物語る貌

REM酔民

1話

「マレビトは外から迎えられるモノです。異界からやってきた神が人の身体に降り、祝祭の終わりに再び送り還される。その一連の儀式における媒介として最も重要なものが仮面なのです」


教授がにこやかに部屋の中を見渡した。

傍らのモニターからは日本の様々な地域で行われる仮面を使う祝祭についての古びた記録映像が流されていた。

とある島では『外』すなわち異界へ通じているとされる、聖なる泉が存在するという。

その島の祝祭に使われる仮面は泉で清められることで、人ならざるモノと繋がるための媒介として完成するのだ。


私は想像する、昏い洞窟の奥、暗緑色の泉に無表情な仮面が沈められていく光景を。

水から引きあげられた瞬間――仮面の貌は変化している。

そのことに誰も気づかない。

口の両端が吊り上がったその表情は、笑っているようにも叫んでいるようにも怒りで牙を剥いているようにも見える。

雫が涙の残滓のように仮面の頬をつたう……。


「さて、皆さんにはご自身で採取した素材を持ち寄って、仮面を作ってもらうわけですが……その前にお互いの自己紹介をしましょうか」

はっと思考がうつつに戻り、頭の中の幻の泉が掻き消えた。

「そうですね、では時計回りに。左端の一番前の方から」

指名されて「はい」と立ち上がった私は、買ったばかりの服を着ている。

真っ黒なシャツの長い裾をぐるりと飾るフリルが揺れるのを、他人事のような視点で見下ろす。


私はこの服をまだ着慣れていない。


「××と申します。仕事はゲームのシナリオライターをしていて、アートや自然とは縁遠い暮らしを営んでいます――」

笑顔を張り付けて私は喋り出す。

スタッフを除けば十名ほどの参加者が椅子に座り、こちらに視線を向けている。

見たところ三十代が中心で、男女比は女性が圧倒的に多い。

年相応の落ち着いた好奇心の矢印が頬に突き刺さるのを感じながら、参加理由をべらべらと話す。

「今回、このワークショップに参加したのは、祝祭とはまったく関係のない話なのですが、もともとはメタバースに興味があって……。仮想空間でアバターをまとうと、その外見によって人からの態度が変わり、時には自分のアイデンティティにまで影響が及ぶ気がするのが面白いと思ったことがきっかけです。そういうことを考えているときに偶然SNSでワークショップについて知りました。仮面を被ることで人が何かに変身するのか、するとしたらどういう気分なのか……ヒントが得られたら嬉しいです」

