2話

「またSNSを見たの?」

「だってDMが来るから」

優れたものが常にそうであるように、彼女の作品には多数の熱烈なファンと、少数の強烈なアンチがついた。

アンチはSNSや掲示板で執拗に彼女の名を出し、自分の好みに合わないというどうしようもない理由からシナリオを批判した。

彼女の目にもそれらは必然的に触れ、そのたびに錆びた刃のように彼女の胸に食い込んでいった。


見るべきではない、真に受けるのはよせといくら言い聞かせても彼女が私の忠告を聞くことはない。

彼女の持つ融通の利かない独自のルールでは、そこに存在するとわかっている現象を確かめないことが難しいようだ。ホラー映画の序盤で死ぬ、頭の足りない登場人物のように。

私からすると彼女は余計なことで勝手に苦しんでいるようにしか見えない。

けれど、その過剰なまでの繊細さはひとたび文章にあらわれると泥沼に咲く蓮のような美しさに変貌して読む人の心を惹きつけるのだ。


だから彼女が泣くたびに慰めるのは私の役目だった。

近くにいれば背をさすり、コーヒーを奢り、どちらかが自宅勤務であれば電話で何時間でも「大丈夫だ。あなたのシナリオは素晴らしい」と言葉を尽くして語りかけた。

「何も思い浮かばない。今度こそ書けない。アンチにもっと叩かれる」と呻く彼女のアイディアの壁打ち役に徹し、その結果、彼女が書きあげるものはいつも前作より大きな称賛を集めた。


 私がそれを見るたびにどんな気分だったか、彼女は知らない。


「もう書けなくなっていいの。でも物語を書くのを終わりにするなら、このまま死にたい」

「いい加減にして!」

「何よ。そんなに必死にならなくても……いいじゃない」

 赤が、ずっと赤が流れていく。

 才能を当たり前のように持っているがゆえに彼女はそれを踏みにじっている。

 そばで奉仕する私よりも、顔の見えない不特定の者たちの声を真に受けて安直に死にたがる。


「私の代わりに全部あなたが書けばいいじゃない」

「無理だよ……」

 最悪だ。いつの間にか私の身体からはすっかり力が抜けている。今すぐにでも助けを呼びたいのに、彼女から離れられない。

 目の奥が熱くなり、ぼとぼとと涙がみっともなく落ちて彼女の頬を汚す。

「私には、できない」

あなたが私を壊した。

「……何それ」

 彼女の顔がわずかに歪む。

 私が彼女の前で泣いたのは初めてだ。

そもそも普段は人前で絶対に泣かないようにしているから、綺麗な泣き方がわからない。

今の私は、きっと見られない顔をしている。


「私のこと、好きなの?」

「……っ」

 瞬きもしないで彼女は私の醜い顔を見つめていた。

「だから親切にしてくれたの?」

「違う!」

 彼女のことなんて好きじゃない。

「そう」

 そんな自分のことはもっと好きじゃない。

「じゃあ――嫌いだからそうしたの?」

「あ……」

「気持ち悪い」


どん、と彼女の血まみれの腕が私の胸を突いた。

言わないで。暴かないで。私はそんなに悪いことをしていない。

どうして私を呼び出したの。まともな人間なら誰もが無視するだろうあの電話で私なら駆けつけてしまうことを、彼女はきっとわかっていた。けれどその理由までは考えもしていない。

彼女の中では、私の感情なんて価値がない。ましてや私自身すら見て見ぬ振りをしてきた浅ましい心なんて。


「嫌いなら殺してよ」

「なに言って――」

「私の代わりに書けなくても、そのくらいはできるでしょう?」

「や……っ」


いつの間にか彼女の手に握られていた剃刀が振り上げられる。必死に逃れようとした私の髪が掴まれ、勢いよく引っ張られる。痛み。恐怖。白紙になる思考。ぐちゃぐちゃに揉み合う身体。視界の隅で流れ続ける血。口の中に飛んできた土の味。助けて。怖い。助けて。

