別れ話に氷水が躍る

青空一星

飲み残し

「ごめん、別れたい」


 理画りえらしい、率直で堅い言葉だった。付き合って六ヶ月、初めて理画は俺に“ごめん”と言った。堪え性の彼女が言ったそのホン音は、俺がそれほどまでに彼女を追い詰めたということをマザマザと主張していた。

 俺は――


「いやだ」


 原因を追及するでもなく、否定の言葉を投げた。そんな俺に理画は


「そういう所が嫌なの、私のことなんて何も考えてない。自分勝手なあなたが大嫌い」


 そう言って店を出て行った。昼間の喫茶店、賑わう店内でこの卓だけが静まり返っていた。

理画は出されたお冷やに三口だけ口を付けて出て行った。あの真面目な理画が、別れの言葉を告げるためだけに店へ入り、十分の無言の後、ベラベラと理由を告げる間もなく出て行ったのは理画の固い意志の表れか、それとも俺への当てつけなのか。

 あいつはそんなことしないか。


ピンポン


卓上の呼び鈴を鳴らす。


「サンドイッチとコーヒーで」


 その後、卓上にはシャキシャキと鳴るレタスに瑞々しく果汁を垂らすトマトが活きたサンドイッチと、砂糖とミルクを降り注いでも薄まらないほど濃いコーヒーが運ばれ、やがて空になった。コーヒーの中に水を入れたのは初めてだった。結局旨くなるわけでもなく、自身の計画性の無さにムカムカしたが薄まればそれで良かったから問題ない。

 彼女のグラスには依然水と氷がそのままにされてある。氷は小さくなり、やや水が増えただろうか。そんなことを気にしてもしょうがないとグラスを置き、店を後にした。



 帰り道。空はあら暮れ、風はさびれ吹く。足取りはぎこちなくて、酒でも注して平常に戻さなきゃなと思っていた。

 そんな折、不可思議な二人組が現れた。片方は中学生くらいで、もう片方は大学生くらいの女の子たち。不可思議だと言ったのは会ったこともないはずなのに両者からガン飛ばされていたから。