これは全部嘘だ。私は適当に話すのが得意だ。

意味のない文字列の羅列をそれが真実であろうがなかろうが流暢に喋り続けることができる。私の言葉はいつも死んでいる。

『彼女』とはそこが対照的だった。


彼女は唇よりも指先の方がよほど饒舌だったから。



×××



か細い指がピンクのキーボードの上で乱暴に踊る。

ダカダカダカダカダカ。

苛立っているのではなく、彼女のやり方はいつもこうだ。

エンターキーを強く打ち付ける彼女の爪の先から命が染み出ていく。

終業後の静まり返ったオフィスに響くタイピング音とともに真っ白な画面が文字で埋め尽くされていくのを、私は後ろからじっと見つめていた。

波に乗っているときの彼女はほとんど躊躇わない。

バックスペースばかり叩く私とはまるで別の作業をしているかのようだ。

「できた」

「お疲れ様。明日までに監修するからコピーをください。次からは締め切りに気を付けて」

私がそう声をかけると、彼女は子供のように唇を尖らせる。

「スケジュール表、目が滑って見づらいの。あの、ガントチャートっていうやつがよくないと思うんだけど」

「チームみんなであれを見て進捗確認するんだから形式は変えられないよ。慣れていかないと」

「でも」

「私だけじゃなくて、デザイナーさんとかスクリプターさん、デバッガーさんの作業も後ろに倒れて迷惑がかかったって、話したよね」


口を一文字につぐむ彼女の目にうっすらと透明の水の膜が張る。

美しい思春期の少女しかしないような顔を彼女はする。

それを見る私が味わうものは、同情と呆れ、侮蔑と憧憬。

複数の感情がブレンドされたカクテルは苦々しさの中に危うい蜜を孕んでいる。


「しょうがないな。締め切りは私がリマインドする。けど、自分でも気を付けて」

「本当?」

 途端に彼女はふにゃりと顔を崩して笑い、そのあとでさすがに少し気まずくなったのか小声で「あの、ごめんね」と付け足した。

私は渋面を保つのが精いっぱいだった。

チームのリーダー会議でも問題児としてたびたび名前が挙がる彼女のフォローは、シナリオディレクターである私の役目だ。

悩みの種でありつつも、こうして私だけに心を開いてよりかかる気配を感じるたびに密かな優越感が疼く。


3年前の入社直後から、彼女は敬語もろくに使えなかった。

社歴としては4年上で、年上でもあった私が構わないと許したのをいいことに、今ではすっかりただの友達のように砕けた口調で接する。

周りからは私の対応が甘すぎると苦言を呈されることもあったが、他のチームに異動しても彼女は上手く馴染めず、結局はプロデューサー陣の判断で私の下に出戻った。

会社の上の人たちが最終的に彼女に寄り添う方針を採ったのは、シナリオライティングスキルという一点に関して彼女が抜きんでて優秀だったからに他ならない。

完全企業所属のシナリオライターとしては異例なほど、彼女の名前はユーザーに知られている。

私たちが制作するのは今の時代には珍しくなったノベルゲーム、読み物が主体のコンテンツだ。

コアなユーザーはシナリオの質にうるさい。

彼女のシナリオは先の読めない展開、キャラクター設定への大胆なテコ入れ、感情を揺さぶる情緒の迸る文章力を持ち、物語への目が肥えたユーザーを熱狂させた。

これだけの筆力があるのなら、企業に所属せずとも売れっ子作家になれる可能性も十分ある。

この会社にいる理由を「うちのゲームのファンだから」とあっけらかんと語った彼女は愚かだと、私は今でも思っている。

皮肉なことに組織の中では彼女よりも私のような人間が総合的には評価される。


彼女というモンスターの手綱を握る、この私が。


「またスケジュールの話で悪いけど、次回の長編を外注に出すって話、考えてくれた? 野崎さんとかなら上手いしうちとも長年の付き合いだからテイストも押さえてもらえると思うよ」

「ああ……うん。それなんだけど」

 彼女は大きな目でじっと私を見つめて言葉を続ける。

「やっぱり自分で書きたい。だめ?」

「プロットまではもちろんお願いするよ。でもスケジュール的に本稿は無理じゃない?」

「休日出勤するから」

「……労働基準法。限度はあることを忘れないで」

「外注に任せたらどうしたってクオリティは下がる。監修でほぼ書き直しになるくらいなら最初から全部私が書いた方がマシ」


 ……なんて傲慢なセリフだろう。


とうに手放した情念の残り火が私の胸の奥をかすかな痛みを伴って焦がす。

それが明確な苛立ちに変わる前に理性の手のひらで握り潰す。

私もかつては彼女と同じシナリオライターだった。


彼女と違って、締め切りを忘れず、企画職とは円滑なコミュニケーションをとり、数字の話もできて――シナリオのクオリティは『問題なし』。

ライターにありがちなメンタル不全を引き起こすこともなかった私に仕事が集まったのはごく自然な成り行きで、だからこそ会社という海に溺れずにいかに効率よく泳いでいくかを考えなければならなかった。