「殺せよ!」「クソが」「殺せ」


 ――変貌。


侮蔑を孕んだ瞳の爛々とした輝きの破片が私に刺さる。その目をずっと恐れていた。視界のすべてが赤くなる。見たくない。見ないでほしい。私を裸にして、惨めにして離れていくのなら、破滅してほしい。私がいなければどうせそうなっていたのだから。美しい文章を歌う指先以外の彼女の肉体は酷く浅はかで、そんな彼女を憎んでいるのか愛おしいと思っているのかさだかではなかった。闇の中では互いの輪郭が曖昧になり、荒くなった呼吸はすでにどちらのものかわからない。今はただ彼女の口からこれ以上醜い言葉が漏れ出すのが耐えられず、その喉元に両手をかけた。息ができなくなった彼女は何も言えない。この手のひらに伝わるぬくもりを、脈動を、二度と私に与えないでくれ。許したくないし許されたくないんだ。二度と元の形には戻れないなら苦しみを終わらせたい。この身体も感情もいらない。消えろ。消えてくれ。


こうなればもう、どちらかしか元の世界には帰れない。

 

どのくらい時間が経ったのか覚えていない。

ふと気が付けば、彼女の肉体からはすっかり力が抜けていた。

目は見開かれ、虚空を見つめている。

私は悲鳴をあげようとしたが、声が掠れ、「あっ」のような意味のない音しか出すことができない。

悪夢の中で叫ぼうとしているときのようだった。

正気と狂気の狭間でたったひとつの事実を壊れたように反芻する。死んだ。彼女は死んでしまった。私が彼女を殺した。


ブーッ、ブーッ、ブーッ。


うつつの世に魂を引き戻すように人工的な音が響き、ひゅっと息を呑む。

スマホのバイブ音だ。私のものじゃない。ここにはもう私しかいないのに、誰かが聞きつけてやってくるんじゃないかという焦燥に駆られる。血の気が失せた指先で彼女の服のポケットを乱暴にまさぐって、四角く光るものを探り当てた。


彼女のスマホには、一件の通知が表示されていた。

どうやらただの予定のリマインドだったようだ。

集中すると周りの音が聞こえなくなるという彼女は、かといって通知音を大音量にするのは嫌いで、スマホを常にサイレントモードにした上でせめてもの対策として三十秒ほどのサウンドがバイブレーションで鳴るように設定していた。

極度の緊張で視界がチカチカしている。大きく息をつくと、次に吸った息に合わせてようやく通知の内容が頭に入ってきた。


――『仮面に命を吹き込むワークショップ』。


彼女は休日にはアート系のイベントに足を運ぶことがしばしばあった。そのうちのひとつなのだろう。

自分のスマホで検索すると、都内で行われるワークショップのウェブサイトがヒットした。

祝祭における仮面の概念についての講義を受けた上で、自分たちの身の回りにある素材で仮面を作るというものであるらしい。

全三回で、初回の日付は……今日だ。日曜の十三時から。

十名の定員はすでに満席となり、募集を締め切っている。

リマインダーにセットされていたということは、彼女はそのうちのひとりとして申し込んだに違いない。

永遠に不参加が決定した彼女は、土の中で眠っている。


私は嘆息し、ワークショップのスタッフがいつまで経っても現れない彼女に首を傾げ、電話をかけることを想像した。

彼女のスマホの充電はその頃にはたぶん切れている。

九名の参加者でつつがなくワークショップは進められる、彼女を取り残した世界で。

別になんということもない。

イベントに申し込んだ参加者が無断キャンセルすることなど、ありふれているはずだ。

彼女は生来の奔放さから家族とは絶縁状態にあり、友達もとても少ないと聞いている。無断欠勤が続けば職場は確認を取ろうとするだろうが、彼女が自宅マンションにいないことが発覚するのはもっと後のことだろう。


