第4話 くノ一登場

 とりあえず、靴紐をちゃんと縛ろう。なぜかわからないけれど、ポケットの中に二つほど詰め込んでおいたポケットティッシュは、無事だった。


 水の中にいたはずなのに。まあ、いいか。これをつま先に詰めたら、どうにか歩くのには支障が出ないだろう。

 あまりにも暑すぎるので、ダウンジャケットを脱ぎ、空気を抜きながら巻き巻きと巻いて小さく絞り、くるっと裏返しにして手のひらサイズに収納した。


 冬の夜は冷え込むので登山用のコンパクト収納が可能な上着にしておいてよかったと、自分の慧眼を褒めてやる。

 ご褒美なんてないけれど、少しだけ心が軽くなった。


 夜の闇を利用して、ブラウスの中に手を入れて下着をちょっと位置補正。そのまま、スカートの裾を巻き巻きして、膝丈に調整する。

 手首までブラウスを折り曲げ、首に巻いていたネクタイが邪魔だから、ポケットにしまったら、なんとか涼しくなった。


「さて問題です。財布がない、身分証明書がない、化粧用具もない、ご飯もない……スマホだけある。どうやって生きていけばいいのでしょう?」


 と、いうか。

 この異世界? だとしたら、自分の名前は普通なのだろうか。



 伊勢洋子。イセヨーコ。ヨーコ・イセ? 異世界風にかこつけて新しい名前を名乗った方がいいのかも?


 ライトノベルや漫画のおかげで、異世界に関する余計な知識だけは、豊富に取り揃えている気分。


 所詮人間の想像したものだから、本当にここが異世界なら、現代日本人の考えた空想なんて全く役に立たない可能性もあるわけで……。


「この外見が悪い方向に作用しないといいな」


 あまりに綺麗すぎる。

 幼いし、若いし、魔法とかたぶん、使えない。素質はあるかもしれないけど? いや、言葉だって通じるかどうかわからない。


 このままいくと良くて奴隷。愛玩奴隷というやつか? 性奴隷になるのは嫌だなー。

 悪かったら人さらいにさらわれて、内臓を切り売りされたりして。


 人間なのか? それとも異種族なのか? そんな疑問のふつふつと沸いてくる。

 耳は丸いぞ、指先は人間と変わらない。頭の上に獣耳はないし、尻尾も鱗も、羽だってないぞ?


 これからどうなる、異世界!

 たったひとつ分かっていることは……ぐるうううっ、と暗闇の中で盛大にお腹が鳴った。


 空腹だ。

 一番最後に何かを口にしたのは、地球の時間で言えば約六時間前。


 菓子パンと温かい紅茶だった。

 それからもう、何も口に入れていない。


 どうしよう、どうすればいいんだろう。ここから抜け出して歩き出すのがいいのか、それとも誰かに発見されるまでおとなしくしておいた方がいいのか。

 物語だったら美しいお姉さんとか、ガタイのいい面倒見の良いおっさんとか、もしかしたら高名な魔導師とかが……助けてくれるはずなのに。


 最初のイベントどこよ?


「お腹空いたよー。お母さん……」


 母親は二度と戻ってこなくていい。

 続けざまにそう言おうとしたら、「母親はいないようですが?」と上から声がした。


 オレンジ色の月明かりが遮られる。

 ふと目をやると、そこにいたのは壁に。


 そう壁に。

 壁面に蛙のようにして両手両足をついたまま、ぺったりと張り付いてこちらを見下ろしている、女性が一人。


 これまた、美しい人だった。


「あ……え?」

「え?」


 と、洋子と同じような銀髪。瞳の色は黒く顔は丸みを帯びていて、隣のおじさんが飼っていた柴犬を連想させる。

 彼女は、こちらの仕草を真似て、首をかしげて見せた。


 怪訝そうなその顔には、疑問浮いていて、明らかに洋子を不審がっているのがありありと見て取れた。

 これはどう対処したら正解なんだろう。


 洋子の頭は、これまでこんな猛スピードで演算をしたことがないくらい、素早く回転を始めた。


1.年齢相応に、幼い子供と演じてみる。

2.ここはどこですか、日本ですか? と質問してみる。

3.お腹空いたと、可愛らしく愛くるしく懇願してみる。


 ……どれも、眼前で忍者みたいに壁から生えているこの女性が、もし悪人なら。

 すべてが終わりだ。


「こんばんは。あなたはどなた?」


 精一杯、異世界風のセリフを考えてみた。出てきたのは、こんな平凡でありきたりな一言だった。

 でも、それは意外にも功を奏した。


「私はシオンライナ。あなたはどなた?」


 相手はきちんと名乗ってくれた。シオンライナ。日本ではまず聞かない名前。海外でもあまり耳にしたことのない響き。

 今度は、自分の番だ。


 この異世界に馴染むような響きを考えなければ。

 あれ待って。日本語通じてない?


「……言葉が、わかるの?」

「もちろん、わかりますよ」

「へえ」


 へえ、としか言いようがない。

 驚きだ。


 心がバクバクして、焦ってしまって、何も思い浮かばない。

 私って、こんなに人見知りだったかな? と自分の異常さに、思わず考えてしまったほどだ。


「どう、して?」

「どうして?」


 シオンライナ。彼女はきょとんとして、不思議そうにまた顔をかたむけていた。

 今度は壁に四つ足から、手を離して、壁面に……立っていた。


 まさしく、忍者だ。


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