後輩を育成する立場になり、辛抱強くその悩みに向き合って自分のものではないアイディアの壁打ちに付き合う。

企画職からの依頼はまず私のもとに一旦下りてきて、いつの間にか一日に入る会議の回数が増えた。


それでも私は書きたかった。


数か月の深夜残業をして長編を執筆し、それなりの評価を得た。

けれども自分ひとりですべてをやるのは限りがある。

自分が書いた長編プロットを初めて外注ライターに渡して本稿に起こしてもらった時は、思い通りのものが上がってこなかったことに耐えられず目を充血させながら修正した。

シナリオリリース後にそのライターが自分の実績としてSNSで発信し、ユーザーからの期待や称賛を得ている投稿をスクロールしながら飲む酒は味がしなかった。


虚しい。苦しい。わかっている、これは理不尽な憤りだと。

その外注ライターは何も間違ったことをしていない。

ただ単にこの仕事が割に合わないだけ。

そんなフレーズが定時後になると切れかけの電灯のように頭の片隅でちらついて集中を妨げる。


緩やかに私は諦めていく。

外注ライターに手持ちの仕事を片端から投げ、リリースに達するラインのクオリティになるまで監修する。

感覚として、私が書くシナリオを100とした場合、70程度まで引き上げれば売上に影響はない。

些細な文章の手触りの違いに、読み手が気付くことはほとんどない。

クリエイターとして気が狂うのを阻止するために鈍化した精神の表皮は、そのまま社会人としての仮面の厚みとなった。


「ねえ。どうしたの? 黙り込んで。……もしかして、怒った?」

「怒られるようなこと言ったの?」

「言ってないけど……」

 私のご機嫌を伺う彼女はいじらしい。


彼女が入社してから1年後、私は業務内容を監修とマネジメントに完全に絞ってほしいと会社からシナリオディレクター就任の打診を受けた。

要は適材適所だ。書くだけしかできない天才をマルチにこなせる秀才に管理させることで組織という枠組に収めて成果を最大化する。そういう意図だということはすぐに吞み込めた。

今まで会社の利益に尽くしながらも、クリエイターとしての価値を地道に証明し続けてきたつもりだった。

けれど、後からやって来た彼女がその幻想を打ち砕いていく。本人も知らないままに。


「……自分で最後まで書きたいって気持ちはわかった。上と相談してみないと確約はできないけど」

 彼女の肩を叩き、理解者の顔をまとって見つめ返す。

彼女は私とは違う。決して妥協できず、きっと壊れるまで自分で書くのをやめないし、逆にそのせいで誰かが壊れても気づかない。

いい加減にしろ、と思いながらも否定する言葉は喉奥に張り付いて一向に吐き出せない。

「私が他の作業をいくつか巻き取って、あなたの工数に空きを作る。そうすれば長編を全部やる時間もあるでしょう」

「いいの……?」

 駄目といったらまた泣きそうな顔をする癖に。

「いいよ。久しぶりに私もシナリオ書いてみたかったから」


「ああ……! ありがとう、大好き!」

 