だから私は、とにかく何もかも忘れて始発で家に帰り、そのまま夕方くらいまで泥のように眠ってしまえばいい。



×××



 それなのに、午後十二時には、私は新宿伊勢丹をふらつき、彼女がいつも着ていたコムデギャルソンの店に入り込んでいた。

モードのお手本のようなパッツンボブの女性店員はしわくちゃな服に幽鬼のような顔をした私に声をかけるのを少し躊躇う素振りを見せたものの、プロ意識の塊のような笑顔で接客をしてみせた。

「デスクワークを一日中しているので、いわゆる構築的なデザインすぎない方がいいかなとは思うんですが、気分を変えたくて。……別人みたいに見えたらいいなって思います」

おずおずと私が告げた言葉に頷き、店員はすぐさまいくつかのコーディネートを提案する。

持ってきてもらったシャツとボトムスはどちらも特徴的なデザインはしているものの、想像していたブランドイメージよりは遥かにとっつきやすいデザインだった。

それでも試着室で着させてもらうと驚いた。これは上半身も下半身もデザイナーの意図したシルエットをまとうための服だ。

身に着けることで己の輪郭は曖昧になる。それが思いのほか不安ではなく、まるで別の形になったかのような収まりのよさすら感じる。

「とてもよくお似合いです」

 いつもなら心の中で気難しく眉をひそめるようなお決まりの文句も、今日に限っては不快に聞こえなかった。

「ありがとう。気に入りました。着ていっていいですか?」

「もちろんです。タグをお取り外ししますね」


 会計を終えたころには、ぎりぎりの時間になっていた。


ワークショップの行われる六本木ミッドタウンのデザインハブに定刻ぴったりに滑り込む。

最後は走ってきたせいで、エレベータを下りたあともまだ息が切れていた。

証明書の提示を求められたらどうしようと案じつつ、半ば投げやりな気持ちで彼女の苗字を口にした。

幸いにも受付のスタッフは名簿で名前を確認したあと、特に疑った様子もなく「六千円をお願いします」と受講料の支払いを求めてきた。

どうやら私以外の参加者はすでにそろっていたようで、一番前の左側、入り口から近い席しかもう空いていなかった。

座って間もなくするとワークショップが開始された。


「人間の身体は口から肛門まで一本の管で繋がり、外と内の境目がはっきりとは分かれていない。ほら、唇はこのように外に露出しているけれど、中の粘膜との継ぎ目はないでしょう。肉体もまた仮面と同じで、媒介のようなものと言えるのかもしれません……」