「あなた、さっきの喫茶店で何したか分かってます?」


 中学生が言った。別れ話を聞かれてたのか? それにしてもガンを飛ばされる謂れはない。


「知ったこっちゃないです、なんで怒ってるんですか」


「知らんフリとは、些か人情に欠けるのではないですか?」


 大学生が言った。人情だなんだと言われてもな。


「あなたたちには関係ないでしょ」


「いいえ! 大いにあります、氷山の一角の下くらいあるでしょ!」


 中学生が大口に喚く。いいかげんうるさいから無視して歩き出す。


「我々はあなたに捨てられたのですから」


 思考が止まり、思わず聞き返す。


「何のことです」


「さっきの喫茶店でお冷やを残したでしょう?」


 大学生が苦虫をかみつぶしたような顔をして訴えかけてくる。意味不明だ。


「我々はそのお冷やです」


 ――意味不明だ。


「別に俺が残したわけじゃないですけど」


 思考が回らず馬鹿に正しく返答する。


「最後に席を離れたのはあなたです! あなたは我々を飲み干す義務があったはず! SDGsをご存じないんですか!」


 中学生が口やかましく人差し指を向けてくる。不可解に理不尽をぶつけられ、俺は奴らが喚くのも無視して家に帰った。


〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

「ふぅ……」


 風呂は心が平穏に落ち着く。理画からの別れ話、不審者からの追及――何も考えたくねぇ。風呂上がりにビールでも飲まなきゃやってられないってもんだ。


「はぁ……」


 ……でも、俺が悪かったよなぁ。子どもの頃から自分勝手だとは言われてたし、「好きだ」とかもあんま伝えられてなかったしなぁ。


「あ゛ーー」


 ……今さら悩んだところで覆水は盆に返らない、悩むだけ損か。

 よし、酒でも飲もう。飲んで忘れた方がいいだろ。ストレスのせいか不審者の声が居間から聞こえる気がするし、今日はもう考えない方が俺のためだ。


ガラッ


「あっ、やっと出ましたー? 待ってましたよ」


 中学生が手をブンブンと振って出迎える。


「どーもー、現実逃避用のビールは頂いておきましたよー」


 大学生が酔っ払った振りをしながら出迎える。


「まじの不審者じゃん」


「うわっ、そんなこと言います? 傷付いちゃうなー。ま、氷なのでちょっと溶けやすくなる程度ですけど」


 お前が氷だったのか。


「本来ならお風呂の中まで入れたのですが、そこは空気を読んで待っておきました。空気も友達なので」


 多分水の設定なんだろうなぁ。


「仕方ない、買いに行くしかないか」



 家を出ると不審者たちも付いてきた。家に留まられるよりはマシだと思うことにする。

 不審者に家を特定されたことで一瞬絶望しかけたが、起こってしまったものは覆しようがない。無視してコンビニへ強行してやる。


「お風呂に入って頭の整理は付きましたか? 自分が悪かったってこと、認めてくれますか?」


 中学生が語尾を上げながら何か言っているが、無視を決め込み歩いて行く。


「外に出て、頭も身体も冷えて、冷静な判断ができるようになったでしょう?」


 大学生が呆れたように言い寄って来るが、無視だ無視。


「飲みたくない理由でもあるんですか」


 中学生の質問に頭が回される。飲みたくない理由?


「飲みたくないってなんだ、もう終わったことだろ」


 中学生がヤレヤレと首を振る。大学生が


「まだ終わっていないのでしょう、だから我々もあなたの前に現れた」


 と勝手なことを言う。そっちから現れたくせに。


「わけの分からないこと言うなよ、お前らなんか知らないし俺にとっては不審者でしかない。仮にあの時のグラスの中身だったとしても、お前らは亡霊でしかない。現実は変わりゃしないんだ」


 そう言ったが何故か震えている自分がいる。寒いからか、イライラするからか。怖いから?


「知らないフリはもうやめましょーよ、「問題はさっさと解決すべき」って理画ちゃんも言ってたじゃないですか」


 中学生がやや声の調子を変えて台詞を吐く。理画のよく言っていた言葉だった。


「何で、そんなこと知ってるんだ」


「水は心を映すって言いません? まぁ私は氷ですけど」


 じゃあ水担当が言えよ、大学生ちょっと無表情になっちゃってるじゃん。


「本当にお前ら、あのグラスの中に居たってのかよ?」


「何度もそう言っている筈ですが」


 大学生が残念な芋虫を見るような目を向けてくる。中学生もそれをマネし出したッ、クソっ。


「じゃあなんだ、お前ら時間を巻き戻したりできるってわけ?」


「「何言ってるんです、そんなことできるわけないじゃないですか」」


 うぜぇ。


「じゃあどうしろってんだよ」


「さぁ? あなたの気の済むままにやったら良いじゃないですか」


「私たちはそうやって消えるので」


 掴み所のないやつらだ。もういいや。


「分かったよ、俺の気の済むようにやるよ。もう時間は返ってこないんだし」


「分かれば良いんです!」


「それでは我らは一旦ここで」


 そう言うと二人は煙のように姿を消してしまった。……本当に人間じゃなかったんだな。


 その夜は珍しく一晩中他人のことを考えて。自分のこれまでを鑑みて。そしてやはり、理画のことを考えた。


〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 午前十一時、俺は彼女をあの喫茶店に呼び出した。拒否されてもおかしくはなかったが、「分かった」と簡潔なメールが返ってきた。理画はこういう律儀な所がある。一方的に話を終えたのをきっと後悔していたんだろう。