抱きついてくる彼女のぬくもりに息が止まる。華奢な肋骨とその上の滑らかな肉の存在を感じる。彼女が愛用しているボディクリームのかすかな香りが鼻孔をくすぐる。

どうして何の衒いもなく彼女はこんな真似ができるのだろう。

どうして私は彼女にとって都合のいい存在になってしまうのだろう。

彼女に牙を剥かれるのが怖かった。


本質しか食べない獣に私の虚飾を見破られて軽蔑されたくなかった。



×××



 深夜残業は昼よりも余計なことを考えて心を蝕む。

それに気づいていたから近頃の私はなるべく避けていたのだが、彼女の仕事を巻き取ってから一ヵ月ほど経ったころには、そう言っていられなくなった。

オフィスに残って消えた明かりの中、光るモニターを睨む。

いつも監修ばかりしていたので、久しぶりのゼロからの本格的な執筆作業だと新鮮な気分でいられたのは最初だけだった。

少し打っては文章を消す。

以前よりも確実に書けなくなっていることを自覚して愕然とした。

アイディアの泉は枯れ、出来損ないの文字列は何も語りかけてこない。

ディレクション業務に必要な理性に脳が偏り、創造性を司る部位への刺激が少ない。そんなことは何の言い訳にもならない。

私の指が駄々をこねる一番の要因は、明らかに彼女だった。

監修のためにすべてのシナリオに目を通す私は、彼女の綴る文章の鮮烈さを誰よりも早く味わってきた。

その体験が私の足を引っ張る。脳を彼女に浸食されている。

視界の端にいつも彼女の物語がちらつき、それと比べると私のそれは死体同然だった。


髪を搔きむしる。

出来損ないのシナリオを彼女に読まれるところをありありと思い浮かべる。彼女に落胆される瞬間の光景を……私はずっと彼女を見捨てなかったのに。

でもそれは私が客観的な人間で、彼女の欠点と美点の両方を把握しているからだ。

主観的な視野しか持たない彼女は私に幻想を抱いている。

それが壊れたとき、透き通った世界に棲む彼女は残酷に攻撃してくるだろう。

 のろのろと冷静さをかき集め、タイピングを再開する。


それを妨げるように、突如、スマホが鳴った。


深夜一時の電話。端末に浮かぶ彼女の名前を見て反射的に通話に出ると、泣き声とも喘鳴ともつかない音だけが耳元でしばらく響く。

社用PCで勤怠を切りながら、どうしたのか、何をしているのかと辛抱強く何度も問いかけることで、十分ほどしてようやく意味のある言葉が返ってきた。


「穴を掘ってるの」

「穴?」

「そう。死体を埋める穴」

「誰の死体?」

「私」



×××


私は自他ともに認める冷静な人間だ。

 それなのに彼女のことになると、思考の羅針盤が狂いだす。

カーシェアサービスで車を借りておよそ3.5時間後、彼女の亡くなった祖母が所有していたものを受け継いだという小さな山の斜面に到着した。

暗闇。不安。動悸。わざと心を麻痺させ、「見つからなければすぐに通報して帰ろう」と自分に言い聞かせて歩き回る。

ぽっかりと空いた穴を発見できたのはそのそばにあったチャチなランタンの灯りと、あとはただの運にすぎなかった。


「××!」

彼女の名前を呼んで穴に駆けよる。思ったよりもずっと深い。

黒々とした影の中に横たわっていた彼女はうっすらと目を開けた。血だ。片方の手首が真っ赤に染まっているのを見て、私は悲鳴をあげる。反射的に飛び下りるけれど、横長の狭い穴では彼女を踏まないようにするのは難しく、覆いかぶさるようにして手首を強く圧迫し、流れ出る赤い生命を少しでも止めようとした。

「うるさいなあ」

「血が、血が止まらない……そうだ、救急車……!」

「だめ!」

 急いで取り出したスマホを予想外の素早さで彼女が奪い、穴の外の暗闇に放り投げた。

「何してるの!?」

「いいから」

 掠れた囁きが耳朶を打つ。穴から這い出ようとする私に縋りつくように彼女の腕が回る。

「どうしてこんなこと」

「どうしていけないの」

 同じリズムで歌うように彼女が問い返した。

わからない。わからない。わからない。

わからなかったから、自分でも思いもよらない言葉が口からまろびでる。

「だって手首なんて切って書けなくなったらどうするの!? あなたは書き続けなきゃいけないのに」

「……は?」


一瞬、呆気にとられたように彼女が声をこぼす。

それから力なく笑いだした。


「あは、ははは。心配するところ、そこなんだ」

「なに笑ってるの……ねえ!」

「だったら大丈夫。私、もう何も書かないから」

「え……」

「書いても書いても、人から批判される。もう嫌なの」

「馬鹿なこと、言わないでよ」

「苦しい」

「……っ」

ひゅうひゅうと、耳元で風のように彼女の息が漏れる。


いつだったか並んで深夜残業をしているときに、彼女が過呼吸を起こしたことがあった。

「苦しい。文字が口の中に入ってきて、喉を塞ぐ。だから息ができないの」

その言葉と彼女の泣き顔が脳裏に蘇り、胸がぎゅっと痛む。そう、彼女の綴る文字は生きている。

生きているのに。

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