September

「寒いな」

と澤村が言ったので頷いた。

「本当に寒いな」


 いつも大学生たちの通り道になっているコンビニ前の通りにも、さすがにこの時間になると人はいない。

 冬の空気が、障害物が無くなった通りをびゅんびゅんと通り抜けていく。


 コンビニの出口の前、着替えている七海が出てくるのを待っているところだった。

 事務所は更衣室も兼用になっているから、外で待たないといけない。七海はいつも着替えが遅い。何にそんなに時間をかけているのかわからないけれど、とにかくいつも待たされた。

 イルミネーションというには小規模に過ぎる商店街のクリスマスの灯りも、日付が変わりそうなこの時間、もうほとんど消灯してしまっている。コンビニの向こうには街灯がぽつぽつと光っているだけ。


 冷え始めた手をこすり合わせていると、「なぁ」と澤村が呟いた。


「ん? 何?」

 そちらを見るけれども、澤村は地面をじっと見つめているだけだった。あまりにも小さな声だったので、空耳だったのだろうかと視線を外しかけたとき、ぽつりと澤村は呟いた。


「お前は七海のこと、どう思ってるんだ?」


「どう、って」

 いつも下らない冗談ばかり言っている澤村に、真面目に取り合ってもろくなことはない。バカにされるかネタにされるかの二択だ。

 でも何だろう、その声は聞いたことがないくらいに真剣だった。俯いた顔は暗闇の中で、表情は見えなかったけれど。


 なんと答えればよいのか分からず、ただ黙ることしかできずにいると、澤村はこちらに顔を向けた。

 思いのほか真剣な顔に、どう反応して良いのか全然分からなかった。


「オレは七海が好きだ」

 澤村のこんな顔は初めて見た。俺の目をここまで真っすぐに見つめるのも。


 でもそれは、全くの予想外の出来事ではない。

 バイト中も、休憩中も、帰りの道すがらでも。二人の様子は嫌でも目に入るから。なんだか分からないけれど漠然とした予感はあった。

 今までただそれに触れずにいられただけ。


「だから、オレはクリスマスイブの日、七海に好きだって言う」


 きっと意図的に目を背けていたのだ。まだ先延ばしにできるって、まだこのままでいられるって。

 例え何かがあるとしても、それは時間に追い立てられた後の話。3月になって、卒業式が終わって、そんなまだまだ見えない遠い未来のこと。そんなふうに思っていた。


「だからお前に聞きたい」鋭い澤村の視線は、鈍い俺を射抜く。「お前は、七海を、どう思ってるんだ」


「どうって、それは」


 七海とは同じサークルだった。

 一人でバイトをするのは不安だから一緒にやらない? 多分色々な人に声をかけようとしたうちの、たまたま一人目。その問いかけに頷いた理由は――もう忘れたけれど。

 あれはいつだったんだろう? 2年前の9月、なんだか暑い日だった気がする。

 他に誰もいない部室で、エアコンが効き始めるのを待ちながら。


「別に答えたくないならそれで構わない。けど」

 けど?

 向こうが目を離してくれないから、こっちも目をそらすことが出来ない。


 俺はまだこの場に留まっていたかった。3人の、この暖かく凪いだ世界に。

 多分澤村はそれを許さない。

 いずれ終わることが約束された世界、ただ優しい柩にしがみ付くだけの、目の前を切り開く努力さえしない俺を。


 でも、俺はどうしたいのだろう?

 返すべき言葉は何度も浮かんでは消える。信号は赤と青を何度も繰り返す。

 何度目かに俺が口を開こうと息を吸い込んだとき、玄関の扉ががちゃりと開いた。


「お待たせー…ってあれ」


 七海はお互いを見ながら無言の二人を見ると、首を傾げた。「どうしちゃったの」


「別に。ただ男どうしの話し合いをしてただけ」

 澤村が答えると、七海は笑った。

「何それ。なんかやらしい話?」

「あぁ。とっておきのやつだ」

「そうですかはいはい凄いねうらやましいね。邪魔だったら先に帰る」


 歩き出した七海を横目に見て、澤村は小声で呟いた。

「お前の答えなんて待たない」そして七海を追って歩き始める。「ただ、義理は果たしたから」


 呆然とその後ろ姿を見送る。二人ぶんの影が近づいていき、同じ速度で歩き始める。

 言おうと思えば言えたはずなのだ。

 何を? 何をだろう。


 そう。だから多分、澤村の言うことは正しい。

 所詮その程度のもの。

 それならば、好きだと言い切れる、伝えたいと言い切れる澤村が七海と一緒にいたほうがいいに決まっている。

 二人の影は今にも溶けて見えなくなりそうで、置いて行かれないようにと歩き出した。




「また今日もクリスマスソングばっかり」

 有線はクリスマスソングをずっと流し続けている。ひっきりなしに続いていた客足がぽつりと途絶えて、手持ちぶさたに隣のレジに立つ七海に話しかける。


 だってクリスマスイブだし。

 って七海が答える。


「コンビニにまでカップルで来なくてもいいじゃない、って思うんだよね、私は」

 大学が冬休みに入ったからなのか、客層はいつもと明らかに違った。普段は誰もが急いでいるのに、今日は楽しそうだ。

「有線のチャンネルの変え方さえわかれば、今すぐにでも演歌チャンネルに変えてやるのに。日本の心を思い出すんだすべての日本人よ」

 今、このコンビニには俺と七海の二人しかいなかった。今日七海に告白すると言っていた澤村は遅番シフトで、もうそろそろ来る頃だった。


 昨日までは何とも思わずに過ごしていたこの怠惰な時間。

 だけどそれも多分、あと少し。

 そう考えると、どう過ごしていいのか、何を話せばいいのかよく分からなくなる。


 BGMがEarth, Wind & Fireの「September」に変わる。


「なんか突然時間が夏に戻った気がする……クリスマスはどこに行ったんだろうか」

 俺が言うと、七海は笑った。

「違うよユー君。この曲は恋人たちのクリスマスソングなんだ」

 って、歌いはじめる。


"My thoughts are with you, Holding hands with our heart to see you"


