第1話 天ヶ瀬悠花の順番
嫌いなものを言えと言われたら、天ヶ瀬悠花は《あまがせはるか》は、吸血鬼と答えるだろう。
朝の酷い寝ぐせだとか、枝毛だとか、理不尽なお叱りばかり言ってくるバイト先の店長だとかよりも嫌いだ。
明確に憎んでいる。両親を殺した相手を好きになる理由なんてどこにもありはしない。
もっともこの時代を生きる人間に聞けば、十人中八人はそう答える。残り二人は狂人か死人で答えがおかしいか、答えられないかだ。
この時代、吸血鬼に身内を殺されているものなんてありふれている。悠花もまたそんなありふれた一人の少女だった。
「おはよう、わたし」
夜の八時。これがこの都市での朝の時間だ。夕暮れの明かりも完全に消え失せて完璧な闇が来る時間。
下世話なネオンと溶岩の輝きが都市を照らして、朝の訪れを告げている。
かつて鹿児島市だった都市は吸血鬼に支配され、今や籠島市と呼ばれている。
人間という餌を捕えておく籠の島。そのままだ。
籠のような壁に囲まれたどろどろと熱く煮え滾った溶岩の海の中にぽつんとある小島のような都市で、変身して空も飛べず、人外の跳躍力や再生能力があるわけではない人間は逃げ出すことができずにここにいるしかない。
もっともこんな都市は世界中では珍しくもないらしい。断言できないのは連絡手段が断たれて久しいからだ。
もはや何が原因で何が起点となったのかなど今の時代の人間たちには知る由もないが、ある日、人間を食い物にする人外の化け物が世界を襲った。
それこそゾンビパニックのような有様で、世界は簡単に崩壊した。人を麻痺させる牙、魅了する瞳、銃で撃たれても復活する再生力、怪力、変身能力などを持つ吸血鬼に人間が太刀打ちできるはずもなかったのだ。
いつまでも文明を維持できるものではない。それでも残った人間たちは吸血鬼を阻む宗教結界壁などを築き、その中で細々と文明を維持しながら暮らしているのだという。
かつては世界の裏側にだって己の言葉を届けられたが、今では武装列車を使って数キロ先の隣の都市に言葉を届けるのだって命がけだ。
もっともそれは吸血鬼に支配されていない都市での話であって、吸血鬼に支配された都市では人間にそんな自由などありはしない。
ここ籠島は典型的な吸血鬼都市だ。限られた空間に人を詰め込み、その居住スペースを確保した籠島は、かつて世界最大のスラム街と呼ばれたクーロン城砦の様相を呈している。
悠花は眠っていた布団から起き上がると綺麗に畳んで押し入れの中へと仕舞い込んだ。もののない部屋だった。
もう戻らないから全てを捨てたとでも言わんばかりの部屋だ。
数少ない私物らしいカレンダーが壁に貼ってあり、今日の日付には厳重な赤丸が書かれている。
「やっと今日がきた。やっとあいつを殺せる」
悠花は決意するように呟くと寝間着を脱ぎ捨てて風呂場へと向かった。
シャワーのバルブをひねって溶岩熱で熱せられた熱いお湯を頭からかぶる。火傷しそうな熱さだが、寝ている間に冷えていた手指足先末端を温めて心地よい。
それから入念にそれこそ偏執的に己の身体を磨いていく。まるで余分なものを全てそぎ落とすとでも言わんばかりに丹念に執念すら感じるほど丁寧に洗っていく。
泡をシャワーで流して鏡に映る自分を見る。
今日という日に備えて磨き上げて来た美しい肉体が鏡に反射する。水にぬれた腰ほどまである黒髪は浴室の明かりを受けて黒々と輝いている。
傷一つない肢体はよく鍛えられているようで、わずかに腹筋に割れ目が見られた。肢などカモシカのように健康的で張りがある。
かといって硬いという印象はなく、ほどよく脂肪もあり柔らかい女性的な肉体美がそこにあった。特に鎖骨首筋などは均整がとれていてかぶりつきたくなること請負だった。
鏡の前でくるりと回る。全身に整えられていない場所はない。不精はないし、瑕疵もない。
誰にも見せたことのない裸体であるが、誰かに見せればその誰かを魅了することなど容易いと思えるほどの体つきをした己が鏡に映っている。
それは己が人間である自負と、今日行うことへの自信を与えてくれる。
「良し」
風呂場を軽く掃除してから脱衣所で身体を乾かして各種ケアを行いリビングに戻って壁にかけていた衣類を身にまとう。
学生服だ。セーラー服というもので、この籠島では絶滅危惧種である女子高生の正装である。
着替えて解れや乱れがないかを確認する、三度。忘れ物がないかも三度確認する。
「いってきます」
着こなしに納得いけばそのまま玄関に置いてある部屋備え付けの招き猫を忌々し気に蹴り倒して鍵もかけずに家を出た。
自宅前の階段を降りて比較的広めの通りに出る。相変わらずな有り様に悠花はわずかに目を細めた。
品のない吸血娼館のネオンのぎらついた輝きが照らす通りには所狭しと露店屋台が出ていて、調味料の香りや焼けたなんだかよく知れない食物の匂いが、狭苦しい通りにえぐいほど満ちている。
この通りには天井がある。計画性のない増建築で、通りの上に別の建物ができて別の通りが交差して、と四方を囲まれているのだ。
煙も香りも逃げ場を失い滞留している。一つ良いことといえば、ここにいればかつては鹿児島を悩ませていた火山灰のことを一切気にしなくていいことくらいだ。
人はこんな場所でも必死に生きている。通りを行く人たちには笑顔がある。しかし、よく見ればその笑顔は引きつっていることがわかる。
その理由はどこを見てもわかる。壁や天井、看板などに所狭しと書いてある文字『幸せになれ』のせいだ。
幸せであることは血の味にかかわるのだとか。
吸血鬼の機嫌を損ねれば殺されるのだ。ならばせめて表面上でもそう見せなければならない。こんなところで本当に幸せな人間などいるはずなどないのだから。
しかし、今日はどこか街中が騒がしい。
どこもかしこも何かがあったのか、ひそひそとした話し声が後を絶たない。
「よお、悠花ちゃん、今日だったか」
ふと通りかかった屋台のおじさんが悠然と歩く悠花に声をかけて来た。その顔は笑っていながらも憂いが見え隠れしている。
「はい。今日、吸血です」
「そうか……」
それは何も知らない彼からしたら悠花の寿命が来たという意味だった。
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