 仮面を使った祝祭についての講義をそんな言葉で締めくくった教授は、にこやかな顔でそう告げた。

 肉体が媒介だというなら、きっと今の私にはよくないものが宿る。

 彼女を殺した暗い穴から生まれた怨嗟が呼び込むマレビトは、どんな貌をしているだろうか。

「講義の中でも申し上げた通り、仮面は祝祭において最も重要な呪物です。私は皆さんの力を借りて、このミッドタウンを祝祭の場にしてしまおうと思っているんですよ」

 うっすらとした笑いが波のように部屋の中に広がる。

 先ほど自己紹介を済ませた参加者たちの顔をそっと盗み見る。

 美大卒やデザイナー業の人が多いのではと勝手に想像していたが、職業は金融系から保育士まで様々だった。

 でも、この中の誰が私のように嘘をついていないと言えるだろう。

常人の仮面の下で狂った人間は本当に私だけか。

何もかも現実味がないのに、永遠に終わらない舞台で私は演じ続けている。


彼女の名を名乗っていてはいても、私の振る舞いも外見も中身も彼女とはまるで似ていない。

かといって確かに私自身ではない、今ここにいる私は、何者なのだろう。

今すぐにでも警察がこの部屋に踏み込んで私を捕まえてくれたら、きっと心の底から安堵する。


「来週のワークショップでは、仮面を塗ってもらいます。大抵のものは塗料にできます。皆さん、好きな素材を選んで持ってきてくださいね」

 目にふたつの穴が開いただけの簡素な白い仮面が配られる。

「自然由来の素材は十分に乾燥させてください。特に土は意外と湿っています。天日に干すと一週間くらいかかるので採取はお早目に」

 私は何をしているのか。何を考えているのか。


 テレビやネットのニュースをいくら探しても、彼女の死体が見つかったという報道がされることはなかった


だからその日の真夜中、彼女を殺した穴に戻り、私は持参したジップロックに土を採取した。

彼女は私を非難する気配もなく、目を見開いたまま横たわっている。

唇から吐息が漏れることはなく、胸も上下しない。

硬くて動かなくて作り物みたいだ。

それなのに人形というには生々しすぎる。

かつて生きていたモノが生命活動を停止し、塊となった。

私の震える爪先に恐れと泥が入り込む。

そこから這い出たあとは、彼女が遺したスコップで穴を埋めた。

汗だくになった身体はたちまち冷えていく。

私の身体は、私の意思と反して動いている。

 彼女は死ぬ時に私の魂を連れ去った。空っぽの身体を媒介にして夜が宿る。何かが生まれ出る予兆のように。



×××



「あれ? ××さんはお休みですか?」

「そうみたい。勤怠の連絡は入っていないけど」

 月曜日に出社したオフィスで同僚に彼女の不在を指摘され、素知らぬ顔で答える。

「まあ、あの人、マイペースですもんね。前にもそんなことありましたっけ」

「うん。あとで個人的にも連絡してみようかな」

 乾いた声で返事をする私を、同僚がじっと見つめる。

「……なあに?」

「いや、今日なんかいつもと違いますね」

「え?」


ぎょっとして、キーボードを叩く手を止めた。

「……そうかな。寝不足なのかも」

「あ、顔色が悪いとかじゃなくて。……綺麗だってことです! 誉め言葉ですよ」

 困惑しながら「ありがとう」と返すと、同僚は特に不審に思った様子もなく自席に去っていった。

 大きな窓ガラスに映る私は、私の目から見れば真っ白な仮面をまとっているように何の感情も浮かべていない。

 はたから見ると違うのだろうか。自分が人の目にどう映っているのかわからないことが、怖い。


 意思のない機械のように私は働き続け、時折、同僚たちと心を伴わないいつも通りの会話を交わした。

そして0時が過ぎて誰もいなくなったオフィスで、彼女のデスクの引き出しから私物のキーボードを盗んだ。



×××



「その土はどこから持ってきたものなんですか?」

 2回目のワークショップで人のよさそうな講師に尋ねられ、一瞬だけ返答を躊躇った。

「近所の林からです」

「そうなんですか。いい色ですね」

粉砕した土に膠を混ぜ、塗料にしたものを私は仮面に塗っていた。

参加者の中には仮面を削ったり、逆に紙粘土を足したりして変形させている人たちもいた。

それに比べると私がしているのは地味な作業だ。

和気あいあいと近くの人同士で話しながら作業を進める人も多い中、私は自然と無口になる。土の色を見ていると吐きそうだ。

 

 塗り終えると乾くまですることがない。

 私は仕方なくその日のワークショップが終わるまで、時間を潰すことにした。


 持ってきたPCを開き、カタカタと文字を打ち込む。

 空虚な私から文字列が生まれる。

『この文章を読んでいるということは、あなたはアレを見ましたか。

ありったけの呪詛をこめて創られたあの仮面を。

アレはどんな貌に見えましたか。苦しんでいましたか、笑っていましたか、それとも叫んでいましたか。

これから綴る文字列は真実の吐露。そして彼方へと撒き散らす呪いの言葉。』


一度書き始めると私の指は久しぶりに生命を取り戻していく。


3回目のワークショップで行われるのは、仮面の飾りつけだという。

 2回目から時間が空いたので、その間に私は前回の時間で書き始めた文章を概ね自宅で完成させた。

 『無断欠勤』となった彼女の仕事の穴埋めで業務は忙しかったものの、憑りつかれたように深夜から明け方の時間で執筆した。


そうして書き終えた原稿の下書きを印刷して、フライパンで燃やした。

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