第3話 穴があったら入りたい
しかし、不思議だった。普通ならもっと大はしゃぎするか、落胆するか、号泣するか、とにかくもっと激しい感情の波が起こってしかるべきだ。
普通の人ならこんな状況に放り込まれたら、それこそ絶望とか、期待とか、不安に押しつぶされるとか……。
「ああ、そっか。そんなの全部、捨てて来たんだ、私」
どうやら死んだときに、要らないと捨てた感情があるらしい。心を覗きこんで、整理してみる。
もの悲しいという感情はある。悲しみは感じ取れるらしい。見知らぬ土地、こんな美少女になった自分はどうだ?
美貌をみて感動した。写メを撮って確認する間、何気に楽しかったし、フラッシュを焚いたことで、周囲に発見されてしまうかもしれないというドキドキ感。
恐怖もあった。つまり、喜怒哀楽のうち、抜けている感情はない。
ただ、負のそれに対して、心の感性が鈍感になっているだけかもしれない。
太陽を目にしたら、思い出すのかも……「今は美しい夜だから」、と思いがポツリと口に出る。
それほど、今の光景は幻想的で、どうじに怪しくて、危険ななにかを秘めているようにも感じれた。
ふんっ、と奮起して立ち上がってみる。もちろん、物音を立てないように静かに。
地下室の入り口まで階段を降りていく。スニーカーのサイズが合わなくて、途中、つんのめりそうになった。
「あっぶないなー、もう! 紐、強めに縛って……あれ?」
ハイカットの白いスニーカーは洋子のお気に入りだ。
だから、縛る紐も自分の好きな柄に入れ替えていた。真っ白だった靴ひもが、今では黒に銀や金の星がたくさんついている。
この靴紐を足首辺りまでしか縛っていなかったから、こけそうになったのだ。
つま先に詰め物をして、上まで締めたら大丈夫なはず。いや違う。スニーカーは25.5センチだ。それは間違いない。
なら、両足のそれを脱いで、地下室の入り口の壁に一足ずつ、かかとからつま先までそろえるようにして、上に、上にと目印をつけていけば、自分の身長が計測できるだろ、と気付いたのだ。
さっそく試してみる。自分の靴は、何気に臭かった。
それはさておき。
スニーカーは、六回上に重なった。ちょうど、153センチほどの高さに相当する。
この壁の持ち主には悪いと思ったが、その場所に拾った小石で水平に線を引く。
洋子は裸足になり、その隣に立って顎を引き、身長計測のときの要領で、頭の頂点部分に並行になるように、スマホを横にして並べた。
これでいまの身長が判明する!
スマホの位置がずれないように気を付けながら、おそるおそるその場から身を離した。
「148……くらい? くううっ……小学五年のときの身長じゃん!」
くそっ、22センチも背が縮んだ。なるほどなーそりゃ、ありとあらゆる感覚が違いますね。
ええ、そうですね、と自虐的ににへらっと半笑いを浮かべてみる。
幼いときの自分がどんな顔をしていたのか、思い出せないからそのままスマホ画面を鏡にして写し込んでみたら、それはそれは美しい幼女……いや違う。
それは対象年齢がずっと下だ。
見目麗しい、この世のものとも思えない妖精のような銀髪の美少女が、半笑いを浮かべて間抜けな顔を晒していた。
しかし、これでもまた絵になるのだ。
美人とはどれほど得なんだ、と羨ましくなる。かつての自分は美人ではなかったけれど、そこそこの顔立ちをしていた。
けれどこれはモノが違う。レベルが違う。存在自体が異次元の美しさだった。
「待って……。もし小学五年生の時にまで戻ったとしたら、一気にえ、何歳だ。いまが十六だから……六年。少なくても五年、若返ったってこと?」
若さが与えられて、別人の外見が与えられて、全く見知らぬどこかの異世界に放り出されて、その上新しい人生を生きろ、ということ?
死にたいと思ったのに?
そんなこと誰も望んでないのに! と洋子は心で叫んだ。しかし、あのとき。
ごうごうと音を立てて渦巻く濁流に飛び込もうとした洋子の背を押してくれたあの声は、いまはまったく聞こえない。
思わず見捨てられた飼い犬の気分になってしまった。わん。
「えー……どうしよう。肝心のこと何もわかんないじゃん。ステータス……!」
と、テレビで見た異世界ファンタジーの一シーンを思い出して、小さく叫んでみる。
あれは洋子が置かれている環境と、まさしく同じものだった。といえるだろう、多分。
ただ単純に、異世界転生しただけかもしれないけど。
専門用語を叫んでみても、やっぱりそれは何も効果を現してはくれなくて。
例えば、生まれつき備わった素晴らしい筋力があるとか?
「うぐぐっ……全然、だめ」
試しにレンガの壁を鷲づかみして指先でぼこっと凹ませれるかな、と期待したけれど無駄だった。
ぴょんぴょん飛び上がってみても、素晴らしい身体能力が与えられているわけではないらしい。
夜の眼が効く、ということもなさそうだし、優れた聴覚を備えているとか。鋭い嗅覚を発揮できるとか、目をつぶって第六感が……。
何も――ない。
試した自分があまりにも愚かに思えて、穴があったら入りたい気分になってしまった。
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