 七海は英文学科だった。発音が良すぎて何を歌っているのか全然分からない。


"How we knew love was here to stay"


  ほらここだよここー、って謎の合いの手が入るから尚更聞きづらい。


"Now December. Found the love we shared in September"


 そういえば、七海が歌っているところを初めて見た気がする。

 いつもの少し低めの声が、歌うときには想像できないくらいに透明になるんだな、ってどこか遠くで考える。


「っていう感じ。Now Decemberだよ? 分かる?」

「そこだけは聞き取れた……ような……」

「あはは。私の歌も声もきれいすぎて、聴き惚れてしまったのだね」

「TOEIC500点のリスニング力を過信しないで頂きたいのだけど」


 あはははは。

 大声で笑って七海は、

「だけど、ありがとう」

「ありがとう? って何が」


 んー、と唇に人差し指を当てて、

「Do you remember the 21st night of September?」

 ってまた歌い始めた。こんな感じだけど。ユー君は私の恩人なんだ。って。


 9月の暑い日、誰もいない部室の中。


「いや、それが21st nightだったかは覚えてないけど」

「21st nightだよ」レジカウンターに頬杖を突く七海。「そうしようって今、決めたから」

「なんじゃそりゃ」


 そんな俺の無意味なツッコミも気にせず、頬杖をついたまま真正面の時計を見つめている。

 あと20分で澤村が来る、なんて俺はぼんやり考える。

「ユー君がいたから私は頑張れたし、何ならもっと頑張ろうとしてるユー君を尊敬してる」


 七海はそういうけれど本当は、

「ただ踏み出せないだけだよ」


「何を大事にするかは人それぞれだよ。だって、私は好きだよ。ユー君の小説」

 地方の文学賞を取った、2年も前に書いた小説の名前を七海は口にする。


「結局はそれだって、」

 俺は何と言おうとしたのだろう。そんなんじゃモラトリアムの寿命なんて延びない。ただそれは長引いて、首の周りにぐるぐる巻きついているだけ。そんな手触り。

 ただ踏み出せなかった。

 七海の横顔。チョコレート色の髪の向こうの長いまつげ。細い指、時計を見つめる奥二重の目。

 揺れながら落ちる天秤の、もう片側にはたぶん七海が乗っていて、そこに気づきさえしなかった。変に近すぎたから、何も見えていなかった。


「ユー君は、クリスマスって好き?」

 BGMが『恋人がサンタクロース』に変わったころ、七海は言った。まるで歌うように。


「好きでも嫌いでもないかな」

 レジの真正面の壁にかかっている時計を眺めている。澤村がシフトに入るまであと15分くらい。「昔は好きだったけど、今はそれほど」


「何で変わっちゃったの?」

 七海はいつも暇を持て余した時にするように、ふらふらとレジを出てレジカウンター越しの正面に立った。前かがみに、下から覗き込むように話してくる。


「昔はサンタが来たんだよ、俺のところにも」いつもだったら気にならないのに、七海と目を合わせるのが何故だか辛かった。「でも今は来ない」


「サンタクロース信じてるの?」七海は笑った。「なんかイメージと違ってかわいい」


 義理は果たした、そう澤村は言った。


 2年前の21st night of September、誰もいない部室の真ん中、熱い空気の中。

 例えばあの場所で別の選択をしていたら二人は変わっていたのか。


『バイトよりも、一緒に小説を書いて芥川賞を目指そう』とか。

『七海の小説って、何よりも透明だから。他のどの作家よりも好きなんだ』とか。

 そこに、本当に未来はあったのか。


「信じてるよ、サンタクロース」

 目の前の天秤は未だふらふらと揺れて、

「すっごい大きい靴下を飾って寝たりとか?」七海はからからと笑う。


 そんな七海と、視線はずっと重なったまま。

「サンタを信じるのとサンタを待つのとは違うんだ」

 俺もレジカウンターから出る。

 二人の間を隔てるものがなくなった今、七海は手を伸ばさずとも届く位置にいる。両腕で捕えられる位置にいる。


 背の低い七海は、上目使いにじっと俺を見ている。

 俺が次に何をしようとしているのか、今何を考えているのか、すべてを見透かしたような視線。俺自身には未だに何も分からないけれど。


 目の奥と奥が引き合ってぶつかって絡み合う。

「――あなたは、サンタを待たないの?」


 俺はすっと息を吸い込んだ。

 9月21日の部室。一緒にバイトやろうよ。天秤はくるくると回転する。

 何かを言うためなのか、二人の距離がゼロになるって信じていたのかは分からないけれど、確かに何かを言おうとして、


 その瞬間、視界の端に何かが映った。見慣れた何かが。

 そちらに一瞬だけ注意を引かれて、そしてそのまま動けなくなった。


 澤村はコンビニのドア越しにこちらを見ていた。

 何の感情もなくただ観察しているような。その目と、目が合う。


「サンタは良い子のところにしか来ないんだよ」

 いつの間にかBGMは知らない曲に変わっている。

 ドアの外の澤村に入ってこいよと手招きする。

「だから俺のところには来ないけど、七海のところには来るよ。必ず」


 自動ドアが開いて、澤村が入ってくる。入店チャイムの電子音が鳴る。

 澤村は二人に向かって笑いかける。それを見て俺も澤村に笑いかける。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る