第6話 怪しいおにぎり
ひいいっ、と洋子の心が悲鳴を上げる。
途端、キャパオーバーになっていた心のブレーカが落ち、こてんっと、その場に倒れこんでしまう。
洋子が驚いたのは、シオンライナが連れて入ってきた女性の頭頂部とお尻に、犬のようなふさふさの獣耳と立派な尻尾が生えていたからだった。
次に目覚めた時、部屋の中にひとつだけある大きな窓から差し込む光は、最初に気づいた時よりも明るい感じがした。
「あれ?」
記憶の全てがリセットされてしまい、まるで自分はどこの誰だか全く思い出せないような、頭の中にもやがかかったような状態に陥ってしまう。
そのまま深くて暗い闇の中。泳ぐ力を失った魚が深海に沈んでいくように。
息をすることを忘れてしまい、しばらく経つと見苦しさに自分を取り戻した。
慌ててゼーハー、ゼーハーと荒い息を繰り返して呼吸を整える。
そして気づいた。
部屋の左側の壁にいつのまにか置かれているテーブルと椅子。そこに座ってこちらを見つめている、四つの視線。
「シオン……ライナ、さん」
洋子はそのうちの片方を見て、彼女の名を思い出し、口にした。
「目覚めましたか」
「……うん。でもここどこ?」
「その話はおいおいするとして」
出会ったときそのままに、柔らかく包み込んでくれるような愛情の深い笑顔で、シオンライナは微笑みかけてくれた。
水っぽい黒い大きな瞳で見つめられると、なんだか一緒に遊んでよ、と誘われているようで、心が弾んだ。
心の貧しくなった人間に、生きる気力を与えてくれる。
そんな不思議な魅力に溢れたシオンは、隣に座るもうひとつの視線の主を見て、洋子に語りかける。
「改めて自己紹介。私はシオンライナ。くノ一です。で、こっちは黒狼族のリンシャウッド。凄腕の狙撃手」
「は?」
いきなりの自己紹介。くノ一って単語がここでも有効なのが、また洋子の常識にひびを入れる。
黒狼族ってなんだ? 耳と尾と、垂れ目のようでいてそうでない鋭い視線は、動物園で見たことのある狼を連想させる。
つまり、黒い狼の獣人だから、黒狼族?
その割に――。
「おい、なんですか、その目は?」
と、長身のくノ一に対して、背が縮んだいまの洋子と同じほどの体格しかない、リンシャウッドは訝し気な声を上げる。
洋子の視線は、リンシャウッドの頭の上からつま先まで、何度も往復して、黒い狼、という言葉に、盛大な疑問を投げかけていた。
リンシャウッドは148センチほど。黒髪、黒目、頭の獣耳と尾は白黒まだらに染まっていて、どっちかと言えばパンダ。
「……パンダ。ふふっ」
と、思わず失礼な笑みが出た。
洋子の漏らした失笑を耳にして、リンシャウッドは尾を不機嫌に左右させる。
隣に立てかけてある黒々とした身長より少し短い長いモノを持ち上げて、その先を洋子に向けた。
「パンダが何かはわかりませんけど、その言い方は面白くありませんね?」
それは洋画のアクション物やオンラインゲームでよく目にする道具……。人殺しができるモノ。
銃……ライフルだった。
「ひっ」
余裕だった洋子の笑みが消え、顔が青ざめる。
ここは異世界? もし彼女たちがコスプレをしているなら、それも嘘ってことになるけれど。
でも、自分が振り乱した髪の色は、どんなに引っ張ってみても……銀色だ。変わらない。
「人をバカにするとどういう目に遭うか、若いうちから知っておいた方がいいかもしれませんね?」
「まっ、違うっ」
「コラ! リンシャウッド、やりすぎ!」
「だって、シオン」
「子供を脅してどうするんですか。やりすぎですよ。銃を下ろしてください」
「むう……。そうやって甘やかすから」
言葉尻を曖昧にして、黒狼は言われた通りに銃を下ろした。
しかし、その目には舐めたら痛い目を見せるわよ? といった怒りと警告がありありと浮かんで見える。
こいつは要危険人物だ。洋子の脳裏に、恐怖心とともにそれは深く刻み込まれた。
目覚めるまでの間、二人はのんびりとお茶を飲みながら、雑誌を読んだりして時間を過ごしていたらしい。
さまざまなイラストがついた表紙を持つ、薄い冊子がいくつもテーブルの上に置かれている。
その脇に、ナプキンのような布をかけて用意されたお皿が目に入る。
なぜかそこにばかり視線が行ってしまう。同時に、またお腹がぐるるっ、と大きく鳴ったのを耳にして、リンシャウッドにぷっ、と失笑されたのが恥ずかしかった。
シオンライナは席を立つと、お皿のナプキンを外して、それを洋子の前に差し出した。
恥ずかしさに頬を染めて俯く洋子は、寝たままの状態から上半身を起き上がらせて、それを受け取る。
冷たくなってしまっていたけれど、それは間違いなく日本食。
海苔に包まれたおにぎりが二個、お皿には置かれていた。
どうしてこんなところにおにぎり?
「なんで? どうしておにぎり?」
「どうして? どうしてでしょうか……ね。私もどうしてこれができるのか、実のところよくわかってないのです」
ニンニン、とシオンライナはまた屈託のない笑顔でそう言い、手ずからそれを食べさせようとする。
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