を思い出す。あの頃の自分は瞬の目にどう映っていたのだろう。
颯真は目を閉じていた。
瑞紀は机の上のスタンドの灯りを点け、天井の灯りを消した。
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