 カチャンと音が鳴り、喫茶店のドアが開いて理画が入ってくる。理画は居心地の悪そうな顔をしながらもその目はしっかりと俺を捉えている。やっぱり理画は優しい。


理画は無言のまま席に着き、出されたお冷やに一口口を付けた。


「ごめん、俺が悪かった」


 これまで出て来ることのなかった言葉を口にする。俺は今日、謝りに来たのだから。


「別に、今さら良いですよ。もう終わったことですから」


 理画が目を逸らし言う。他人行儀で俺を突き放すつもりだろう、やり切れないのか一口、二口とお冷やを飲んだ。


「その氷水、俺に飲ませてくれないか」


 理画の動きが止まる。まるでUMAを見たとでも言いたげな目が、俺の次の言葉を待っているように見えた。


「俺はその氷水を飲まなきゃいけない。理画の飲んでくれた分、残りは俺に飲ませてほしい」


 理画はやはり分からないという顔でグラスを卓上に置く。グラスからは手を離していない。


「まだ、そっちの水、あるけど」


 俺の氷水は静かに佇んでいる。


「それは後から飲むつもりだ。まずは理画のを飲まなきゃ話しすらできない」


 俺は真面目だ、そもそも俺のギャグはそこまで面白くないし。理画は俺の真面目さがようやく伝わったのかヤヤもじもじとしている。


「私が昨日残してったから飲もうとしてるの? それで気遣いのつもり? ば、ばかみたい」


 理画はサラニもじもじとしてグラスから手を離そうとしない。その手を包んで俺は真っ直ぐ理画の目を見る。

 理画は口をあわあわとさせて、キッと締めると


「か、勝手にすれば」


 とそっぽを向いて手を離した。俺はグラスを持って理画に再度問い掛ける。


「飲んでもいい?」


「かっ、勝手にすればって言ったでしょ」


「勝手じゃ駄目なんだ」


 できるだけ優しく、それでいて強く訴える。俺はこれまで自分の勝手で理画を苦しめてきた。理画自身からもそう言われた。そんな俺が、謝る場でさえ自分勝手ならやり直すことなんてできるわけがない。


 理画はおそるおそるといった様子でそっぽを直し、なんとかこちらを向くと


「い、いいよ。そんなに飲みたいって言うんなら。飲んでも、いいよ」


 と言ってくれた。理画の傍らであの二人が微笑んでいる。


「ありがとう」


 理画から受け取ったまま口を付け、水を飲み干し氷を砕く。ボリボリと鳴らすうちに頭は冷えて、俺はより冷静になれた。

 ここからが本番だ。


「俺は正直、俺のどこが駄目だったのかまだちゃんと分かってない。もしりを戻せたとしても、また理画に負担をかけると思う」


 その言葉を聞き、やっと調子を戻した理画は毅然として言う。


「それで?」


 昨日の俺とは違う。理画に同意を求めるためにお願いをする。


「俺に教えてほしい、俺の駄目な所。全部直して理画と楽しくやっていきたいから」


 理画と目を合わせて頼み込む。俺が正面切って頼めたのは告白のとき以来かもしれない。


「そういう所だよ、自分のことしか考えてない所。昨日のことも忘れちゃったの」


 理画はより冷静さを取り戻し、一種の哀しさを含んだ言い方で俺に向かう。


「ごめん、一回言って貰っただけじゃ、ちゃんと解らなかったんだ」


 その言葉に落胆したのか理画は目を伏せて席を立つ。


「もう、いいよ――」


 理画が去ろうとするのを、俺は手を掴んで止めた。


「ごめん、俺バカだからさ。その度に言って、何回も言ってくれないと染み付かないんだ。だからきっと俺は、これからも理画をイライラさせると思うし、ストレスも溜めさせちゃうと思う」


「離してよ」


 理画が振りほどいて出口に向かう。だから、俺が言える言葉はこれで最後かもしれない。


「でも、俺は理画と一緒に楽しく生きていきたいんだ!」


 理画の足が止まった。


「理画が偶に見せてくれる笑顔が好きだし、なんだかんだ俺に甘い所も好きで、恋愛に初心うぶなところもイイと思うし、夢のためにひた向きに頑張る姿も好きだ!」


「な、何言って」


「駄目駄目な俺だけど、君のことが好きなんだよ! 理画!!」


「っ、こんな所で言わないでよバカ!」


 店内にいる全員が俺たちを見ている。関係無い、俺は理画にこの気持ちを伝えなきゃいけない。そうじゃないと悔いが残ってやってられない!


「まだ自分のことばっかな俺だけど、必ず理画のことを幸せにしてみせる」


「た、汰汲たくみっ」


「だからもう一度、俺とやり直してくれないかな」


 理画は少し恥じらい、一間だけ逡巡すると、眉をキッと締めてから俺の氷水を取って飲んだ。

 唖然としていると理画が氷を噛み砕き始めた。こんな理画、初めて見た。これはきっと真面目な理画らしい、俺に合わせてくれた返答なのだろう。そう理解できると、より彼女のことを愛おしいと思った。


 ようやく口をカラにした理画がふぅと息を吐き、俺の方へ向き直る。


「私の方こそ、今後はいちいち言うようにするから。……その、ちゃんと幸せにしてよ?」


「あぁ、任せてくれ」


「うおおぉーーッ!!!」


 名も知らないオジさんが歓声を上げ、それを機に拍手が起こる。

 卓上には空のグラスだけがご機嫌に並んでいた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

別れ話に氷水が躍る 青空一星 @Aozora__Star

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画